【前回のあらすじ】
車検を控えていたが、あちこち不具合もあるので、一応はいまの中古車相場を確認しておこうと SUBARU 認定中古車を見に出かけたが、買ってしまった。
あのころ私は市電で通勤していた
最初に『マイカー』となったのは日産パルサーだったが、そのあとにレガシィ(初代。セダン)に乗り換えたことが、私にとってもう一生スバルの車に乗り続けようと思う決定打になった。
今回、妻と車について話したときに「最初に買ったレガシィですっかり SUBARU 車に魅せられた」という私の言葉に、妻は「どんな車だったっけ。よく覚えてない」という答え。
「じゃあ」とアルバムで家族写真にマイカーも写っているのを探すと、パルサー、レガシィ(1台目、VZ)、レガシイ(2台目、TS-R)の写真は意外なほどない。
なぜだろう?
写真を撮って、もし車の中に見知らぬ『人』が写り込んでいたらパニックになるから、ってことで避けてきたわけではないのに。
それでも、子どもたちのアルバムを開いてみると、いくつかあった。
まず、これがパルサー。後ろからの写真しか残っていない。1991年夏前に撮ったもの。
そして私をスバリストにした、最初に買ったレガシィ。
当時、札幌の山鼻地区にあったひどく古い社宅に住んでいた(外壁は新たにサイディングを貼って
当時、札幌の山鼻地区にあったひどく古い社宅に住んでいた(外壁は新たにサイディングを貼って
ある)。木製の物置は「雪太郎」という商品名だった。
こんなにノーズが鋭角的だったんだぁ。
写真は残っていないが、このフェースは上のパルサーのフェースにちょっぴり似ている。富士重工は1968年から99年の間、日産と提携してチェリーやパルサー、サニーなどの委託生産を請け負っていたそうなので、どこか似た顔になったのかもしれない。
写真は残っていないが、このフェースは上のパルサーのフェースにちょっぴり似ている。富士重工は1968年から99年の間、日産と提携してチェリーやパルサー、サニーなどの委託生産を請け負っていたそうなので、どこか似た顔になったのかもしれない。
下の写真は1991年12月に撮影。つまり、この年の夏ごろに車を入れ替えた。
このとき長男は1歳半すぎ。いやぁ、かわいい。お孫ちゃんたちによく似ている。
そして、そのあとのわが家ではレガシィとしては2台目(2世代目)となる TS-R。
この車は江別に引っ越してから買い換えた。1998年頃のことだと思う。
写真はこれしか残ってなかった。2000年頃、キロロの「ホテル ピアノ」に行ったときに撮影。次男ももう小学生になっていた。
そして、2005年に次のレガシィ・ツーリングワゴンに買い換えることになる。