新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

村上春樹

「街とその不確かな壁」への不確かな理解と感想(3)♪伊福部の映画音楽

MurakamiMachito  辻褄は合っているのだろうか?
 第一部第二部について、「正直言って、この小説、ワケわからん」という感想を書いてきたが、今回は第三部。ボリュームが56ページという短い『部』である。短いながらも「ワケわからん」かった。

 第三部の舞台は『壁に囲まれた街』。
 そこに第二部で登場したM**くん-胸にイエロー・サブマリンのイラストが描かれている緑色のヨットパーカを着た少年-が現われる(なお、わが家ではヨットパーカと言っている)。

 この少年、'私' に、ぼくはあなたと一体になりたいのです、と言う。
 まっ、やらし!、ではなく、

 むしろ自然なことなのです。あなたとぼくが一緒になるというのは。だってぼくはもともとあなたであり、あなたはもともとぼくなのですから

と言うのだ。勝手に新事実を作り上げるなっていうか、ほらねワケわからんでしょ?

 ぼくらはもともとがひとつだったのです。でも、わけあって、このように別々の個体になってしまいました。しかしこの街でなら、もう一度ぼくらは一体になることができます。

 ん?ってことはM**くんは、かつて門衛に切り離された '私' の影だってことか?そう思わせるに十分な発言だ。

 ところが、そのあとで、M**くんは '私' にこう告げるのだ。

 あなたの影は外の世界で無事に、しっかり生きています。そして立派にあなたの代わりを務めています。

 やれやれ。
 福島県の小さな町Z**町にある図書館に館長として勤務し、すでに死んでしまった元館長と会話したり、セックス拒絶症の喫茶店女性店主とスパゲティを食べたりしていた ’私’ は 実は ’私の影’ だったってわけだ。影のくせに夜中に出歩いたりもできるんだ。マフィンを食べたり、なかなか充実した生活をおくっているではないか!(でも、影だったら『薪ストーブ』のことは知らないはずだ)
 でも、ということは、M**くんが '私' ともともとがひとつだったってどういうことだって謎は残ったままだ。ままだし、村上春樹はそれを解決しようとしない。

 さらに、M**くんが門衛に見つからずに壁に囲まれた街に入りこめたのと同じように、最後に '私' は、門衛がいる出入り口に行くこともなく、あるいは『溜まり』の中へ飛び込むこともなく、『心に望む』ことで高い壁に囲まれた街から出ていくことが(たぶん)できたのだ。
 なるほど、だから「不確かな壁」ってワケかい。

 村上春樹の小説は、これまでも不思議な世界、不思議な出来事が描かれるのが常であり、謎が残ろうとも、そこがまたスリリングであり、魅力であった。

 でも「街とその不確かな壁」はなんでもありの世界だ。
 どれもこれも中途半端に放り出されているような印象。
 作者自身はもちろんだが、奥さんや校正にあたった人たちは、この内容になんの疑問も感じなかったのだろうか?
 ある男性のねじれた精神世界をみなさんに紹介します、ってことなら、すべてが「ヘンだけどそういうものだよね」って、未解決のままに解決するんだろうけど。

 読み終わった直後はすぐにもう一度読み直そうと思った(そのうえで感想を書こうと思っていた)。しかし、その後急速に再読意欲が落ちてしまった。「で、このお話は何だったのだろう?」と虚脱感が勝って来たので。

 また、読みたいと思ったとき、いまよりは少しは理解できるのだろうか?

 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「その壁を砕け」。
 1959年の日活映画のための音楽である。

 ↓ 廃盤

IfukubeHayashi
















「街とその不確かな壁」への不確かな理解と感想(2)♪ボロディン/SQ2

MurakamiMachito  過激な性描写はないが、春樹ワールドの典型的女性ではある
 村上春樹の「街とその不確かな壁」。前回に続き消化不良の感想。

 第二部の最初の章、第27章の2ページ目にはこう書かれている。
 私の身にいったい何が起こったのだろう?私は今、なぜここ(、、)にいるのだろう?私にはそのことが-今こうして私を含んでいる「現実」のありようが-どうしても呑み込めなかった。どのように考えても、私はここにいるべきではないのだ。私ははっきり心を決め、影に別れを告げ、あの壁に囲まれた街に単身残ったはずなのだ。それなのにどうして私は今、この世界に戻っているのだろう?私はずっとここにいて、どこにも行かず、ただただ長い夢をみていただけなのだろうか?
 そして、“こちらの「現実の世界」にあって、私は中年と呼ばれる年齢にさしかかった、これという際立だった特徴を持たない一人の男性だ。私はもうあの街にいたときのような、特別な能力を具えた「専門家」ではなくなっている” のだそうだ。

 ちょっとちょっと、どうしても呑み込めないのはこっちの方だ。
 『不思議な話』じゃなくて、矛盾した話になっていないか?春樹さまの頭の中は整理がついてるのだろうか?だったら、何がどうなってんだか教えてほしい。いや、春樹さまがそんなことをするわけがない。どなたか、攻略本を書いてくれませんか?

 第二部で、('ぼく’じゃなく)'私' は書籍取次業の会社を辞め、福島県の図書館の館長に就く。
 そして、まあ簡単に言ってしまえば不思議な体験をするわけ。

 この町でコーヒーショップを経営する女性-’とりたてて美人とは言えないまでも、感じの良い顔立ちの女性だ’-と食事をする仲になるが(このような街でいったい1日に何人の客が来て、ブルーベリー・マフィンが何個売れるというのだろう?)、二人で逢うようになってからまだそれほど経っていないのに、彼女は ’私’ に「簡単に言うと私はセックスというものにうまく臨むことができないの」って早々に告げる。いったいなんなんだ、この女性。
 そしてまた、このあたりですでに口の利き方もなれなれしいというか、まあ、過去の春樹作品にでてくる女性たちと同じようなじゃべり方になる。「多かれ少なかれ、というのは、具体的に言ってどれくらいのことなのかしら?もしよかったら教えてもらいたいんだけど」みたいな。
 過激な性描写がないのはありがたいが、このしゃべり方になって、この女性が最初に出てきたときの好印象は私の中から消え失せた。

 第二部では、壁に囲われた街の壁は ’疫病を防ぐため’ に造られたことが明らかになる。おっ、コロナ禍をからめてきたのか?と思いきや、全然。疫病についてのツッコミはない。
 やれやれ。

 いずれにしろ、「ロシア五人組」で、最後まで名前を思い出してもらえなかったキュイが気の毒だ。無理もないけど。

BorodinSQnaxos この小説のなかに出てくる、「ロシア五人組」のなかの一人ボロディン(Alexander Borodin 1833-87)の弦楽四重奏曲第2番ニ長調(1881)を。

 「街とその不確かな壁」の壁を行ったり来たり(なのかどうかも定かでないが)。

 さて、あとから『ベこ餅』でも買いに行ってくるか。

「街とその不確かな壁」への不確かな理解と感想(1)♪DSch/Sym6

MurakamiMachito  混沌、錯綜、面白いのかどうかも判然としなくなる第一部
 4月13日に発売され、その日のうちに買った村上春樹の新作長編「街とその不確かな壁」。
 4月23日に読み終えたが、自宅にいるときだけ(重いので通勤時に持ち歩くのはやめた。電子書籍にしようと思ったが、そのときはまだ BookLive にはなかった)、さらに毎晩の飲酒後はほとんど読み進まなかったので(読んでも細かなところを忘れてしまうので)、限られた時間の中、私としては早く読み終わった方だと思う。

 前回の長編「騎士団長殺し」のときは、なかなか読み進めなかった。読みたいという気持ちが駆り立てられなくて、読むのが苦痛でさえあった。

 今回の原点となる未出版の封印小説が、のちに私が好きな氏の作品の一つである「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』に書き直されたという情報は事前にマスメディアから得ていたが、それをさらにもう一度よみがえらせた小説(つまり最初の小説「街と、その不確かな壁」の再々書き直しということになる)ということで、むかしほどは新刊を待ち望む気持ちの高ぶりはなかったものの、それでも楽しみにしていた(だから、結果的にではあるが、刊行日に購入することになった)。
 そして、上に書いたように、村上春樹の新作としては久しぶりに先へ読み進みたいという気持ちにさせられ(「一人称単数」、「猫を棄てる」、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、「騎士団長殺し」のときよりは、ということだが)、早く読み終えることになった。

 だが、頭のなかが整理できない内容も多々あった。
 以下、小説の内容がわかるような記述もあるので、「それは困る!余計なことするな」という人は、この余計な文章を読まない方がいいかもしれない。
 また、きちんと内容を把握・理解していないせいで間違った捉え方をしているところもあるはずだ。それはいずれ再読し、大いなる勘違いに気づいたら、またあらためて感想を書きたいと思う。

 「街とその不確かな壁」は三部構成。
 第二部が最も長く、次いで第一部が長い。第三部は短い。
 このアンバランスが良いとか悪いとかそんなことは何の不都合にも私にはならないが、ショスタコーヴィチが自作の交響曲第10番の第2楽章について「この楽章は、特に第1と第3と第4がかなり長いことを考えるとあまりに短すぎるようだ。こうして全曲の構造に若干のはたんがおこった」と述べていた言葉を、私はふと思い出した(全音スコアの解説に書かれている)。
 村上春樹自身は3つの部の長短のバランスに何も思っていない(あるいは逆に計算づく)だろうし、もちろん破綻も起こってない(と思う)。
 ショスタコといえば、この小説の第二部では、「M**」という名の少年が図書館で『ドミトリ・ショスタコビッチの書簡集』を読んでいるという箇所がある。

 さて、第一部だが、現実の世界(17歳の ’ぼく' と16歳の ’本当ではないきみ' がいる世界)と壁に囲まれた街(’夢読みになった私' と 図書館に勤めている ’本当のきみ' がいる街=世界の終り)の2つの世界の話が交互に進む。とはいえ、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のように一章ごとに規則正しく交互に語られるわけではない。

 壁に囲まれた街は、現実の世界のぼくと、自分で ’私は本当の自分ではない’ と言っている16歳の女の子とで作り上げたと、はっきりと書かれている(この女の子はその後、突如音信不通になる)。ということで、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』の成り立ちの経緯についてのガイドブック的物語。ただ、ガイドといっても『教科書ガイド』のように正しとされる解釈が書かれているわけではない。実に詐欺的なガイドブックなのだ。

 どのようにして ’私' が壁に囲まれた街に行くことができたのかなど、あいかわらず不明(16歳の女の子曰く、行きたいと強く望めば行けるらしい)。

 ということは、その壁に囲まれた街は ´ぼく’ の心の中にある想像上の架空の街と考えるのが、そして16歳の女の子はかなり思いこみの激しい夢想家と考えるのが合理的なんだろうが、そう割り切らせてくれないのが村上春樹の病的ワールド。だんだん壁に囲まれた街と現実の世界がいったいどんな関係なんだかワケがわからなくなってくる。「いまの話は、ぼくが空想してた世界と暮らしぶりなんだ」って明るく教えてくれないから、’ぼく’ は。
 さらに、壁に囲まれた街の ’私’ は “壁に囲まれた街と壁の外の世界(現実の街)の、どちらの世界に属するべきなのだろう?私はそれを決めかねている” なんてってワケのわかんないことを言い出す始末だ(151ページ)。
 そう、作者はていねいに状況を説明しているようでいて、実はどんどん私を混乱の世界へ追いやり放置し始めるのだ。いままでの春樹ワールドの不可思議さに輪をかけたあげく、不親切さも加味されているような感じさえする。

 第一部は以下のように終わる。

 現実の世界の ’ぼく’ は、大学を卒業し、書籍の取次をする会社に就職し、さらに45歳になり、出し抜けにすとんと穴に落ち、その後意識が戻ったときに穴の中にいる ’ぼく’ に声をかけたのは門衛だった。門衛は ’ぼく’ が横たわっていたのは、死んだ獣たちを放り込んで、油をかけて焼くための穴だ、と明るい声で言うところで終わる(第23章)。
 つまり死んだ単角獣を焼く穴だが、その穴は壁に囲まれた街の外にある。だから ’ぼく’ は壁に囲まれた街の中には入りこんでないわけだが、でも現実の世界でもないだろう。
 やれやれ、もう私の頭はウニ状態。
 このとき、『夢読み』の ’私’ は、壁の中にいるのか?
 時制もよくわからない。ま、壁に囲まれた街にある時計塔には針がないわけだから、時制なんて考えちゃいけないのかもしれない。

 一方、壁に囲まれた街の ’私’ は、影とともにその世界から外の世界へ出て行こうとするが、結局は居残ることにし、影だけが地下で外につながる『南の溜まり』に飛び込んで脱出を図る、という話で終わる(第26章。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のストーリーと矛盾がない)。

 当初は第一部だけで、この小説は完結するつもりだったそうだが、この第一部だけじゃ「はぁ?これで終わり?勘弁してよぉ~」ってことになったに違いない。

 ってことで、感想を書くほど全然よくわかっていないくせに-強いて言えば「よく理解できていません」というのが感想-さらなる続きはまた今度。

 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第6番ロ短調Op.54(1939)。
 このシンフォニーもバランスが悪い。3楽章構成だが、第1楽章が約20分。しかし第2楽章は約6分、第3楽章は約8分だ。つまり全曲の半分が第1楽章。しかもこの第1楽章、ひどく暗い……
 ショスタコは第10交響曲であんなことを言って反省しているが、反省しているふりで、別に楽章間の長さのバランスなんてもともと考える気はいつもなかったんだろう。


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ミートが肉盛りに進化し熱量が1.4倍に!♪JSB/平均律第1部第14番

  バターよりもソーセージの方が高カロリー?
 『〇〇盛り』というと、みなさんが連想するのは『大盛り』『山盛り』『デカ盛り』『ごつ盛り』『てんこ盛り』『女体盛り』などだろうが、このあいだ(4月13日木曜日)私が体験したのは「肉盛り」だった。

 セブンイレブンの「肉盛りコンボ」である(税込み648円)。

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 男盛りは、いや間違った、肉盛りは何かを象徴もしくは挑発するように、あるいはこの弁当を参考にしたかのように、長いウインナーがドンと置かれている。そこが以前紹介した「ミートコンボ」との大きな違いだ。

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 「ミートコンボ」との違いはそれだけではない。チキンはニンニクやショウガを使っているということではあるが、私には素朴な塩コショウ焼の味しか感じなかった。バターはのっていない。スパゲティはトマトソースから、ことらはピリ辛にんにく風味になった(これはけっこう美味)。ハンバーグは(たぶん)大きく変わっていない感じだが、「ミートコンボ」のときのような感動はなかった。

20230413Nikumori2

 そして同じ『コンボ』なのに「肉盛り」が「ミート」と大きく違うのは熱量。
 「ミート」が(バターがのっていたのにもかかわらず)600kcalだったのに、こちらはなんと859kcalもある。これは「チキンステーキ丼」の684kcalをも大きく上回っている。なぜにして、こんなに違うのか?
 あの長い竿状の肉塊1本だ20230413Harukiけで、そんなにカロリーがはね上がるものなのだろうか?

 よくわからないが、食べ終わったあと十分すぎるほどのおなかが満たされたことは間違いない。

 バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「平均律クラヴィア曲集第1部 24の前奏曲とフーガ(Das wohltemperierte Clavier, 1 teil, 24 Praludien und Fugen)」BWV.846-869(1722完成)から、第14番嬰ヘ短調BWV.859を。

 いまふと思ったのだが、宮部みゆきの「火車」で、そこに登場する女性が行方知らずの空白の期間を経たあと、生ものをまったく食べられなくなったという表現があるが、女体盛りをさせられていたとかということなんだろうか?

 なお、この日発売になった村上春樹の「街とその不確かな壁」を、なんだかんだいって、この日のうちに買ってしまった。

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文庫本とその不確かな賞賛文♪J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲

  うまくいかなかったものをよみがえらせる?
 原田ひ香の「三千円の使いかた」(中公文庫)を読んだ。
 妻が BOOK OFF で買って来て読み、「おもしろかった」と言っていたので、貸してもらったのだ。
 BOOK OFF で買ったということは少し前の本なのかと思いきや、先週のひな祭りの日の道新朝刊にも広告が載っていて、ベストセラー ing 状態、バリバリ現役だと知った。それにしても、こういう広告で誰とも知らない人の感想を載せていることが多いが-それもどの本でもだいたい同じような絶賛-、どこまで本当(本物)なのかとついつい眉に唾をつけたくなってしまう。

HaradaSanzen3

 それはそうと、確かになかなかおもしろかった。が、残念ながら、私には自分もここに書いてあるようなことを実践してみようかという動機付けまでには至らなかった(あっ、これはノウハウ本ではなく『家族小説』である)。

HaradaSanzen1

HaradaSanzen2

 その前日の北海道新聞朝刊には村上春樹の新作についての記事が載っていた。
 新作の出版が記事になるっていうところが、さすが村上春樹である。

MurakamiHarukiKabeAd

 なんだかんだ言って、でも私はこの本は買うんだろうな。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はとても好きな村上春樹小説だし。
 
BachBrandenCasals バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のブランデンブルク協奏曲カザルスの演奏で

  三千円の使いかた by MUUSAN
 先週、A社回平さんから電話が来た。
 回平さんは帯広支社と名古屋支社勤務時代の同僚で、帯広から名古屋へも同じタイミングで一緒に異動した。
 そしてまた、回平さんと話すのはおととしの暮れ近く以来、1年3カ月ぶりだ。

 「お久しぶりです。回平です」
 「こんにちは。お久しぶりです。元気でした?」
 「はい。あの、実は千葉さんから『なごや会』をやろう。幹事は回平さんにお願いしたい、と言われまして、あのころ名古屋支社で一緒に仕事をしていまは札幌にいる人たちに電話しているところなんです。3月〇日を予定してまして、ぜひともMUUSANさんにも参加していただけないかと思って電話しました。もう、上原さん牛坂さんからは出席の返事をもらってます」
 「えっ、もう OB になった私なんかが参加してもいいの?」
 「ぜひ」
 「ありがとう。じゃあ、よろしくお願いします」
 「では、お店とかが決まったらまた連絡します」

 こうして電話が切れた。先日は「なごやか会」(この名は私がかってに命名)が開かれたが、今度は「なごや会」(この名は千葉さんが言っていたという)である。「なごやか会」はどちらかというと私的なつながりのメンバーだが、「なごや会」は当時の仕事のからみが濃かったメンバーが集まるような感じがしている。
 そして2日後にメールが来た。
 そこには店の名前と、会費は三千円と書かれていた。
 私はこのように三千円を使う予定だ。

あなたのことすべて知りたいの by ミニー♪グラナドス/オリエンタル

AsahidoHaiho  新しいアトラクションの名前???
 村上春樹の「千葉県タクシー・ドライヴァー」(「村上朝日堂 はいほー!」(新潮文庫)に収録)に書かれている話。

 ところで千葉のタクシーの運転手はディズニーランドのことを「でず」と言う。何度も無線で「でず(、、)方向ありませんか?」とか「いまからでず(、、)に向かいます」とかやっているので、僕はずっと千葉にでず(、、)という奇妙な名の土地があるのだと思いこんでいた。ある日ふと思いたって尋ねてみたら「ん、お客さん知らないの?でず(、、)ったら、そら当然『でずにーらんど』のこったよ」と馬鹿にされた。

 先日送り付けられたスパムメールを見て、この話を思い出してしまった。メールの内容とはまったく関係ないのだけど。

202302Disny1

 最新のディズニー体験も何も、私、自慢じゃないが東京ディズニー・リゾートに一度も行ったことがない。行ったことはないが、「ウォルト・ディズニー・ジャパン」という会社はあるがジャパンディズニーなんて会社は聞いたことがないし、確か東京ディズニー・リゾートを運営しているのは「オリエンタルランド」だったはずだと思う。

  24時間前にさかのぼれと?
 それはともかく、このように良いことずくめの嘘八百を送ってきたあとに、ほらほら来たきた、不安を煽るメールが。

202302Disny2

 フルネームにメールアドレス、クレジットカードの番号と有効期限とセキュリティコード。
 露骨に洗いざらい教えろってミッキーやドナルドが言ってるようだ。
 悪夢の国だね、こうなると。

 そういえば、1985年に NEC の PC9800VM2 を買ったときに、サービスで「デゼニランド」というゲームソフト(のコピー版)をくれた。恥ずかしながらやり方がわからないのでオープニング画面しか見たことがなかったが、あれってディズニーランドをパロっていたんだろう(あっ、ウィキペディアに、そう書いてあった)。

 グラナドス(Enrique Granados 1867-1916 )の「オリエンタル(Oriental)」。
 12曲からなるピアノ曲「スペイン舞曲集(Danzas espanolas)」Op.37(1892-1900)の第2曲。

Granados

 こんなスパムメールも来ていた。
 『NHKがNHKプラスにアップグレードされました』
 勝手にアップグレードするな!と言いたいところだが、そのすぐ下には“契約をアップグレードする必要があります”という矛盾した記述が。そもそも契約をアップグレードなんて言うかねぇ。
 『手数料』免除ってなんだよ?

202302NHKplus

1/5で計算は合っているのだろうか?プーランク/子象ババールのお話

Hotaru  耳を作る人、耳の治療を受ける人
 最近になって、村上春樹の小説の文庫本を読み返していると書いたが、「TVピープル」に続き読んだのは「螢・納屋を焼く・その他の短編小説」。巻末のページに自分が鉛筆で書いた『2006.7.1』の文字が。購入日だ。

 「TVピープル」の中に収められている小説も、どれも奇妙だ。奇妙だがおもしろい。いちばん不思議なのはあいかわらず「眠り」だったが、この終わり方はどうとらえればよいのだろう?わからない。

 「螢・納屋を焼く・その他の短篇小説」は、たぶんもう何度も読んでいる。この本に収められている「めくらやなぎと眠る女」が好きなのだ。ここに出てくる耳が悪い『いとこ』がけなげで私の心になんとも言えない感情をもたらす。
 「踊る小人」も好きだ。
 今回(たぶん初めて)気づいたのだが、これは『おかしいこと』ではないのだろうか?

 耳と鼻と頭と胴と足と尻尾に分断したら、本物は1/5じゃなくて1/6になるんじゃないだろうか?
 それとも、これも何かの『からくり』が隠されているのだろうか?
 ネットで探してみたが、この点について指摘している記事などを見つけることはできなかった。

MurakamiKobito

 なお、今日は本館の記事も更新したことを、ここで唐突に申し上げておく。

 プーランク(Francis Poulenc 1899-1963 フランス)の子象ババールのお話(L'histoire de Babar, le petit elephant. 1940-45)を。

PoulencBabar

理屈なんていいじゃないの。論文じゃないんだから♪LvB/大公

Umibe1  私はどんな焼き物を食べたのだろう?
 今年になって、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ。

 この小説を最初に読んだのは2006年4月のこと。最初の大阪勤務のあと、そこから東京に転勤になってすぐのころのことだ。
 そのあと、この小説を読み返したことがあったのか、それとも今回が2度目の読み返しなのか記憶が定かではない。
 このブログ(本館)を書くようになったのが2007年8月のことで、その年の11月の記事で初めて「海辺のカフカ」を詳しく取り上げているので、そのときが2回目の読書だったのかUmibeもしれない。とすれば、今年に入って読んだのは3回目ということになる。

 読み始めるとけっこうなスピードで上下巻を読み終えた。
 このころの村上春樹ワールドはとてもおもしろい。
 あいかわらず理解できないところや腑に落ちないところは残っているのだが、学術論文ではなく小説なのだから、そこは適当に流しておくものなのだろう。とにかく、読み手である私に早く次のページをめくるよう駆り立てる。このあたりは「羊をめぐる冒険」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などに通じるものがある。少なくとも近年の村上春樹の長編にはない新鮮さがある。
 また、第2の主人公であるナカタさんの語る言葉は、切なく胸に迫る。
 うん。おもしろかった。

TVpeople で、村上春樹の小説をポツポツと読み返してみようと、次に選んだのが「TVピープル」。短編集である。
 この文庫本を買ったのは2006年6月のこと。おそらくは「海辺のカフカ」を読んだあと、その次に買った本なのだろう。今回、偶然にも「海辺のカフカ」のあとに私はまたこれを選んだのだった。
 そうそう、4月13日に村上春樹の新作長編が刊行されるというが、はて、どーしよーかな。やっぱり買うことになるんだろうな。

 ところで「TVピープル」を開くと、しおりがわりに居酒屋の『名刺』がはさんであった。
 この紙を持っているということは、店に行ったことがあるということだろうが「めっけもん 焼き家」という店名にまったく覚えがない。

Yakiya1

Yakiya2

 北農ビル地下の飲食店街は何度か行ったことがあるが(特に菅家)、とにかくこの名前の店の記憶がない。店の様子も料理も記憶にない(現在、この店はない)。

 北農ビルは2001年9月に完成。大丸の開店は2003年だ。一方、西武は2009年9月に閉館している。

SapporoKeizaiGobankan

 ということは、この店がこの名刺を配っていた期間は2003年から2009年までの間ということになるが、私は2003年から2007年まで道外勤務だったので、この店に行ったとしても1回や2回で記憶に残っていないのかもしれない。2008年に札幌に戻ってきたときには、おそらくこの店はもうなかったと思う。
 まあ、どうでもいいけど、ロフトとか西武とか、なつかしい。そして去年、みずほ銀行は隣に新しいビルを建ててそこに移り、またエスタは8月で閉店となる。

 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ三重奏曲第7番変ロ長調Op.97大公(Erzherzog)」(1811)

Beethoven PianoTrio7

いしかり、アップ!♪LvB/p協3

  いしかり、知床に並ぶ
 今週の月曜日の朝は、札幌駅改札内の「弁菜亭」に立ち寄って、昼食用に駅弁の「幕の内 いしかり」を買った。

 店のお姉さまの「900円です」という言葉に、私は衝撃を受けた。
 ついにこの日が来てしまった。新札幌あたりの地価が上がったことは新聞記事で知っていたが、いしかりの価格が上がったことは知らなかった。50円のアップだ。

 当たり前といえば当たり前だが、外装は以前と変わらぬまま。

20220704Ishikari1

 当たり前のようでいて実は必ずしも当たり前とはなってないこともあるのだが、「いしかり」は内容も以前と変わらぬまま。

20220704Ishikari2

 味も以前のままの満足ゆくものだった。

 なお、「弁菜亭」の駅弁では「幕の内 いしかり」だけが価格改定されたようで(すべてを確認したわけではないが)、「おすし」は480円のままだし、「知床とりめし」も900円のままっ価格は据え置かれている。いまのところ。

 ところで、三浦綾子の「積木の箱」を読み終えた。

Miura_Tsumiki_2

 いろいろと複雑な人間関係や人それぞれの価値観の違いなどがおもしろかったが、読み終わってみると、じゃあいったい何なんだ?っていうハンパ感が残った。

 何回目になるかわからないが、いまは村上春樹の「風の歌を聴け」をまた読んでいる。

 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ協奏曲第3番ハ短調Op.37(1800-03)を。

BeethovenPFconHarnon

MUUSAN、新年の抱負を宣言!♪WAM/p協10

20211230Okazari
  ふつうのおじさんに戻りたい(?)
 みなさんにおかれては、良い年を迎えているところだろうか?
 私はといえば、少なくともいまのところは悪い年を迎えてしまったぜという印象はない。

 さて、今年は2022年だが、私のブログ(現在の本館。当初はOCNの『ブログ人』というサービスを利用)が今年で15周年を迎える。

 内容はともかく、まあよくも続けてきたものだ。

 はっきり言って自分の好きな楽曲や演奏については、すでに繰り返し語り尽くしてしまった。
 これを専門用語で『ネタ切れ』というが、雑誌「ムー」の編集長も「『ムー』はとっくにネタ切れ」というようなことをどこかのインタビューで言っていたので(私は「ムー」を読んだことがない。インタビューはネット上で読んだ)、そこは気にしていない。

 だが、毎日記事を更新することが目的になっているのが、ちょいと変じゃないかと、いまになってようやく疑問に思って来た。いや、はっきり言って「書かなきゃ」という強迫観念からそろそろ自分を解放させたくなってきた。

 そんなわけで、(これは過去も何度か宣言し試みて失敗はしているが)、15周年は8月ではあるが、もう年明け早々から毎日更新にこだわらないことに決めた。週に1~3回くらいの更新頻度になる予感がする。
 これが私の初夢、じゃなかった、新年の抱負である。

 記事が更新されないため、健康を害したのではないかと私の身を案じる読者の方もいらっしゃるかもしれないが、健康を害したときには「ボク、おビョーキになっちゃった」と律義に報告するので心配無用である。

MozartNo10 今年最初に取り上げる曲は、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のピアノ協奏曲第10番変ホ長調K.365(K6.316a)(1779)。
 モーツァルトと姉のナンネルの2人で演奏するために書かれた、2台のピアノのための協奏曲である。

 なぜ、今日この曲を取り上げたかというと、2日前の12月30日に雪かきをしているときに、なぜかこの曲が頭の中でずっと流れていたからである。
 これぞ『文化的雪かき』?

 この曲のCDでは、私はブレンデルとクーパーの独奏による演奏がいちばん好きである。

 あっ、本日は本館の記事も更新済み!

202112BunkatekiYukikaki

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