新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

ノスタルジー

若き日の穴の、いや、穴子の思い出♪デュファイ/……光ヲカカゲ

20211108Anago1  イチゲンさんお断り
 今週の月曜日の午前中にインフルエンザの予防接種を受けた。いつも通っている病院で、である。
 予約したのは10月の20日ごろだった。

 この日、(おそらく)飛び込みでやって来て、受付に「インフルエンザのワクチンを接種して欲しい」と図々しい態度で言い放ったおじいさんがいたが、「もう予約がいっぱいで受付できません」とていねいな口ぶりだがきっぱりと断られていた。やはり、今年はワクチンが不足気味だというのは本当だったようだ。私も早めに予約をし、無事接種を終えることができて良かった。

  この日は初心貫徹
 その帰りに以前お話しした(いや、書いた)「穴子の押し寿司」を東急百貨店地下の「魚一心」で買った。
 東急百貨店の地下の寿司店ではむかしから「穴子の押し寿司」を置いてあるのを知っていたし買ったこともあるのだが、意外なことに ESTA の地下や大丸百貨店の地下では見かけない(見落としていたらごめん)。なので、東急百貨店の「魚一心」は貴重なのだ(って、前はこの場所、「日乃出寿司」だかとかじゃなかったっけ?)。
 しかも、見るといつも1パックしか置いてない(他にハーフサイズが1~2パック)。1パックずつ出しているのかもしれないが、いざ買いに行くとなると「なかったらどうしよう」と、格別な不安に襲われるのである。
 この日は1パックだけ鎮座していたフルサイズの商品を無事ゲットできた。

  生魚が苦手だった私向きのお寿司
 ところで、私と「穴子の押し寿司」との出会いは1976年までさかのぼる。
 この年、西友西野店がオープンした。地上3階建てのワクワクする「デパート」のようなショッピングセンターだった。
 ここの1階に、テナントとして手稲東町(現:西町)に店を構えていた「ひかり寿司」入っていて、「穴子の押し寿司」(穴子のバッテラ)も売っていた。それを初めて食べたとき、私はこんなおいしいものがあるのか!と驚愕、その後も何度も食べるようになった。なお、当時の私は、まだ生寿司はひどく苦手で全然食べられなかった。だからこそ、魚に火の通ったこの寿司との相性がばっちりだったのだろう。

 余計なことを書くと、西友西野店は現在ジェーアール生鮮市場やサツドラ西野1条店がある場所にあって、マンションのクリーンリバーが建っている場所は第2駐車場だった。



 西友西野店は1993年に西町店ができたことで閉店したが、西野店に対し西町店は「新たにより快適な郊外生活の提供を図る『生活コミュニティ館』をテーマにした新タイプの店舗」としてオープンしたんだそうだ(当時の日本食糧新聞の記事による)。

 「ひかり寿司」が西野店時代にすでに撤退したのかどうかはわからないが、「ひかり寿司」そのものの店も、もうない。

 ということで、私には「穴子の押し寿司」について、この青春の謳歌とも言うべき美しい思い出があるのである。

 さて、今回食べた「押し寿司」はとてもやわらかで上品な味。

20211108Anago2

 関西の方ではご飯の間にかんぴょうが入っているが、「魚一心」のは入っていない。穴子一本やりだ(ひかり寿司のも同様だった)。私もその方がお好み。

20211108Anago3

 しょうゆの小袋が入っていたが、私にはこの完成された味で十分。しょうゆは使わず。だって、これにしょうゆをかけたら味変しちゃうでしょ?
 でも、ガリの小袋が入っているともっとうれしいような気がする。

 この魚の名前、あらためて漢字を見ると『穴の子』って、なんだかすごいものがある。

 デュファイ(Guillaume Dufay 1400頃-74 フランドル)の3声のロンドー「コノ喜バシキ世界ハ 光ヲカカゲ(Hic iocundus sumit mundus)」(原歌詞は消失)を。

 なお、このディスクは廃盤。

Dufay


両手にいっぱいお買い物をしたかった♪オルフ/カルミナ・ブラーナ

  相互じゃないよ、十合だよ。バじゃないよ、ナだよ
 年末に本棚にあったクリアポケットファイルを整理した話続きの話の続き。

 こんなん、出てきました。
 札幌そごう閉店のご案内と SOGO CARD である。

200010Sogo

202012SOGOcard

 エス・オー・ジー・オー そごうに行こう
 エス・オー・ジー・オー そごうに行こう
 両手にいっぱい お買い物
 そろってそごうに い・こ・う!

 これって、コマーシャルソングとしてなかなかの名曲だと思う。

OrffBlom そごうには山野楽器も入っていて、この曲名表記ミスのブロムシュテットによるオルフ(Carl Orff 1895-1982 ドイツ)の「カルミナ・ブラーナ(Carmina Burana)」(1935-36)のCDも、そこで買ったと記憶している(そのときはミスに気づかないで買ったのだが)。


『新型コロナ』1988♪ブルックナー/テ・デウム

  納車のころにはもう冬色になっていると思いますが……
 年末に本棚の整理整頓をしていたときに、ふだん開くことのない『クリアブック』(クリアポケットのファイル)の中を見てみると、なつかしい新聞の切り抜きやら DM なんかがファイリングされていて(って、無造作にクリアポケットに放り込まれているだけなんだけど)、こりゃみなさんとむかしを懐かしむことができるわいと、少なくとも1人か2人ぐらいは共感してくれるだろうと、ブログネタに使うことにした。

 そんなわけで2021年になったばかりの新鮮な気分に水を差すことになって恐縮といえば恐縮だが、30年以上前の1988(昭和63)年の10月22日の北海道新聞朝刊に載っていた広告をご紹介。

 なぜこの紙面がわが家に保存されていたかというと(保存というよりはずっと放置状態だったわけだが)、当時の私の仕事に関することが載っていたため。でも、今日紹介するページは、その部分とは関係ない箇所である。つまり、私の仕事は秋風やワールドワイドとは関係ない。

 で、こんな全面広告が載っていたのである。

19881022DoshinAd1

 新型コロナである。
 ウイルスではないが、新しいコロナがこの年誕生したのだ。

 いまの若い方は知らないかもしれないが、コロナという車はトヨタの看板的車種の1つだった。
 なんてたって“なによりもコロナ”なわけですもん。

 ズームアップ!

19881022DoshinAd2

 マーク II とこんなに価格差があったとは、意外だ。
 コルサっていう車の名前も懐かしい。
 で、なんで“グッド・モーニング”なの?

  『驚く』×3
 さらにはこんな広告も!
 ニチイ!そしてマイカルグループ!
 ニチイでヨーロッパ!?
 大きく出たね!
 まっ、いいけど。

19881022DoshinAd3

 じゃあ“憧れのテーブルウェアが特別価格で”という nichii の太っ腹に敬意を表し、ミントンが独唱の1人で加わっているブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の「テ・デウム(Te Deum)」ハ長調WAB.45(1881-84)を。
 
BrucknerTeDeum
 それにしても、むかしの新聞って、記事の文字の大きさがずいぶんと小さかったんだな……

 クリアポケット発掘レポートの続きはまた今度!

あなたの島へ売られて……ではなく♪スメタナ/「売られた花嫁」序曲

EliskaFarewell
  家でラジオ?未経験です
 私が父の転勤によって、浦河から札幌の西野に引っ越してきて、手稲東小学校に転校したのは1971年の秋のことだった。
 私はそのときはじめて、小学生であっても場所によって《文化の違いがある》ということを知った。

 浦河にいたときに放課後にやっていたことは、もっぱら友だちと山に行ったり海に行ったりすることだった。山では化石探しやザリガニ捕り。海では砂浜で釣りをしている人を見ていたり、砂遊び。
 好きではなかったが草野球もやった。

 しかし、こちらの小学校で新たなクラスメートが話していたのはサンショウウオがいる沼の場所の情報交換などではなく、いま流行っている歌謡曲のことだった。
 夕方に HBC ラジオで放送されていた「ベストテン北海道」を少なからずの人が聞いていたのだ。

 私も家にあったラジオで聞くようになった。
 1971年だと尾崎紀世彦の「また逢う日まで」とか沖雅美「ポーリュシカ・ポーレ」がヒットした。
 1972年は小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」やよしだたくろうの「旅の宿」、青い三角定規の「太陽がくれた季節」が印象に残っている。

 スメタナ(Bedrich Smetana 1824-84 チェコ)の歌劇「売られた花嫁(Prodana nevesta)」(1863-66/改訂'69,'70)から、序曲をエリシュカ/札響の演奏で

  なんだか船旅が楽しそうに感じる音楽
 で、このごろ唐突にある音楽が頭に浮かんできた。最初は断片的に。そしてやがてその音楽ははっきり思い出せてきた。

 「ベストテン北海道」のあとに放送されたフェリーの番組の音楽である。

 もう一度聞けないかと調べてみた。検索キーワードは“フェリー ラジオ番組”である。

 するとみごとヒット。YouTubeで映像があった(もちろんラジオ番組なので、映像はあとから合わせたものだ)。「フェリーガイド」という番組だったそうだ。

 あぁ、この汽笛とそれに続く音楽!懐かしい!(ウッドブロックのような木の打楽器が刻むリズムが印象的だ)



 これが終わると「小沢昭一的こころ」という、小学生が聞いても面白くない番組があったが(その間に別な短い番組もあったかもしれない)、「小沢昭一的こころ」のテーマ音楽もはっきりと記憶に残っている。

 1973年の春にクラシック音楽に惹かれるようになるきっかけがあって、その後半年ぐらいで「ベストテン北海道」など歌謡曲番組を聞くことは少なくなっていった。

 そんな私の過渡期に流行っていたのは、あのねのねの「あかとんぼの唄」とかガロの「学生街の喫茶店」、浅田美代子の「赤い風船」や沢田研二の「危険なふたり」などだった。

 過渡期が過ぎ、私はクラシックばかりを聴くようになり、周囲の人たちと話がかみ合わなくなっていったのだった(笑)。


 

37年ぶりに目にした実演シーン♪伊福部/ラウダ・コンチェルタータ

Sakkyo233rdProgram  これまで最も繰り返し聴いた曲は?
 年をとるとヒトはむかしの思い出なんかに浸り始める、あるいは執着し始めるという話はよく聞くところだ。

 それと一緒なのだろう。

 最近は音楽を聴くと「ああ、この曲を最初に聞いてからもう40年も経つのかぁ」とか、「はじめてこの曲を耳にしたとき、作曲者はまだ生きていたんだっけなぁ」とか、「何十回、何百回と聴いてきたけど、この間に私はただただ惰性で過ごしてきただけではないのか?」なんて思ったりする(「そのとおり!」と心の中で叫んだ奴は誰だ?)。

 私がクラシック音楽を聴くようになったのは1973年の3月か4月のことだ。

 きちんと回数を数えているわけではないが、これまでいちばん数多くを聴いてきた曲は1983年1月に知った伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』(Lauda Concertata per Orchestra e Marimba)」(1976)ではないかと思う。

 この月の札響定期で完全にノックアウトされた。
 それまでも、そしてそのあとも、初めて接したさまざまな曲にひどく興奮したり、感動したり、衝撃を受けることはあったが、「ラウダ・コンチェルタータ」はそんなレベルではなかった。
 変な話だが、終演後、この曲のメロディーやステージの光景のほとんどが記憶から喪失してしまったほど、極度のショックを受けたのだった。

IfukubeLauda_LP その数日後に「玉光堂すすきの店」でLPレコードを発見。
 もみじ饅頭を思わせるような色合いのジャケットだった。

 そのあとはとにかく聴いた(それでも、よく言われていた、レコードが擦り切れるってことはなかった)。

 私がブログを書き始めたのは2007年のことだが、それからいまに至るまで本館(旧館)とここ新館で「ラウダ・コンチェルタータ」は何回も取り上げている。
 それらの記事を検索するときは“コンチェルタータ”を検索ワードにすることを推奨したい。
 というのも“ラウダ”だと、ショスタコーヴィチを取り上げた記事にも数多くヒットするからだ。文中にソヴィエトの新聞『プラウダ』がしばしば登場するせいだ。

 この曲の音源はいまでこそいくつかあるが、でも安倍圭子のマリンバ、山田一雄/新星日本交響楽団の初演時ライヴ(1979年)が圧巻で、いまでも私はこの盤を聴く頻度が高い。
 しかし、この音源は録音が良くない。マリンバの音が乾いている。

Ifukube201108 私のナンバー2の演奏は、安倍圭子のマリンバ、石井眞木/新交響楽団のベルリン・ライヴ(1993年)。こちらはマリンバも豊かに響き、オーケストラの音も山田盤に比べると混濁していない。でも、『蛮性』という点では初演時ライヴだ。

  動悸が激化する映像発見
 よく覚えていないとはいえ、それでもあのときのステージで神業のごとくマリンバを演奏していた安倍圭子の姿はすごかった。そして、残念ながら私が「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏を《観た》のはこのときだけ。

 先日、ふと『YouTube』に映像があるかもしれないと、ひらめいた(なんせ私には You Tube を利用する習慣がほとんどないので、まさに“ひらめいた”のであった)。

 するとあった。「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏映像(動画)が。
 いつのものかわからないが、独奏は安倍圭子。指揮は大友直人。オケは不明。
 いやぁ、やっぱりすごい!
 37年前の、あの夜に引き戻された。
 この映像に、感動した。ほんとうに心から感銘を受けた。
 それにしても、どういう経緯でこういう映像がアップされることができるのだろう。

 そしてまた、別の動画も見つけた。
 このマリンバ奏者の名は初めて目にしたが、これまたすごい。
 指揮の大友直人の姿から、最近のものじゃないかと思う。

 「ラウダ・コンチェルタータ」を、これまで私は何百回聴いてきたのだろうと、むかしを懐かしむ年寄りのように書いたが(そして実際もう若くないわけだが)、先日の昼、いつものように弁当を食べていたら、私はこれまで赤いウインナーをいったい何百本食べてきたのだろうってことが頭に浮かんだ。
 弁当以外で、つまり自分でスーパーで買ったりすることはないので、案外たいしたことがないかもしれない。134本くらいだろうか?いや、そんなもんじゃないか……

20200911PL_Sangen1

20200911PL_Sangen2

 いずれにしろ、なんにせよ自分で懐かしがったりしている分にはいいが、それを聞いてもらおうと周りの人をつかまえて延々と話しだすようになっては、たいそうたちが悪い。
 そうならないように気をつけねば。

私にとっては毎晩が『今こそ時』♪GM/大地の歌

Kohiyama_Jinseitoiuhana  諺とか名句のことはあまり関係なく……
 小檜山博の「人生という花」(河出書房新社)を読み始めた。
 ここに書いたように、「花新聞 Hokkaido」に連載されていたエッセイで、作者の経験や思いを花にかかわる名句などとからめて書いている。

 しかしながら、その“「花」にかかわる名句や諺”(それがタイトルになっている)と内容があまり密接ではないものもある。

 たとえば「花の(さかずき)」という章。

 「花の杯」とは花を見ながら酒杯をあげることもいうが、杯を花にたとえていう、つまり美しい杯のこともいうそうだ。

 “花の杯”という言葉についての説明はそれだけ。あとは、自分が酒器を集めるのが好きだという話から、特に気に入っている7つを紹介している。

 まっ、それはそれで面白くはあるんだけど、文学的なお話を期待してこの本を買った人がいたとしたら、それはハズレかもしれない。

 いや、そもそも1つ1つの話の文字数が少ないのだ。もともとの連載していた新聞の字数制限のせいだろう。1つの話が見開き2ページだけなのだ。
 これは「人生讃歌」の半分の文字数である。話が中途半端、ツッコミ不足となるのは致し方なかったのかもしれない(いえ、小檜山氏をかばっているわけではありません)。

MahlerErdeLP   彼方ってどれくらい遠く?
 ところで酒とか杯(盃)という言葉で真っ先に私の頭に浮かぶ楽曲といえば、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。

 第5楽章「春に酔えるもの」なんかはゲロゲロ二日酔い状態だが、それよりも(RCAのLP(ライナー/シカゴ響)の)対訳を最初に見たときに強く印象に残ったのは、第1楽章「大地の哀愁をうたう酒の歌」の最後にある、

 かなたを見よ!
 月明の墓場に怪しき姿のうずくまるを!
 それは一匹の猿!
 その喚き声が甘き生の香りの中に鋭くひびくを聞け!
 酒をとれ!
 友よ、今こそ時!
 金杯をほし給え!
 生は暗し、死もまた暗し!

である。

 この文語体風の訳者がどなただったか今では知る由もないが(スコアに私が書き写したものが残っているのだ)、すばらしい訳だといまでも思っている。

MahlerErdeNottVPO ライナー盤(1959年録音)は実質廃盤のようなので、ここではカウフマンが一人二役で歌って話題となったノット盤を。

 ちなみに「大地の歌」を私が知ったのは、中学3年生のとき。
 お酒を初めて飲んだのは20歳過ぎ。いえ、まじめだったとかそういうんじゃなくて、大のコーラ好きだっただけ。

 それがあなた、いまの私ときたら「大地の歌」ばっかり聴いて、じゃなく、毎晩ハイボールを飲んで……あのころはそんなこと想像もしてなかったなぁ。

ビニールを外すときのドキドキ感……♪アミーロフ/バーヤティ・シラーズ

20200601Kadan_Chonaikai  想像以上に辛かった作業
 おとといの日曜日は、ご案内したとおり、町内会の花壇づくりをするという一大行事があった。
 新型コロナの影響で、総会やら夏祭りやらの中止がことごとく決まる中、なぜか花壇づくりは強行された。ただし、作業する参集範囲を絞り、作業も1日で集中的に行なって終わらせるというものだった。

 私はこの行事に初めて参加したが、決め事で驚いたのは、花壇は歩道にあるわけだが、車道側に植えるのはマリーゴールドで、内側はサルビアと決まっていたことだ。
 確かに上のリンク記事(なんのことはない。昨日の記事だ)の写真を見ると、去年も車道側がマリーゴールドで、内側はサルビアだ。
 マリーゴールドの方が車の排気ガスやエンジン音に強いということなんだろうか?
 そしてまた、毎年毎年マリーゴールドと赤いサルビアなのは、この2つの植物なら多少放置しても、元気に育つからってことなんだろうか?

 それにしても、私は甘く見ていた。
 土起こしと雑草除去がけっこうたいへん。危うく、また腰をおかしくするところだった。

 例年より少ないといっても、20人以上の人が手伝いに来てくれた。

AmirovNXS そして、区長さん曰く「予想よりも早く済んだ」と、作業開始から1時間半ほどで40以上ある花壇への植え付けが終了。あれ以上長かったら、マリーゴールドのように丈夫じゃない私は熱中症になっていたかもしれない。

 アミーロフ(Fikret Dzhamil Amirov 1922-84 アゼルバイジャン)の交響的ムガーム「バーヤティ・シラーズの花の庭」(1968)。
 ……って、これももうタワレコのオンライン・ショップでは“取扱なし”になっている……

  彼女たちも暑いのではないだろうか?
 さて、家に帰ってきて、私は大いに悩んだ。

 ほんの数日前までは寒くて風も強くて、この『野菜苗ガード』なるビニールで囲わないことには、苗が低温障害でだめになるのは目に見えていた。

 しかしあっという間にカッコウが気が狂ったように鳴き、私は熱中症になるんじゃないかと身の危険を感じる陽気になった。まったくもって「陽気なカッコウ」ってもんだ。

 そう。さすが勘が鋭いあなただけのことはある。
 私の悩みというのは、まさに、囲いをこの日もう外すべきかどうかということだったのだ。

 ここ江別は、毎年北海道神宮祭が行なわれる6月の15日前後までは風が強い。
 朝晩も冷え込むことがある。
 だからビニールの囲いを外すのはかなりの決断力が要るのである。

20200529Tomato

 私はせめて6月に入ってから外すべきだと考えた。
 しかし、「6月って明日からじゃないか」と、私の左脳が右脳を叱咤した。
 叱咤しただけではない。そのあとのフォローも忘れない。
 「大丈夫、きっとそのほうが苗も喜ぶよ」と激励もしたのである。

 ということで、若かりし頃にビニールに包まれた雑誌のビニールを取り除くときの高揚感を思い出しながら、苗のビニールを外したのだった。
 なお、手前のネギは近所の峯山さんから苗をいただいたものである。

20200531Tomato1

 あとは元気に育ってくれることを祈るだけだ。

 現在のところ、トマトはもうこんなに花をつけているし、種まきしたエンドウもすくすく育っている。
 ビニールを外したその日の夜は、私はハイボールの前にビールを飲んだことを申し添えておこう。

20200531Tomato2

20200531Endou

 では、今日はお仕事に行ってきます。
 そして、もしもう一つ願いが叶うなら、咳をしない人でありますように!

団子と草鞋、塩鮭と照り焼き、そしてミセスとマンゴー♪チャイコ/Sym6

20200519GeumMSBS  2週間後に咲いたそっくりさん
 一昨日の水曜日は、私が愛食している幕の内弁当に起こっていたある違いについて書かせていただいた。

 昨日は食べることができないダンゴについて書かせていただいたが、人によっては「気持ち悪い写真を見せつけやがって」と、不愉快な思いをしたかもしれない。そもそも実際にそれを目の当たりにし、でも写真を撮り、報告した私自身が不愉快な思いをしたくらいだから。

 なので今日は、美しい花の写真である。

 ここでも取り上げた、ゲウム・ミセス・ブラッドショーである。

20200519GeumMangoLussi そして、ミセブラの最初の開花から2週間ほど経った火曜日に、わが庭にあるもう1つの別な品種のゲウムも咲いた。
 ゲウム・マンゴーラッシーである。

 どうです?
 似てるって?

 そうなんです。私にはあまり違いがわからない。違うもののはずだと意識して見ないと、同じに見えるくらい。
 少なくとも、ダンゴとワラジほどは違っていない。
 まあ、いいですけど……

 謎なのは、マンゴーラッシーはここ何年か以内に買ったと思うのだが(ミセブラはもっとむかしに音更町の大野農園で買った)、いつどこで買ったのかまったく記憶にない(し、ブログにも記録が残っていない)ことだ。

 へんなの……

  出演オケは札響
 違いといえば、むかし、「ネスカフェ・ゴールドブレンド」のコマーシャルに“違いがわかる男”シリーズというのがあり、それに岩城宏之が出演していたことがある。

 氏は自身の著書「棒ふりの休日」(文春文庫)のなかでこう書いている。

 1977年の5月まで、ぼくはまる2年間インスタントコーヒーのテレビコマーシャルをやっていた。例の「違いのわかる男 - ネスカフェゴールドブレンド」だ。

 この時期は岩城が札幌交響楽団の正指揮者に就任し、岩城時代を作り上げていく最初期と重なる。

Tchaikovsky6Sapporo このコマーシャルは、私の記憶に間違いがなければ、岩城がオケを指揮している姿のアップで、曲チャイコフスキーの「悲愴」の第1楽章の、ppppのあとffffになる箇所。そのあとに「ダバダ~」という歌が、ってものだった思うが、そのオーケストラは札響だったはずだ。

 そんなことで、札響によるチャイコフスキー(Pyotr Ilyichi Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第6番ロ短調Op.74「悲愴(Pathetique)」(1893)をエリシュカの指揮で。

 岩城氏がこのコマーシャルに出演するときの契約書には、“この3年間に胃腸薬のコマーシャルにでてはならぬ”という項目があったそうだ。
 コーヒーの飲みすぎで胃を悪くしたとなっては大いなるイメージダウンになるからだが、なんだか笑える話でもある。

 

あのころ店主は40歳、あたちはハタチ♪クープラン/第11組曲

20200516Doshin_Ponta
  唐草模様がトレードマーク
 今日のタイトル、東京ぼん太のことを知らない人にとってはちっともおもしろくないに違いない。そして、東京ぼん太を知らない人の方が、すでに世の中の過半数を占めているに違いない。さらに言えば、東京ぼん太のことを知っている人にとっても、今日のタイトルはつまらないに違いない。

 荒木英助さんが東京ぼん太のファンだったかどうかは知らないが、「北海ぼん太」ってと書かれた店の看板を目にしたとき、私の頭の中は唐草の渦巻模様でいっぱいになった。いまから38年前のことだ。

   当時は私も日本酒派だった
 1982年の1月のことだったと思うが、私や Kbys君をはじめとする5人くらいで、大学のサークルの飲み会を、江別は野幌にあるこの店で行なったのであった。
 誰がこの店に決めたのかわからないが、私は初めて名前を耳にし、初めて店の建物を見たのだから、私ではないことは確かだ。

 店の2階で飲んだと思うが、どんな料理を食べたのか記憶にない。
 覚えているのは、日本酒を飲みすぎて気分が悪くなった Kbys君がトイレに籠城したまま出てこなくなり、店主に「Kbys君、大丈夫ぅ~?出てきてよぉ~」と心配して何度か呼びかけてくれたことと、トイレを使いたい他のお客さんに多大なるご迷惑をおかけしたことだ。

 考えてみれば、あの当時の私は飲んでもさしておしっこが近くならなかった。だってトイレが開かずに困り果て、悶絶したという記憶もないからだ。
 私もけっこう燗酒を飲みすぎて、夜中にラクダが出てくる夢を見るほど喉が渇いた。

 それにしても、あのころ店主の荒木さんはまだ40歳だったんだ……まあ、私も21歳の誕生日前だったわけだけど。

 あれから「北海ぼん太」を訪れたことはない。だから偉そうなことは言えないが、新型コロナが落ち着くまで耐え抜き、再び店がにぎわうことを祈ってやまない。

CouperinOrdreCompBaumont クープラン(Francois Couperin 1668-1733 フランス)の「輝かしい女,またはボンタン夫人(L'etincelante, ou La Bontems)」を。
 「クラヴサン曲集第2巻」(1717刊)の「第11組曲」(全5曲)の第2曲である。

 で、Kbys君、その後もこれ読んでくれてる?

 そして、ysr さん。メッセージありがとうございます。
 Homac に「キーレー」ありましたか?
 隙間、きれいにしてください!

自分で「私は信頼できる人です」というアッポォちゃん♪万城目/リンゴの唄

20200507AppleID_spam1  私ですか?失ってもかまいません
 先日は心温まる、そしてその涙が出そうになるすばらしい対応について書かれたANAからのメールを紹介したが、今日はそうじゃないメールをさらしておこう。

 そもそも、“この手紙は信頼できる送信者から送信させられたものです”ってご主張なさっているが、送信者である“kou.sato.mizu29@ab.cyberhome.ne.jp”ってのが、できない逆立ちを試みたところで私には信頼できる送信者には思えないのである。

 ただ、メールのことを“手紙”って書くと、ちょっぴり日本的でいいなぁと感心した(って、日本語だもんな)。

 とにかく、私には言われている(書かれている)ことの意味ががわかんない。
 このIDが私のものとでもいうのか?
 私は、佐藤でも佐戸でも孝でも甲でも水でも肉でもない。

 そもそも私にとってAppleは生活していくうえでまったく縁のないものなのである。
 ここしばらくは、久しく、リンゴそのものだって口にしていないくらいなのだ。

SamejimaNihon 万城目正(Manjome,Tadashi 1905-68 北海道)の「リンゴの唄」(1945)を。
 詞はサトウハチロー。
 
 なお、「ウルトラQ」の主人公の1人、星川航空のパイロットの名前は、万城目淳である。

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