新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

その曲に出会った時の幸福な思い

道新「卓上四季」に『弦チェレ by 札響』の話題が♪バルトーク/弦チェレ

  それは第3楽章のことですね
 私は行けなかったが-って、億劫がってもう何年も札響の定期演奏会に足を運んでいないのだが-先日の10月7日と8日の両日行なわれた札幌交響楽団の第656回定期演奏会のバルトークは(いや、きっと『バルトーク以外も』だろう)すばらしい演奏だったようだ。

 X(旧ツイッター)のフォロワーさんたちもそう呟いていたし、15日の北海道新聞のコラム「卓上四季」でも取り上げられた。「卓上四季」でこのような話題が載るのは珍しいことではないだろうか?

20231015Doshin

 この文を読むと、ホリガー/札響による「弦チェレ」の演奏がいかに素晴らしかったかがじゅうぶんに伝わってくる。

 バルトーク(Bartok,Bela 1881-1945 ハンガリー)の「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽(Musik fur Saiteninstrumente, Schlagzeuge und Celesta)」Sz.106(1936)は、実は私がバルトークという作曲者を知るきっかけになった作品。1974年3月23日(土)の20:05からNHK-FMで放送された(その前の5分間はニュースだ)「シンフォニーホール」をエアチェックしたのだった。岩城宏之/NHK 交響楽団の演奏で、「弦チェレ」の前には柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」も流れた(尾高賞の受賞作品)。しかし、これまで生演奏で聴いたことがない。「管弦楽のための協奏曲」は何回も札響定期で聴いているのに、である。きっと私が札響定期に通っていたころは、この曲が取り上げられたことはなかったと思う。もしかすると、今回が札響初演なのかもしれない。

 バルトークは1936年の夏に指揮者の P.ザッヒャーにスイスのグリュイエールにある彼の山荘に招待されたのだが、そのときに着想されたのがこの曲。ブダペストに戻ってから完成、翌年1月にザッヒャー指揮のバーゼル室内管弦楽団によって演奏されたが、この初演は大成功を収めたという。そのすぐの10日後にはフルトヴェングラーがベルリン・フィルの定期演奏会で取り上げ、バルトークは一躍有名人になった(定期演奏会の演目ってそんな直前に決めてよいものなのだろうか?)。

 大成功するには渋すぎる曲のようにも思うが、考えてみれば私もこの曲でバルトークに魅かれ、いまに至っているのだった。

 この曲では、私はやっぱりブーレーズ/CSO の演奏が好きだ。
 札響定期の日に、「今日は定期演奏会か。こっちはこっちで楽しもう」と、私は自室でイソップの「酸っぱいぶどう」の話のように、この CD を聴いたのだった。

BartokMandarin

夕鉄バスの南幌行きの路線名は札幌代行線♪WAM/Sym25&P協10

  札幌の代行って?
 先日、10月からの夕鉄バスの新経由路線について、手書きの線を記入した地図を掲載した

 そんなことする必要はなかったんだよ、って具合に新しいバス路線マップが発行された。当然2023年10月現在のものである。私の線引きは無駄な作業に終わった。
 そしてまた、南幌東町行きの路線は(早苗別を経由するかしないかにかかわらず)『札幌代行線』という路線名になったことを私は知った。『代行』が何を意味するのかわからないが……

202310BusMap1

202310BusMap2

 そうそう、江別といえば、江別・野幌の情報ナビサイト「えべナビ!」によると EBRI の「蕎麦と牡蠣のことぶきや」が10月22日をもって閉店するそうだ。
 かしわそばがおいしかったのに残念だ。 

  初『小ト短調』の日
 話は変わるが、いまこの記事を書いているのは10月11日なのだが、50年前のこの日、1973年の10月11日(木)に私はモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91)の2つの曲を初めて耳にした(←紹介曲を選ぶ口実の新しいパターン)。
 夜10時15分からのNHK総合テレビの「コンサートホール」というN響の公演を取り上げる番組で放映された、交響曲第25番ト短調K.183(K6.173dB)(1773)と2台のピアノのための協奏曲(ピアノ協奏曲第10番)変ホ長調K.365(K6.316a)(1779)。
 指揮はハンス・スワロフスキー。コンチェルトの独奏はイェルク・デムスとパウル・バドゥラ=スコダ。ピアノを向かい合わせに配置した様子は、断片的に記憶に残っている。

 この2つの曲については、その後も何年かはこの演奏をラジカセで録音したものを聴いていた。

 1973年は私がクラシック音楽の魅力に取りつかれた元年。あれから50年か。やれやれ……

MozartNo10

Mozart25Marriner

37年ぶりに目にした実演シーン♪伊福部/ラウダ・コンチェルタータ

Sakkyo233rdProgram  これまで最も繰り返し聴いた曲は?
 年をとるとヒトはむかしの思い出なんかに浸り始める、あるいは執着し始めるという話はよく聞くところだ。

 それと一緒なのだろう。

 最近は音楽を聴くと「ああ、この曲を最初に聞いてからもう40年も経つのかぁ」とか、「はじめてこの曲を耳にしたとき、作曲者はまだ生きていたんだっけなぁ」とか、「何十回、何百回と聴いてきたけど、この間に私はただただ惰性で過ごしてきただけではないのか?」なんて思ったりする(「そのとおり!」と心の中で叫んだ奴は誰だ?)。

 私がクラシック音楽を聴くようになったのは1973年の3月か4月のことだ。

 きちんと回数を数えているわけではないが、これまでいちばん数多くを聴いてきた曲は1983年1月に知った伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』(Lauda Concertata per Orchestra e Marimba)」(1976)ではないかと思う。

 この月の札響定期で完全にノックアウトされた。
 それまでも、そしてそのあとも、初めて接したさまざまな曲にひどく興奮したり、感動したり、衝撃を受けることはあったが、「ラウダ・コンチェルタータ」はそんなレベルではなかった。
 変な話だが、終演後、この曲のメロディーやステージの光景のほとんどが記憶から喪失してしまったほど、極度のショックを受けたのだった。

IfukubeLauda_LP その数日後に「玉光堂すすきの店」でLPレコードを発見。
 もみじ饅頭を思わせるような色合いのジャケットだった。

 そのあとはとにかく聴いた(それでも、よく言われていた、レコードが擦り切れるってことはなかった)。

 私がブログを書き始めたのは2007年のことだが、それからいまに至るまで本館(旧館)とここ新館で「ラウダ・コンチェルタータ」は何回も取り上げている。
 それらの記事を検索するときは“コンチェルタータ”を検索ワードにすることを推奨したい。
 というのも“ラウダ”だと、ショスタコーヴィチを取り上げた記事にも数多くヒットするからだ。文中にソヴィエトの新聞『プラウダ』がしばしば登場するせいだ。

 この曲の音源はいまでこそいくつかあるが、でも安倍圭子のマリンバ、山田一雄/新星日本交響楽団の初演時ライヴ(1979年)が圧巻で、いまでも私はこの盤を聴く頻度が高い。
 しかし、この音源は録音が良くない。マリンバの音が乾いている。

Ifukube201108 私のナンバー2の演奏は、安倍圭子のマリンバ、石井眞木/新交響楽団のベルリン・ライヴ(1993年)。こちらはマリンバも豊かに響き、オーケストラの音も山田盤に比べると混濁していない。でも、『蛮性』という点では初演時ライヴだ。

  動悸が激化する映像発見
 よく覚えていないとはいえ、それでもあのときのステージで神業のごとくマリンバを演奏していた安倍圭子の姿はすごかった。そして、残念ながら私が「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏を《観た》のはこのときだけ。

 先日、ふと『YouTube』に映像があるかもしれないと、ひらめいた(なんせ私には You Tube を利用する習慣がほとんどないので、まさに“ひらめいた”のであった)。

 するとあった。「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏映像(動画)が。
 いつのものかわからないが、独奏は安倍圭子。指揮は大友直人。オケは不明。
 いやぁ、やっぱりすごい!
 37年前の、あの夜に引き戻された。
 この映像に、感動した。ほんとうに心から感銘を受けた。
 それにしても、どういう経緯でこういう映像がアップされることができるのだろう。

 そしてまた、別の動画も見つけた。
 このマリンバ奏者の名は初めて目にしたが、これまたすごい。
 指揮の大友直人の姿から、最近のものじゃないかと思う。

 「ラウダ・コンチェルタータ」を、これまで私は何百回聴いてきたのだろうと、むかしを懐かしむ年寄りのように書いたが(そして実際もう若くないわけだが)、先日の昼、いつものように弁当を食べていたら、私はこれまで赤いウインナーをいったい何百本食べてきたのだろうってことが頭に浮かんだ。
 弁当以外で、つまり自分でスーパーで買ったりすることはないので、案外たいしたことがないかもしれない。134本くらいだろうか?いや、そんなもんじゃないか……

20200911PL_Sangen1

20200911PL_Sangen2

 いずれにしろ、なんにせよ自分で懐かしがったりしている分にはいいが、それを聞いてもらおうと周りの人をつかまえて延々と話しだすようになっては、たいそうたちが悪い。
 そうならないように気をつけねば。

追想-004♪バロックと古典の狭間で怒りまくってた音楽

BachCPE  お父さんの理路整然とした音楽はもう古い!
 バッハはバッハでも、大バッハ、つまりあの音楽室で児童をにらんでいたバッハ、要するにJohann Sebastian Bach(1685-1750)、ではない別のバッハの音楽に初めて接したのは1974年2月12日のことだった。

 平日の朝の6:15から毎日放送されていた、NHK-FMの「バロック音楽のたのしみ」。

 この日、J.S.バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88)の曲がかかった。

 バロック音楽ではないのに、シンフォニア ホ短調Wq.177,H.652(1756)が。

 なんとなく《シンフォニア》という響きに誘われエアチェックをしたが、その『虫の報せ』は大的中。
 この不思議-立ち位置が-な音楽にすっかり夢中になってしまった。

 そのころ私はすでに、バロック音楽であるJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲を知っていた。ほかにも主要な作品のいくつかはすでに知っていた。
 また、古典派のモーツァルトの曲もいくつか知っていた。

 この2人の時代をつなぐように活躍したが、いまでこそその名は少しは知られているが、当時はほとんどLPレコードもなかったC.P.E.バッハ(いまでもその位置づけは『古典派』である。これからもそうだろうけど)。

 初めて耳にする彼の曲は、バッハの音楽のように-感情を押し殺しているとは思わないものの-終始取り乱すことのない音楽と違い、実に自由奔放に聴こえた。

 また、そのあとの古典派のモーツァルトの音楽よりもはるかに刺激的だった(このころ私は、モーツァルトは退屈だという、罰当たりな考えを持つようになっていた)。

  疾風怒濤なわけです
 CPEBのオーケストラの響き(Wq.177は弦楽合奏の曲である)は、いまでも聴いていて、古典派でも例えばモーツァルトのシンフォニーに通奏低音としてチェンバロを加えた場合の響き(効果)、とも違う新鮮さがある(ちなみにWq.177のシンフォニアが書かれた1756年はモーツァルトが生まれた年である)。

 この演奏はレッパード/イギリス室内管弦楽団による演奏だった。
 しかし、このエアチェックしたテープ以外で、その後聴く機会はなかった。

 いや、実はWq.177自体を、その後も聴く機会がないままだ。

 ただし、Wq.177に管楽器を加えた異稿であるWq.178,H.657(1756)の形で、その後この曲に再会することができたのだった。
 それはあれから20年以上経った1997年になってのことだった(その間に私が、CPEBのいろいろな曲をできうる範囲で開拓したのは言うまでもない)。

BachCPEHM ここでも紹介したベルリン古楽アカデミーの演奏(2000年?録音。ハルモニア・ムンディ)が、これまで聴いた中ではいちばんやんちゃだ(レミー/レザミ・ド・フィリップの演奏(1995年録音。cpo)の演奏もすごいのだが……。あぁ、苦悩のエマニエル夫人って感じだ)。
 行儀の良い父の音楽に反抗しているかのような演奏なのだ。

 えっ、どっちも入手困難だって?

 あの年-1974年-に制作された映画「エマニエル夫人」はいまでもDVDが出てるというのに……


 なぜ、エマヌエルばかりが不当な扱いを受けるのだろう……

追想-003♪デカとタコの知られざるつながりがレニングラードpoで明らかに

ColumbiaRplayer  ロシア人の名前はややこしい
 それまでも何度か来日したことがあったレニングラード・フィルが、初めてムラヴィンスキーとともに日本にやって来たのは、1973年のことだった。

 とはいえ、私がクラシック音楽に魅かれ、聴くようになったのはこの年の3月か4月のこと。

 何月のことか忘れたが、NHKの教育テレビ(いまではEテレという名前に進化した)でその公演が放送されたときだって、若葉マークの私にとってはムラヴィンスキーという指揮者の名前も知らず(それどころか生まれて初めて知ったロシア語かもしれない)、しかも1回では覚えられなかったし、オーケストラの何の楽器か忘れたが、時折アップで写るおばちゃんがたいそうおっかなそうな人で、「さすがソヴィエト」と妙な納得をしたものだった。

  「部長刑事」って知ってらヴィンスキー?
 そのTV放送を観ているときである。

 ムラムラなんとかさんが指揮するレニングラード・フィルが、いきなり『部長刑事』のオープニング曲を演奏し始めたではないか!

 「部長刑事」っていうのは、むかし毎週何曜日かにやっていた30分のドラマで、小さいころの私には内容はよくわからなかったが、なんだかその陰気臭い雰囲気に恐怖すら感じた(その後青年期になった私は淫靡なものには恐怖ではなく興味を持った)。両親のどちらの好みでもないと思うのだが、とにかく毎週観ていたようだ。
 そして、私にはそのオープニングの曲がひじょうに印象に残っていた。

 それをンスキーさまが振っている。

 実は「部長刑事」のオープニング曲はオリジナルではなかったのだ。
 それは、のちに私の中で『3大作曲家』の1人となる、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)の、第4楽章の出だしの部分だったのである(使用に当たって著作権料をちゃんと払っていたのかしら?)。

 そして、この日が私がショスタコを知った記念すべき日となった(っていうわりには、日付不明)。

 最近調べてみたら、この第5番をやった演奏会は5月26日に行なわれたものだという(そのライヴCDも出ているが、私は未購入)。
 上にも書いたように、TV放送されたのはいつかわからないが、なんとなく秋だったような気がする。

 当時、鑑賞レパートリーを増やすにはもっぱらラジカセでFMをエアチャックするしかなかった身だったが、この素敵なタコ5がFMで放送されることはなかなかなかった。

 そうして何か月かが過ぎ、クリスマスの日が近づいてきた。

  君も歌ってみないか?
 私は、サンタクロースはこの世に実在すると信じてやまない純粋な中学生を親の前で演じ、まだクリスマスの半月前にもかかわらず、親と一緒に徒歩圏内の札幌は西野の、当時は街の発展の象徴であったカスタムパルコの1階の光洋無線(電器のコーヨー)に行き、コロンビア製のレコードプレーヤーを買ってもらった。もちろんクリスマスプレゼントとしてである(って、サンタクロースの存在の話はどこに飛び散ってしまったのだろう?)。

 このプレーヤーはスピーカーはいっちょ前に独立しているものの、ターンテーブルはシングル盤サイズで、ご存じの方も多いと思うが、LPレコードを乗せると引田天功によるレコードが空中浮揚するマジックを観ているような感じになるものである。

 たまたま今回ヤフオクで見つけたのだが、この写真と同じ機種だったと思う。

 マイクが使えるようになっているのも不思議だ。レコードに合わせて歌うってことなんだろう。左側の穴がマイクを刺しておくホームポジション。その隣がマイクの入力ジャックである。

ShostakoSym5LP ちなみに私たち一家は1971年の秋に、祖父母が住む家に同居する形で浦河町から引っ越してきたが、山の手通り沿線には、まだ農地がけっこう残っていたし、ふもと橋もできて間もなかったと思う。
 山の手通り沿いの、今の住所で西野の8丁目とか9丁目あたりは、特にリンゴ園だらけで、その近くで120レーンもあるという触れ込みの『ジャイアンツボウル』の建設が始まっていた(結局最初は60レーンで、120に増えることもなく60レーンのまま、数年後には閉館してしまった)。

 つまりこのころ、1970年代に入って、西野は宅地として急速に発展し、爆発的に人口が増えてきていたのだ。
 祖父母が夕張から札幌に出てきたとき、西野に土地を買い家を建てたのは、先見の明があったのではなく、札幌としては恐ろしく土地が安かったせいなのである。

 そののびゆく街・西野の象徴が『カスタムパルコ』であり『ジャイアンツボウル』であったし、それに先行して大型店舗の『ホクレンマーケット』や『生協西野店』も進出していたのである。
 
 ちなみに私が通っていた手稲東中学校は、生徒数がどんどん増え、私の学年は3年間とも10クラス以上あった。
 
  今度はソフトを買いにコーヨーへ
 さて、プレーヤーを買ってもレコードがなければなんにもならない。ろくろの代わりにすらならない。
 ここでキーワードとなるのが《祖父母と同居》である。

 私はばあちゃんにすり寄り小遣いをせしめた(前の年は、クリスマス時期ではないが、じいちゃんにすり寄って天体望遠鏡をゲットした)。

 さて、こういう経緯から、私が生まれて初めて自分で買ったLPレコードがショスタコの第5番となったのだった。

 買った場所はカスタムパルコのコーヨーのレコードコーナーであり、そこにストコフスキーが指揮するニューヨーク・スタジアム交響楽団という偽名のオーケストラが演奏する1000円盤(オイルショック後で1200円になっていた)があり-よくこの曲のLPがあったものだ。さすがカスタムパルコ!さすがコーヨー!-それを購入したのだ。

 もちろん私にはストコフスキーという人が若いのか年寄りなのか、生きているのか死んでいるのかも知らなかったし、オーケストラにしても、ニューヨークってつくぐらいだからすっごい有名なオーケストラだと思ったものだ(が、契約の関係から、レコーディングに当たっては架空の名を名乗っているどこかのオーケストラだったのである。いや、実はニューヨーク・フィルというすっごいオーケストラではあったんだけど)。

 ところが買うにあたって、新たな問題が生じた。
 このLPは売れないと店のお兄さんが言い始めたのだ。

 未成年には売れないっていうのか?

 いや、違う。

 もはや見かけることのない風景ではあるが、LP時代は、完全密封されている盤は別として、必ず盤をとりだし、傷がないか検盤していたのである。みなさんだってむかしは検便をしていたではないか!

 そしてのタコさんはそれに引っかかったのである。つまり傷物だったのだ。
 ふつう傷がついていたら、その商品は値引きして売ってくれるのが世の常識だが、ことレコードに関してはそうではなかった。「売れません!」なのである。

 だが、ここに書いたようにそしてここでも書いたように、私は泣きこそしなかったが泣きそうな顔で、それでもいいから売ってくだしゃいとお願いした。
 お兄さんはあとから私の親が「息子にこんな傷ものを押し付けやがって」と文句を言いに来るのを恐れたのかもしれないが、品行方正な態度から私を信じて売ってくれたのだった。
 ただ、その傷の場所が第3楽章ではなく、肝心の第4楽章についていたら、この私だって買わなかっただろう。

Vorkov_mini  だって、いやいや喜ばされてるんですもん
 このレコードのジャケットの裏面には解説が書かれていたが、第4楽章については“革命の成功を喜ぶ人民の歓喜の行進”みたいなことが書かれていた(当時、この曲は「革命」の標題で呼ばれることが多かった)。
 また、ほかの資料を見ても、そういう見解が当たり前となっていた。

 しかし、私には正面から聴こうと、寝そべりながら聴こうと、これがうれしそう”には全然聴こえなかった。

 その後、S.ヴォルコフの(のちに偽書という位置づけになったが)「ショスタコーヴィチの証言」で、ショスタコーヴィチが「これは強制された歓喜」「さあ喜べ喜べと鞭を打たれたもの」と言っているのを見て、ようやくスッキリ、自分の感性が間違っていなかったことに自信をもったのだった。

 ところでその傷は、点状のものが5つつながっているもので、第3楽章の終わり近く、181小節目のチェレスタが寂しげに登場するところで、ガガガガガ(←早口言葉以上に速いテンポ) ガガガガガ ガガガガガ ガガガガガ ガガガガガ と雑音が鳴った。第3楽章は190小節までしかないがテンポが遅いので、181小節から数小節分でその嵐は急速に過ぎ去ったのであった。

 ただし、いまでもこの楽章を聴いていると、それが誰の演奏のときでも、この箇所にさしかかると頭の中でノイズが再現されるのには困ったものである。

 そしてまた、ストコフスキー/ニューヨーク・スタジアム響のこの音源は、2013年にそのCDを発見。いまでもときどき聴いている(1958年録音。ウェストミンスター)。

  いまではこの交響曲第5番が「革命」と呼ばれることはほとんどなくなった(ショスタコーヴィチはそのような標題を口にしても書いてもいない)し、光洋無線西野店はその後カスタムパルコから撤退(空いた1Fフロアはその後、ぱっとしない食料品店『ノルドストア』になったが短命に終わった)。さらに光洋無線自体はマツヤデンキに変わったのだった。

追想-002♪1973年頃の生協西野店にはそば屋や家電売り場もあった

2016-10-05_5sub  雅美さんの声はしわがれ声
 「それではさっそくお聴きいただきましょう」

 こんなアナウンスの最後の断片から、そのテープは始まる。
 その直後に力強くシンフォニーが鳴り響く。

 その声はアナウンサーのものではない。音楽評論家の藁科雅美のどう転んでも透きとおった声とは言えないものだ(ちなみに、男です)。
 「それではさっそくお聴きいただきましょう」という声を、私は入れたくて入れたのではない。
 曲が始まるのが今か今かと待っていて、エアチェックの録音スタートでフライングしてしまったというオチだ。

 正確な日付けを記録していないのだが、1973年の8月。NHK-FMで20:05から放送された「N響夏のステレオコンサート」という番組。

 藁科氏の言葉に従いさっそく聴くと同時に録音したのは、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第5番ハ短調Op.67(1805-08)。いわゆる「運命」である。

  そもそも交響曲とはどういうものかもよく知らなかった私
 指揮はサヴァリッシュ。
 冒頭の有名なモティーフは、鑑賞とは別な次元で耳にしたことはあったが(TVマンガの中などで)、「運命」を交響曲として聴くのは事実上初めて。いや、ベートーヴェンの交響曲自体、聴くのは初めてである。

 そして、この曲が「ジャジャジャジャーン」だけじゃなく、聴いたこともないメロディーが出てきて(つまり第2~第3楽章)30分以上も続くとは思わなかった。やれやれ。

 ところで番組名がなぜ「ステレオコンサート」なのか?

 実はこのころは、FMでもまだステレオ放送ではない、つまりモノラルの番組も少なからずあったのだ。
 それを聴き、そして録音している、私のラジカセも、ステレオラジカセなんてものではなく(そういうのは世の中になかった)、モノラルのこれだったのだ。

 このとき使ったのはFUJIのC-60のテープ(上の写真の右側下段の奥に写っている赤いやつ)。
 このテープは、西野界隈(札幌市西区です)ではなぜかコープさっぽろ西野店(当時は確か『札幌市民生協西野店』)にしか売っていなかった。

 この『札幌市民生協西野店」は、建物も、そして場所も、現在の『コープさっぽろ西野店』とは異なり、山の手通りに面していた。現在の『コープさっぽろ西野店』の山の手通り側の駐車場のところである。



 TDKやSONYのテープよりかなり安かったので、本当はTDKとかSONYばかり使いたかったにもかかわらず、経済上の理由から私は主にそれを使っていた(ただ私の経験からすると、TDKの90分のテープは伸びやすい、あるいは切れやすいように思った)。

 『生協西野店』は、時期的には『ホクレンマーケット西野店』より少しあとに完成したと思うが、ワンフロアながらも本屋や時計売り場があり(私が初めて雑誌『レコード芸術』を買ったのはここでであった。1973年12月号である)、また席数はわずかだったがそば屋もあった(ワタシ、母親に連れられて入って、食べたことあります)。
ClarionFasshonable
 家電製品売り場も、クラリオンの、音量の大きさ(?)に応じて赤やら青やら黄色やら緑のランプが点滅するパネルがある不思議なステレオが、マニアックにも展示してあった(クロス型イルミネーションが素敵ぃ~)。

 このステレオ、なんという製品だったのかネットでいろいろ探したもののなかなか見つからなかったが、ようやくヤフオクでカタログが出品されているのを発見できた。『ファッショナブルステレオ』というシリーズだったらしい。
 両端のスピーカーの上に乗っかっているのが、その光るパネルである。

 なお、ホクレン(1977年1月閉店)、生協に続き、西野の街に第3の大型スーパー、西友西野店がオープンしたのは1976年のことである(建設が始まったころの光景はこちら)。

 この日C-60のカセットテープ(つまり片面30分)。
 もうテープが終わりそうなのに曲は終わらない。
 クラシック音楽を聴くようになって5か月ほど。エアチェックするのも慣れてきており、特にテープがなくなる直前にイジェクトボタンを押してすばやくカセットを取り出し、ひっくり返してまた戻し、録音ボタンを押す。その動作をすばやく行えるようになってきていた私。

 ラジカセの透明窓からカセットのリールを凝視し、テープから最後の端の透明テープに切り替わった瞬間にその動作を行う。
 慌ててしまうと手を滑らせてテープを落としてしまい、元も子もなくなるのでその緊張ったらハンパなもんじゃなかった。

 この日はコーダの途中、ほんとにあと2分ぐらいで終わるってところでA面のテープが終わり、B面への入れ替え作業。無事に成功したが、最初から30数分の曲だとわかっていたら、C-90のテープを使えばなんのことはない話ではあった(私が放送される曲と演奏時間が書かれた番組表が載ったFM雑誌(FM fan。この雑誌には恥ずかしい思い出がある)を買うようになったのは、それから少しあとのことである。

 何度か繰り返しこのテープを聴くうちに、第1楽章だけではなく第2楽章から終楽章までの音楽も-退屈なところもあったが-さすが楽聖さんの書いた曲と感心させられた(←中1のくせして何様になったつもりの言い分だか)。
 N響っていうのもすごいんだろうなぁとも思った。

BeethovenSym5_2nd_Score  N響とはかなり違ったベルリン・フィル
 ところがその2か月ほどあとに、カラヤン/ベルリン・フィルが来日。
 10月25日の初日の公演で「運命」が演奏され、私は生中継を聴きながらエアチェックもした(ちゃんとC-90を使って)。

 最初の「ジャジャジャーン」から迫力というか、キレが違っていた。

 また、とりわけ印象的だったのが、第2楽章の中間部。次第に曲が高潮しクライマックスに達したときの「ジャジャジャジャジャジャジャ……」という部分(楽譜を掲載した箇所。このスコアは全音楽譜出版社のもの)が、N響の演奏ではシャープな響きだったのに、ベルリン・フィルのは力強いのに響きがソフトでふくよかだったこと。

 私は演奏者によって1つの曲がこんなにも変わるということを、早くも知ってしまったのであった。

 にしても、最近「運命」を聴きたいっていう衝動にまったくかられなくなったなぁ。
 自分の体力とか精神力が、この曲に耐えられなくなってきてんのかなぁ……

Beethoven Sym6Zin  パインの輪切りがのった茶筒型のケーキも好きだった
 まるじょうストア→カスタムパルコ→札幌市民生協西野店→太田理容室→千秋庵→ウインキー→小沢商店→笹原商店(現・セコマ)。

 当時の山の手通り沿いのあの界隈は、向静学園方面に向かってこういった店が並んでいたような気がするが、時代的な記憶がごちゃごちゃになっているかもしれない。

 千秋庵といえば、最近『チョコレートオニオン』を見かけない。

 そう思って、お盆前に札幌のESTA地下にある千秋庵で聞いてみたら、とっくに、ほんとにかなり前に、終売になったという話だった。

 好きだったのに……(って、20年以上も食べてなかったんだけど)

追想-001♪1974年、私はこのコンチェルトに『入学』した

SchumannPconVogt  目的はB面の「ペール・ギュント」
 先日、久々に、本当に久々にグリーグ(Edvard Hagerup Grieg 1843-1907 ノルウェー)のピアノ協奏曲イ短調Op.16(1868/改訂1906-07)を聴いた。
 フォークトのピアノ、ラトル/バーミンガム市交響楽団による演奏(1992年録音。EMI)である。

 この演奏を取り上げたときにも触れたが、かつて(私が中学生とか高校生のころ)には甘美でロマンティックな傑作ピアノ・コンチェルトとして、この曲はけっこう有名だった。

 私がこの曲を初めて耳にしたのは1974年の秋のこと。

 私の家は札幌市西区の西野にあったが、当時西野にあったレコードショップは、『カスタムパルコ』の中に入っていた『コーヨー(光洋無線)』のレコードコーナーか、そのころ一角に市営バスの西野ターミナルがあった交差点の、北側の角のゑびすやの、その隣の雑居ビル(当時はこの1階か地下に志ぶ家があった)の、さらに隣の西野ビル(1階には西野書店(牧野書店)やヒロヤ靴店などがあり、2階には私が通っていた西野文化教室という学習塾があった)の、さらなる隣にあった『わたべビル』(2階が渡部歯科だった)の1階の『大西商会』の2軒。
 『大西商会』はその後『ぴぴ』という店にかわり(品揃えには変化なし)、また1976年に西友西野店(西町店ではない)がオープンすると、西野3軒目のレコードショップとして、その3階に『ミュージック・ショップ国原』がテナントとして入った。

 話が長くなったが、このコンチェルトのLPを、私は『大西商会』で買った。
 RCAの1000円盤(実際にはオイルショック後の値上がりによって1,300円)で、目的はB面に入っている「ペール・ギュント」組曲を聴きたかったから。それまでこのコンチェルトのことは知らなかった。

 ちなみに指揮者はグリュナー・ヘッゲという人物、ピアノはキエル・ベッケルント。
 この2人の名は、このLP以外では、その後、今日に至るまで私は目にしたことも耳にしたこともない(なお、オケはオスロ・フィル)。

  クラシック音楽は有名メロディーの宝庫
 あのときピアノ協奏曲が収められているA面にレコード針を落とし、曲が流れだしたときの感動!

 「おっ、このメロディー、聴いたことがある!」

 それほど有名な曲だったのである(テレビ番組などで使われていたのだろうか?クラシック音楽を聴くようになって、初めて耳にする曲がどこかで聴いたことがあると、まるで自分が作曲したかのようにうれしくなったものだ。いろんなところで何気なく耳にしてきたメロディーのことごとくがクラシック音楽。それってすごい!そう思ったものだ)。

YoshidaLP300 それから10年ほど経ったとき、私は吉田秀和の「LP300選」という文庫本を買った(文庫化の前の初出は1961年)。

 そのなかで吉田氏がグリーグのピアノ・コンチェルトについて、

 私たちはもう彼の『ピアノ協奏曲』を、卒業してよいころではあるまいか?これはシューマンのそれにならったもので、別にわるい作品とはいわないが、いかにも亜流だ。

と書いているのを読み、けっこう驚いたものだ。

 驚いたが、確かにこれを目にしたころには私もグリーグのピアノ・コンチェルトを好んで聴くなんてことはなくなっていたし、それまでの間、私の知る限りでは札響の定期や北電ファミリーコンサートでも、取り上げられたことはなかったんじゃないかと思う(私はこの曲を生演奏で聴いたことがない)。

 1974年に初めてこの曲を耳にしたときには、実は水面下ではこの曲の衰退がかなり進んでいたのかもしれない。

 ところで「LP300選」は、名曲を300曲選び、その名盤を紹介するものである。
 今回本棚の奥からこの本を取り出してみて、私は思った。

 私がクラシック音楽に魅せられ、聴くようになったのは1973年のことである。
 それから50年弱も経った。
 残りの人生の中では、もう2度と聴きなおしてみる機会がない曲もあるかもしれない。

 私は300曲を選ぶなんてことはしないが、それぞれの曲に出会ったときの思い出-その音楽と当時の『光景』ががっちりとリンクしている曲はそう数多くはないはずだ-を振り返るのも、いかにも年老いてきた人のやりそうなことで悪くないかなと思った(きわめて個人的なことだが)。

 そんなわけで、不定期の新シリーズに取り組むことにした(これまで書いてきた記事と重複する話も多々あるだろうが、書いている私でさえ良く覚えていないので、読んでいるあなたには初めての話のように新鮮に感じるだろう)。
 嫌がらないで、少しは楽しみにしていなさい。

激励のお気持ち承り所
最近寄せられたコメント
これまでの御来訪者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

メッセージ

名前
メール
本文
このブログの浮き沈み状況
読者登録
LINE読者登録QRコード
QRコード
QRコード
本日もようこそ!
ご来訪いただき、まことにありがとうございます。

PVアクセスランキング にほんブログ村
サイト内検索
楽天市場 MUUSAN 出張所(広告)

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
タグ絞り込み検索
ささやかなお願い
 当ブログの記事へのリンクはフリーです。 なお、当ブログの記事の一部を別のブログで引用する場合には出典元を記していただくようお願いいたします。 また、MUUSANの許可なく記事内のコンテンツ(写真・本文)を転載・複製することはかたくお断り申し上げます。

 © 2014 「新・読後充実度 84ppm のお話」
  • ライブドアブログ