その曲に出会った時の幸福な思い
1973年は私がクラシック音楽の魅力に取りつかれた元年。あれから50年か。やれやれ……
それと一緒なのだろう。
きちんと回数を数えているわけではないが、これまでいちばん数多くを聴いてきた曲は1983年1月に知った伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』(Lauda Concertata per Orchestra e Marimba)」(1976)ではないかと思う。
この月の札響定期で完全にノックアウトされた。
そのあとはとにかく聴いた(それでも、よく言われていた、レコードが擦り切れるってことはなかった)。

お父さんの理路整然とした音楽はもう古い!
バッハはバッハでも、大バッハ、つまりあの音楽室で児童をにらんでいたバッハ、要するにJohann Sebastian Bach(1685-1750)、ではない別のバッハの音楽に初めて接したのは1974年2月12日のことだった。
平日の朝の6:15から毎日放送されていた、NHK-FMの「バロック音楽のたのしみ」。
この日、J.S.バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88)の曲がかかった。
バロック音楽ではないのに、シンフォニア ホ短調Wq.177,H.652(1756)が。
なんとなく《シンフォニア》という響きに誘われエアチェックをしたが、その『虫の報せ』は大的中。
この不思議-立ち位置が-な音楽にすっかり夢中になってしまった。
そのころ私はすでに、バロック音楽であるJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲を知っていた。ほかにも主要な作品のいくつかはすでに知っていた。
また、古典派のモーツァルトの曲もいくつか知っていた。
この2人の時代をつなぐように活躍したが、いまでこそその名は少しは知られているが、当時はほとんどLPレコードもなかったC.P.E.バッハ(いまでもその位置づけは『前古典派』である。これからもそうだろうけど)。
初めて耳にする彼の曲は、バッハの音楽のように-感情を押し殺しているとは思わないものの-終始取り乱すことのない音楽と違い、実に自由奔放に聴こえた。
また、そのあとの古典派のモーツァルトの音楽よりもはるかに刺激的だった(このころ私は、モーツァルトは退屈だという、罰当たりな考えを持つようになっていた)。
疾風怒濤なわけです
CPEBのオーケストラの響き(Wq.177は弦楽合奏の曲である)は、いまでも聴いていて、古典派でも例えばモーツァルトのシンフォニーに通奏低音としてチェンバロを加えた場合の響き(効果)、とも違う新鮮さがある(ちなみにWq.177のシンフォニアが書かれた1756年はモーツァルトが生まれた年である)。
この演奏はレッパード/イギリス室内管弦楽団による演奏だった。
しかし、このエアチェックしたテープ以外で、その後聴く機会はなかった。
いや、実はWq.177自体を、その後も聴く機会がないままだ。
ただし、Wq.177に管楽器を加えた異稿であるWq.178,H.657(1756)の形で、その後この曲に再会することができたのだった。
それはあれから20年以上経った1997年になってのことだった(その間に私が、CPEBのいろいろな曲をできうる範囲で開拓したのは言うまでもない)。 ここでも紹介したベルリン古楽アカデミーの演奏(2000年?録音。ハルモニア・ムンディ)が、これまで聴いた中ではいちばんやんちゃだ(レミー/レザミ・ド・フィリップの演奏(1995年録音。cpo)の演奏もすごいのだが……。あぁ、苦悩のエマニエル夫人って感じだ)。
行儀の良い父の音楽に反抗しているかのような演奏なのだ。
えっ、どっちも入手困難だって?
あの年-1974年-に制作された映画「エマニエル夫人」はいまでもDVDが出てるというのに……
なぜ、エマヌエルばかりが不当な扱いを受けるのだろう……
ロシア人の名前はややこしい
それまでも何度か来日したことがあったレニングラード・フィルが、初めてムラヴィンスキーとともに日本にやって来たのは、1973年のことだった。
とはいえ、私がクラシック音楽に魅かれ、聴くようになったのはこの年の3月か4月のこと。
何月のことか忘れたが、NHKの教育テレビ(いまではEテレという名前に進化した)でその公演が放送されたときだって、若葉マークの私にとってはムラヴィンスキーという指揮者の名前も知らず(それどころか生まれて初めて知ったロシア語かもしれない)、しかも1回では覚えられなかったし、オーケストラの何の楽器か忘れたが、時折アップで写るおばちゃんがたいそうおっかなそうな人で、「さすがソヴィエト」と妙な納得をしたものだった。
「部長刑事」って知ってらヴィンスキー?
そのTV放送を観ているときである。
ムラムラなんとかさんが指揮するレニングラード・フィルが、いきなり『部長刑事』のオープニング曲を演奏し始めたではないか!
「部長刑事」っていうのは、むかし毎週何曜日かにやっていた30分のドラマで、小さいころの私には内容はよくわからなかったが、なんだかその陰気臭い雰囲気に恐怖すら感じた(その後青年期になった私は淫靡なものには恐怖ではなく興味を持った)。両親のどちらの好みでもないと思うのだが、とにかく毎週観ていたようだ。
そして、私にはそのオープニングの曲がひじょうに印象に残っていた。
それをンスキーさまが振っている。
実は「部長刑事」のオープニング曲はオリジナルではなかったのだ。
それは、のちに私の中で『3大作曲家』の1人となる、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)の、第4楽章の出だしの部分だったのである(使用に当たって著作権料をちゃんと払っていたのかしら?)。
そして、この日が私がショスタコを知った記念すべき日となった(っていうわりには、日付不明)。
最近調べてみたら、この第5番をやった演奏会は5月26日に行なわれたものだという(そのライヴCDも出ているが、私は未購入)。
上にも書いたように、TV放送されたのはいつかわからないが、なんとなく秋だったような気がする。
当時、鑑賞レパートリーを増やすにはもっぱらラジカセでFMをエアチャックするしかなかった身だったが、この素敵なタコ5がFMで放送されることはなかなかなかった。
そうして何か月かが過ぎ、クリスマスの日が近づいてきた。
君も歌ってみないか?
私は、サンタクロースはこの世に実在すると信じてやまない純粋な中学生を親の前で演じ、まだクリスマスの半月前にもかかわらず、親と一緒に徒歩圏内の札幌は西野の、当時は街の発展の象徴であったカスタムパルコの1階の光洋無線(電器のコーヨー)に行き、コロンビア製のレコードプレーヤーを買ってもらった。もちろんクリスマスプレゼントとしてである(って、サンタクロースの存在の話はどこに飛び散ってしまったのだろう?)。
このプレーヤーはスピーカーはいっちょ前に独立しているものの、ターンテーブルはシングル盤サイズで、ご存じの方も多いと思うが、LPレコードを乗せると引田天功によるレコードが空中浮揚するマジックを観ているような感じになるものである。
たまたま今回ヤフオクで見つけたのだが、この写真と同じ機種だったと思う。
マイクが使えるようになっているのも不思議だ。レコードに合わせて歌うってことなんだろう。左側の穴がマイクを刺しておくホームポジション。その隣がマイクの入力ジャックである。 ちなみに私たち一家は1971年の秋に、祖父母が住む家に同居する形で浦河町から引っ越してきたが、山の手通り沿線には、まだ農地がけっこう残っていたし、ふもと橋もできて間もなかったと思う。
山の手通り沿いの、今の住所で西野の8丁目とか9丁目あたりは、特にリンゴ園だらけで、その近くで120レーンもあるという触れ込みの『ジャイアンツボウル』の建設が始まっていた(結局最初は60レーンで、120に増えることもなく60レーンのまま、数年後には閉館してしまった)。
つまりこのころ、1970年代に入って、西野は宅地として急速に発展し、爆発的に人口が増えてきていたのだ。
祖父母が夕張から札幌に出てきたとき、西野に土地を買い家を建てたのは、先見の明があったのではなく、札幌としては恐ろしく土地が安かったせいなのである。
そののびゆく街・西野の象徴が『カスタムパルコ』であり『ジャイアンツボウル』であったし、それに先行して大型店舗の『ホクレンマーケット』や『生協西野店』も進出していたのである。
ちなみに私が通っていた手稲東中学校は、生徒数がどんどん増え、私の学年は3年間とも10クラス以上あった。
今度はソフトを買いにコーヨーへ
さて、プレーヤーを買ってもレコードがなければなんにもならない。ろくろの代わりにすらならない。
ここでキーワードとなるのが《祖父母と同居》である。
私はばあちゃんにすり寄り小遣いをせしめた(前の年は、クリスマス時期ではないが、じいちゃんにすり寄って天体望遠鏡をゲットした)。
さて、こういう経緯から、私が生まれて初めて自分で買ったLPレコードがショスタコの第5番となったのだった。
買った場所はカスタムパルコのコーヨーのレコードコーナーであり、そこにストコフスキーが指揮するニューヨーク・スタジアム交響楽団という偽名のオーケストラが演奏する1000円盤(オイルショック後で1200円になっていた)があり-よくこの曲のLPがあったものだ。さすがカスタムパルコ!さすがコーヨー!-それを購入したのだ。
もちろん私にはストコフスキーという人が若いのか年寄りなのか、生きているのか死んでいるのかも知らなかったし、オーケストラにしても、ニューヨークってつくぐらいだからすっごい有名なオーケストラだと思ったものだ(が、契約の関係から、レコーディングに当たっては架空の名を名乗っているどこかのオーケストラだったのである。いや、実はニューヨーク・フィルというすっごいオーケストラではあったんだけど)。
ところが買うにあたって、新たな問題が生じた。
このLPは売れないと店のお兄さんが言い始めたのだ。
未成年には売れないっていうのか?
いや、違う。
もはや見かけることのない風景ではあるが、LP時代は、完全密封されている盤は別として、必ず盤をとりだし、傷がないか検盤していたのである。みなさんだってむかしは検便をしていたではないか!
そしてのタコさんはそれに引っかかったのである。つまり傷物だったのだ。
ふつう傷がついていたら、その商品は値引きして売ってくれるのが世の常識だが、ことレコードに関してはそうではなかった。「売れません!」なのである。
だが、ここに書いたように、そしてここでも書いたように、私は泣きこそしなかったが泣きそうな顔で、それでもいいから売ってくだしゃいとお願いした。
お兄さんはあとから私の親が「息子にこんな傷ものを押し付けやがって」と文句を言いに来るのを恐れたのかもしれないが、品行方正な態度から私を信じて売ってくれたのだった。
ただ、その傷の場所が第3楽章ではなく、肝心の第4楽章についていたら、この私だって買わなかっただろう。 だって、いやいや喜ばされてるんですもん
このレコードのジャケットの裏面には解説が書かれていたが、第4楽章については“革命の成功を喜ぶ人民の歓喜の行進”みたいなことが書かれていた(当時、この曲は「革命」の標題で呼ばれることが多かった)。
また、ほかの資料を見ても、そういう見解が当たり前となっていた。
しかし、私には正面から聴こうと、寝そべりながら聴こうと、これがうれしそう”には全然聴こえなかった。
その後、S.ヴォルコフの(のちに偽書という位置づけになったが)「ショスタコーヴィチの証言」で、ショスタコーヴィチが「これは強制された歓喜」「さあ喜べ喜べと鞭を打たれたもの」と言っているのを見て、ようやくスッキリ、自分の感性が間違っていなかったことに自信をもったのだった。
ところでその傷は、点状のものが5つつながっているもので、第3楽章の終わり近く、181小節目のチェレスタが寂しげに登場するところで、ガガガガガ(←早口言葉以上に速いテンポ) ガガガガガ ガガガガガ ガガガガガ ガガガガガ と雑音が鳴った。第3楽章は190小節までしかないがテンポが遅いので、181小節から数小節分でその嵐は急速に過ぎ去ったのであった。
ただし、いまでもこの楽章を聴いていると、それが誰の演奏のときでも、この箇所にさしかかると頭の中でノイズが再現されるのには困ったものである。
そしてまた、ストコフスキー/ニューヨーク・スタジアム響のこの音源は、2013年にそのCDを発見。いまでもときどき聴いている(1958年録音。ウェストミンスター)。
いまではこの交響曲第5番が「革命」と呼ばれることはほとんどなくなった(ショスタコーヴィチはそのような標題を口にしても書いてもいない)し、光洋無線西野店はその後カスタムパルコから撤退(空いた1Fフロアはその後、ぱっとしない食料品店『ノルドストア』になったが短命に終わった)。さらに光洋無線自体はマツヤデンキに変わったのだった。

「それではさっそくお聴きいただきましょう」
こんなアナウンスの最後の断片から、そのテープは始まる。
その直後に力強くシンフォニーが鳴り響く。
その声はアナウンサーのものではない。音楽評論家の藁科雅美のどう転んでも透きとおった声とは言えないものだ(ちなみに、男です)。
「それではさっそくお聴きいただきましょう」という声を、私は入れたくて入れたのではない。
曲が始まるのが今か今かと待っていて、エアチェックの録音スタートでフライングしてしまったというオチだ。
正確な日付けを記録していないのだが、1973年の8月。NHK-FMで20:05から放送された「N響夏のステレオコンサート」という番組。
藁科氏の言葉に従いさっそく聴くと同時に録音したのは、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第5番ハ短調Op.67(1805-08)。いわゆる「運命」である。
そもそも交響曲とはどういうものかもよく知らなかった私
指揮はサヴァリッシュ。
冒頭の有名なモティーフは、鑑賞とは別な次元で耳にしたことはあったが(TVマンガの中などで)、「運命」を交響曲として聴くのは事実上初めて。いや、ベートーヴェンの交響曲自体、聴くのは初めてである。
そして、この曲が「ジャジャジャジャーン」だけじゃなく、聴いたこともないメロディーが出てきて(つまり第2~第3楽章)30分以上も続くとは思わなかった。やれやれ。
ところで番組名がなぜ「ステレオコンサート」なのか?
実はこのころは、FMでもまだステレオ放送ではない、つまりモノラルの番組も少なからずあったのだ。
それを聴き、そして録音している、私のラジカセも、ステレオラジカセなんてものではなく(そういうのは世の中になかった)、モノラルのこれだったのだ。
このとき使ったのはFUJIのC-60のテープ(上の写真の右側下段の奥に写っている赤いやつ)。
このテープは、西野界隈(札幌市西区です)ではなぜかコープさっぽろ西野店(当時は確か『札幌市民生協西野店』)にしか売っていなかった。
この『札幌市民生協西野店」は、建物も、そして場所も、現在の『コープさっぽろ西野店』とは異なり、山の手通りに面していた。現在の『コープさっぽろ西野店』の山の手通り側の駐車場のところである。
TDKやSONYのテープよりかなり安かったので、本当はTDKとかSONYばかり使いたかったにもかかわらず、経済上の理由から私は主にそれを使っていた(ただ私の経験からすると、TDKの90分のテープは伸びやすい、あるいは切れやすいように思った)。
『生協西野店』は、時期的には『ホクレンマーケット西野店』より少しあとに完成したと思うが、ワンフロアながらも本屋や時計売り場があり(私が初めて雑誌『レコード芸術』を買ったのはここでであった。1973年12月号である)、また席数はわずかだったがそば屋もあった(ワタシ、母親に連れられて入って、食べたことあります)。
両端のスピーカーの上に乗っかっているのが、その光るパネルである。
なお、ホクレン(1977年1月閉店)、生協に続き、西野の街に第3の大型スーパー、西友西野店がオープンしたのは1976年のことである(建設が始まったころの光景はこちら)。
この日C-60のカセットテープ(つまり片面30分)。
もうテープが終わりそうなのに曲は終わらない。
クラシック音楽を聴くようになって5か月ほど。エアチェックするのも慣れてきており、特にテープがなくなる直前にイジェクトボタンを押してすばやくカセットを取り出し、ひっくり返してまた戻し、録音ボタンを押す。その動作をすばやく行えるようになってきていた私。
ラジカセの透明窓からカセットのリールを凝視し、テープから最後の端の透明テープに切り替わった瞬間にその動作を行う。
慌ててしまうと手を滑らせてテープを落としてしまい、元も子もなくなるのでその緊張ったらハンパなもんじゃなかった。
この日はコーダの途中、ほんとにあと2分ぐらいで終わるってところでA面のテープが終わり、B面への入れ替え作業。無事に成功したが、最初から30数分の曲だとわかっていたら、C-90のテープを使えばなんのことはない話ではあった(私が放送される曲と演奏時間が書かれた番組表が載ったFM雑誌(FM fan。この雑誌には恥ずかしい思い出がある)を買うようになったのは、それから少しあとのことである。
何度か繰り返しこのテープを聴くうちに、第1楽章だけではなく第2楽章から終楽章までの音楽も-退屈なところもあったが-さすが楽聖さんの書いた曲と感心させられた(←中1のくせして何様になったつもりの言い分だか)。
N響っていうのもすごいんだろうなぁとも思った。

ところがその2か月ほどあとに、カラヤン/ベルリン・フィルが来日。
10月25日の初日の公演で「運命」が演奏され、私は生中継を聴きながらエアチェックもした(ちゃんとC-90を使って)。
最初の「ジャジャジャーン」から迫力というか、キレが違っていた。
また、とりわけ印象的だったのが、第2楽章の中間部。次第に曲が高潮しクライマックスに達したときの「ジャジャジャジャジャジャジャ……」という部分(楽譜を掲載した箇所。このスコアは全音楽譜出版社のもの)が、N響の演奏ではシャープな響きだったのに、ベルリン・フィルのは力強いのに響きがソフトでふくよかだったこと。
私は演奏者によって1つの曲がこんなにも変わるということを、早くも知ってしまったのであった。
にしても、最近「運命」を聴きたいっていう衝動にまったくかられなくなったなぁ。
自分の体力とか精神力が、この曲に耐えられなくなってきてんのかなぁ……

まるじょうストア→カスタムパルコ→札幌市民生協西野店→太田理容室→千秋庵→ウインキー→小沢商店→笹原商店(現・セコマ)。
当時の山の手通り沿いのあの界隈は、向静学園方面に向かってこういった店が並んでいたような気がするが、時代的な記憶がごちゃごちゃになっているかもしれない。
千秋庵といえば、最近『チョコレートオニオン』を見かけない。
そう思って、お盆前に札幌のESTA地下にある千秋庵で聞いてみたら、とっくに、ほんとにかなり前に、終売になったという話だった。
好きだったのに……(って、20年以上も食べてなかったんだけど)
この演奏を取り上げたときにも触れたが、かつて(私が中学生とか高校生のころ)には甘美でロマンティックな傑作ピアノ・コンチェルトとして、この曲はけっこう有名だった。
『大西商会』はその後『ぴぴ』という店にかわり(品揃えには変化なし)、また1976年に西友西野店(西町店ではない)がオープンすると、西野3軒目のレコードショップとして、その3階に『ミュージック・ショップ国原』がテナントとして入った。
「おっ、このメロディー、聴いたことがある!」
それほど有名な曲だったのである(テレビ番組などで使われていたのだろうか?クラシック音楽を聴くようになって、初めて耳にする曲がどこかで聴いたことがあると、まるで自分が作曲したかのようにうれしくなったものだ。いろんなところで何気なく耳にしてきたメロディーのことごとくがクラシック音楽。それってすごい!そう思ったものだ)。
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