コンサート
幸いなことに、私は第300回の記念となる定期演奏会で、荒谷の指揮によるJ.C.バッハのシンフォニアの再演を聴くことができた。
前半で計画的挫折
10月3日14:00~、札幌コンサートホールKitara。
指揮・広上淳一、ピアノ小山実稚恵で、プログラムはラフマニノフが2曲。
「ピアノ協奏曲第3番」と「交響的舞曲」である。
で、私は「交響的舞曲」は聴かず、前半の「ピアノ協奏曲第3番」だけで失礼した(←誰に?)。
なぜ「交響的舞曲」は聴かなかったのか?
あまり好きじゃないからである。その布石はおとといの記事で打っておいたではないか!それが布石だと気づいた人は誰一人いなかっただろうが……
そしてまた、10月1日の北海道新聞夕刊に載った広上へのインタビューで、指揮者自らが“渋いが、この作品が個人的には一番好きなので今回思い切って選びました。お客受けはあまりしませんけど(笑)。今回紹介することで、少しでもファンを増やしたいと思ってます”と言っているのを読み、渋い曲やマイナーな作品を差別しない私ではあるが、たとえ生で聴いたとしても“私受け”もしないだろうなと、計画的に会場をあとにしたのだった。
ファン増に貢献しなくてすいません。
30年……齢もとるわけだ……お互いさまだけど
ラフマニノフ(Segei Rachmaninov 1873-1943)のピアノ協奏曲第3番ニ短調Op.30(1909)。
4曲あるラフマニノフのピアノ協奏曲(他に「パガニーニの主題による狂詩曲」がある)のなかでは、第2番が最も人気が高いが、それに次ぐのが第3番。
私もかつては全人類の嗜好同様第2番がいちばん好きだったが、いまでは第3番の方にひかれる。
小山実稚恵は今年デビュー30周年。
札響と初共演したのは1984年だそう。これまで14回札響と演奏しているが、そのうち5回がラフマニノフ(第2番2回、第3番3回)なんだそうだ。
ということは、指折り数えると、今回が4回目の第3番ってことになる。
今回の演奏会パンフには別冊の30周年記念冊子が挟み込まれていた。
そうそう、定期演奏会のパンフの表紙が、指揮者やソリストの写真から絵画に変わっていた。いつからかは知らないが、これからしばらくはこういうシリーズでいくのだろうか? 検査ならスイッチ押しっぱなし
さて、演奏であるが、私はまったく集中できなかった。
言うまでもなく奏していない私が奏するのに集中できなかったはずはなく、聴くことに集中できなかったのである。
オケが鳴り始め、ピアノが入る。これまでに経験したことのない弱音でかみしめるように弾く、というところまではよかった。
というのも、どこかで微かに変な音が聞こえたのだ。ピーピーピーという電子音が。
どうもステージに向かって右側のようだ。客席なのか舞台裏なのかわからない。
しかし腕時計のアラーム音とか、舞台裏で炊飯器が「ごはんが炊けましたよ!」と教えてくれている音ではない。
時おり消えるものの、ほとんどずっと鳴り続けているからだ。魚群探知機のようだ(魚群探知機のことをよく知らないけど)。
あっ、人間ドックの聴力検査のピーピーピーという音(低い方)にそっくりだ。それを人体実験のように延々と聞かされている感じだ。
Kitaraのリニュアル工事が終わったあと、私がホールを訪れたのはこの日が初めて。改修によってどこかが共振するようになったのだろうか、とさえ思った。
会場を見渡してみたが、客席でそのことに気づき、疑念と不信を抱いているような動きをしている人は見受けられない。
ということは、これは私だけにしか聞こえないのか?私の内耳で鳴っているのか?
だとしたら、ビョーインに行って、本家本元の、ピーピーピーが聞こえる聞こえないの検査を受けなければならない。
第1楽章が終わったとき、隣の妻に「微かにピーピーピーって聞こえない?」と聞くと、「わからないけど」と答えた。
ステージ上の皆さんの様子も、いつもどおりの楽章間の一息の眺めであり、指揮者が客席に対してガンを飛ばすわけでもない。
各出入口に待機しているホールの係員も恐れおののいたりしていない。
やっぱり私の耳が警告を発しているのか?
結局、曲が終わるまで私はピーピーピーに悩まされた。
小山のピアノは尻上がりに良くなった気がする。熱演であったことは間違いない。
が、ピーピーピーのせいで、私にはきちんとした感想を述べることができない。
アンコールで小山はスクリャービンの「2つの左手のための小品」Op.9から第2曲「夜想曲変ニ長調」を弾いてくれた。
このアンコール曲が始まったとき、客席のある場所で係員が客の1人に何かを言いに行った。間違いなく注意を促したと思われる。
たぶん、私が40分間悩まされ続けたピーピー音に関係するに違いない。
異音は止んだ。が、またすぐに再び鳴り続いた。
奏者たちも集中力に欠けた?
アンコールが終わり、休憩に入ったとき異例のアナウンスが流れた。
ただいまの演奏中、電子機器による異音が発生しました。お持ちの機器の確認をいま一度お願いいたします。
そんな内容のものだった。
さらに、「補聴器の音量にご注意ください」というようなことも言った。
やっぱりあのピーピーピーは私の内なる音ではなかったのだ。
気づいていた人は他にもいたのだ。私よりはるかに耳が鋭敏な指揮者とソリスト、そしてオーケストラの団員にも聞こえていたはずだ。
第1楽章が終わったあと、指揮者が客席に注意を促すべきだったのかどうか判断が難しいところだが、私はひと言あってもよかったのではないかと思う。曲の流れに水を差すことにはなるが、ずっと水を差され続けるよりはいい。
私はこの演奏、ステージ上の皆が集中しきっていなかったのではないかと思う。
ソリストにもやや雑な面が感じられた。
アナウンスの内容からして、今回の異音の原因は補聴器だろう。
近くの人はたまらなかったろう。
補聴器をつけた人がコンサートを楽しむ。それはまったく自然で自由なことである。
これから先の時代、補聴器を使う人は増えていくだろうし、私もお世話になるかもしれない。
補聴器について私はなんの知識もないが、きちんと装着しないとハウリングか何かでキーンと音が出ることもあるらしい。ぜひとも始まる前に適正に装着されていることを確認していただければと思う。 休憩時間にロビーへ向かう人々。
私の後ろで男性が「どこで鳴っているのかなぁと思った」と、連れの人に話していた。
やっぱり多くの人に聞こえてたんだ。
でも主語が聞き取れなかった。もしかすると、主語は「誰かの腹の音が」だったのかもしれない。
CDではあっさり系のトルプチェスキの独奏、ペトレンコ/ロイヤル・リヴァプール・フィルの演奏をご紹介しておく(この演奏についての記事は→こちら)。
2009年録音。Avie。
あぁ~来月の定期(指揮・アシュケナージ、ピアノ・河村尚子。モーツァルトの25番のコンチェルトにショスタコの第10番)、行きたかったなぁ。
どーしてもはずせない仕事があるの……
12月13日14:00~、札幌コンサートホールKitara。
プログラムはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35(1878)とショスタコーヴィチの交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。
ショスタコの15番を生で聴くのは今回が2回目。前回も札響の定期。今から20年前のことだ。
また、チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトはベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーンの作品と並び超有名曲だが、私は意外と演奏会では聴いておらず、たぶん3回目か4回目。
にしても、これらの俗称を並べると、ベト・コン、ブラ・コン、メン・コン、チャイ・コンとなるわけれ、なんだかゲヒ~ン!
それはともかく、指揮はクラウス・ペーター・フロール、ヴァイオリンはオーガスティン・ハーデリッヒ。
昨日紹介した12月11日付北海道新聞夕刊のインタビュー記事でフロール氏は次のようなことを述べている。
・交響曲第15番はなかなか演奏する機会がないので、今回は光栄である。
・技術的にも難しいが、人生経験も要求される曲だ。
・この曲を聴くと、今の平和が生まれるまで多くの人が命を落としたのか忘れてはいけないと感じる。
指揮者に要求されるのと同じようなことが聴き手にも要求されるとしたら、中学生の時からタコ15が好きだった私は、早くにして人生経験を積んでしまっていたってことになる。
確かに、中学生なのに多肉植物やサボテンを育てるのが好きだったし、ポピュラー音楽になんて関心が無くてクラシックを聴いていたので、おじさんくさいとは言われてたけど(女子の一部の性格のよろしくない人の中には、おじいさんくさい、というヤツもいた)。
室内楽的だが重層的
ショスタコーヴィチの交響曲第15番は声をひそめた室内楽的響きが曲の大半を占める曲だ。
私のように好きになってしまうと、これほど不思議な魅力ある作品は他にないってほどハマルのだが、なかなかなじみにくいと感じる人が少なくないのは間違いない。
この日の演奏でも(前半のチャイ・コンに比べ)、途中からどーしたもんだべと持て余している人たちが少なからずいることが会場の雰囲気から感じられた。
季節がら風邪ひきさんが多いのはわかるが、やたら咳の音があちこちから聞こえた。どうしていいかわからないときに咳でごまかすのはやめましょう。
なかには「ヒュインッ!」みたいな妙な咳もあって、「大丈夫か?気管支炎になってるんじゃないのか?」と、迷惑をかけられているのに見知らぬその人のことが心配になった、お人好しな私。
それから、聴きながら白い扇子で顔をあおいでいた人がいたが、センスやパンフを振るのは、本人はまったく気づいていないだろうが、かなり気になるものだ。目障りともいえる。あれはやめてほしい。暑くて(ホール内は決して暑くはないが)どうしても顔を扇ぎたいなら、せめて黒っぽい扇子にしてほしい。いや、やっぱりがまんしていただきたい。
15番の演奏は、かなりアクの強いものだった(こういう演奏はあまり記憶にない)。
また、全楽章を休止なしでほとんどアタッカ状態で進めた(これがまた、初めて聴く人には、このあまりメリハリのない暗い曲がどこまで進んでいるのか不安にさせたに違いない)。
フロールは強弱のアクセントやフレーズ間の間合いを強調しており、私としてはかなり面白いな演奏だわいと、咳込む人たちを尻目に演奏にのめり込まれた。
オーケストラは細かなミスやアンサンブルの乱れが多少あったが、この意味深な難曲を感動的に演奏しきった。
にしても、コントラバスが10人。むかしの札響では考えられなかった光景だ。
そのせいだけではないが、ショスタコの15番をこんなに厚みのある響きで耳にしたのは初めてだった。単に室内楽的だという見方はあらためなければならないと思わされた。フロールに。
やっぱりチャイ・コンは人気があるのね
話が逆になったが、1曲目のチャイ・コンのソロを務めたハーデリッヒは、間違いなく今後かなり活躍していくであろう若手。
コンチェルトのときは音の線が細く、強烈なオーラを感じなかったのだが、熱狂的な拍手に応えて演奏されたアンコール、パガニーニの「24の奇想曲」の第24番は息を飲むもの。
やっぱり、この人、すごい。
アンコールでそれをわからせられた。ハーデリッヒに。
消えゆく響き
ショスタコーヴィチの交響曲第15番の最近のCDではボレイコ/シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏がなかなかいい。
2010年ライヴ録音。ヘンスラー。
この日のステージ。
第1ヴァイオリンの一番後ろに譜面台と椅子が。
そこには奏者は座っていない。
代わりに椅子の上あったのは一輪の花。
ショスタコーヴィチの最後の音が消え行ったあとの静寂は、石原さんへの黙とうのようだった。
新発売の伊福部はお預け
昨日10月25日14:00~、札幌コンサートホールKitara。
予告記事を書いたとおり、尾高忠明の指揮でマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。
キングから伊福部作品のCD3点がリリースされ、木曜日には私の手元にあったのだが、伊福部に溺れるとマラ9鑑賞に支障をきたしそうなので、聴くのはダメよダメダメ。
コンサートに備え、耳から手が出そうなのをこらえて聴くのををがまん。 マラ9二千年、おやおや、マラ9に千円、おいおい、マラ9に専念した。
予告記事のときはジュリーニ/シカゴ響の演奏を取り上げたが、その後考え直し、同じシカゴ響でもブーレーズ盤を何回か繰り返して聴いてみた。
この演奏、グッと心に迫るものではないけれど、以前も書いたようにどこか気になる、そしてややはまりかけるものだ。
鈴木淳史は「クラシックCD名盤バトル」(洋泉社新書)でこの演奏を推している。
両端楽章は、その運命を受け入れるかのように、枯れている。主題が最終的に聖化されて高らかに歌われるのではなく、徐々に消滅に向かう作品だから、この方法は理に適っている。室内楽的な書法が美しく響く。それに比べて、中間の2つの楽章は悪魔のダンスのように、やたらに乾いていて細かいのが邪悪。というか、ここまで悪ふざけしたこの楽章を聴いたことがない。 何もしていない(ってことは、もちろんないのだけれど)、余計な装飾を一切取っ払って裸をさらしているような、曲の実体そのものをピュアに表現しているという感じ。
ただし、冷めた無感情モードというものでもないし(むしろけっこうタメがあったりする)、いたずらに絶叫しないのが逆にしんみりくる。終楽章のテンポの絶妙な変化のさせ方なんて、それだけでジーンとくる。
が、正直なところ、も少し感情の渦に巻き込まれたいとも思う。
1995年録音。グラモフォン。
で、尾高/札響の演奏は
熱演だった。力演でもあった。
正直言って、期待を上回る演奏。
オーケストラはよく鳴っていた。各パートもいずれもが表現力豊かで、ミスもほとんどなかったように思う(その中でも今回特筆すべきはホルンだった)。
弱音の箇所も美しい。が、その室内楽的に響く箇所でのしんみりした静けさがやや物足りない。深みある味わいが欲しい。微妙な強弱のニュアンスの不足が、一本調子っぽくなった。それが残念だが、尾高のマーラーではこれまでもそう感じることが少なくなかった。
終演後に飛び交うブラボー・コール。
それに値する立派な演奏であったが、個人的には深い感動に包まれるまでにはいたらなかった。
今回聴きながらあらためて思ったのは、それにしても札響はすごいオーケストラに成長したなぁということ。
札幌市民会館であまり大きくない編成の曲中心にやっていたころとは、まさに隔世の感がある。
保守的なプログラムを岩城宏之が改革し、さらに尾高がここまでに育て上げたことは間違いない。
その尾高は、今シーズンで札幌交響楽団の音楽監督をおりる。音楽監督としてタクトを振るのも、あとは2月の定期のみとなった(プログラムはシベリウスの交響曲第5~7番)。
昨日6月28日14:00~。札幌コンサートホールKitara。
プログラムはヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813-1901 イタリア)の「レクイエム(Messa da requiem)」(1874)。
こういう90分近い曲の場合って、途中で尿意をもよおしてしまったらどうしよう。待ったをかけられないおなかゴロゴロに急襲されたらどうしようと、何かと不安材料を抱えてコンサートに臨むことになる。
変な話、楽しみなんだけど重い気分。私はこれを“楽重モード”と呼ぶ(覚えなくてもよいです。この言葉、二度と出てきませんので)。
指揮は今シーズンで札響の音楽監督を辞める尾高忠明。
独唱は、安藤赴美子(S)、加納悦子(Ms)、吉田浩之(T)、福島明也(Br)。
合唱は札響合唱団、札幌放送合唱団、ウィスティリア アンサンブル、どさんコラリアーズ。どさんコ……ねぇ……
ヴェルディのオペラを凝縮したPR版的存在
この曲、もともとは1868年に亡くなったロッシーニのために、13人のイタリアの作曲家がレクイエムを合作するという企画から書かれた。ヴェルディの担当は最後の部分「リベラ・メ」。
しかし、これは演奏されることなく終わった。そこでヴェルディは、1873年に亡くなった詩人で小説家だったアレッサンドロ・マンゾーニの追悼のためにほかの部分を作曲、全曲完成させ、翌年の1周忌に初演された。 私はオペラはあまり観ないし聴かない。
だからヴェルディのオペラもあまり知らない。全曲を通じて聴いたことがあるのは「アイーダ」だけだ。
このレクイエムは、ヴェルディのオペラのよう、言葉をかえれば、レクイエムらしくないオペラチックな宗教曲、だと言われる。
ということで、私にとってはこのレクイエム、これ1曲でヴェルディのエキスを堪能できる美味しいとこどりバイキングのような作品なのである。
オペラはもっとすばらしいのだろう(だって総合芸術ってものですもん)。だから、オペラ・ファンの方には申し訳ないと思っている。こんな言い方をして。
あなたに青を!
ここでKitaraに行く前の話を。
金曜日の夜に自宅に戻り、ビールとハイボールを飲んで寝た。
翌朝。
なんと小雨。うなだれる私、激励するサポーター???
しかし8時過ぎに雨が上がったので、長靴を履いてバラの剪定、誘引、雑草抜きの作業を1時間半ほど強行。 庭はすっかり雑草天国。しかし、バラが咲き誇り、すっかり花園。
写真は“ブルー・フォー・ユー”。今年わが庭に仲間入りした品種。
きれいだ。人さまに自慢したくなる。私が品種を生み出したわけでもないのに……
これは2006年にイギリスで誕生した品種で、ブルーといっても紫色。ご存知のように真っ青な花を咲かすバラはいまだに品種改良に成功していない。
名前の意味は、もちろん“あなたにブルーな気分を”ではない。きっと。
パット・オースティンもオレンジ色(カッパー(銅)系色といわれる)の花で存在感を放っている。
Kitaraへ向かう
昼前に家を出て、三省堂書店と島村楽器を覗き、そのあとニッセイビルの地下でホットドッグを食べようかと思ったが、急に心変わりしてそば屋へ。そこで親子丼を食べ、そのあとKitaraへ。
来るたびに、ロビーの光景を見て若い人がいないことに札響の将来を心配している私だが、この日はいつもよりは若い人たちの姿が目立った。あっ、合唱団員のお友達とか子供、あるいは遠い親戚とかが集結していたのかもしれない。
今回は、合唱団も独唱も黒い衣装。
これは参列者、いや、客も意表を突かれたかも。私は「なんだか慰霊祭みたいだなぁ」って思った。いいんじゃないでしょうか。死者のためのミサ曲をやるわけだから。
その死者のためにふさわしい衣装の合唱団の後ろのP席で、Tシャツ姿で居眠りしているお兄さんの姿。その対比がこれまた面白かった。
さて演奏だが、欲をいえばもっと感情の起伏があっても良かったように思うが、それは尾高の指揮にいつも感じること。結論として、水準は高かった。
独唱陣の声もよく通っていたし、特にソプラノの安藤のドラマティックな歌唱が印象的だった。合唱もよく調教、いや失礼、訓練されており弱音から強音まで乱れるところがなかった。
声楽のせいであまり気づかれなかったかもしれないが、オーケストラもほぼノーミス(バンダがおイタしたが)。この曲のオーケストラのパートが、これまた魅力的であることにあらためて気づかされた。
ただ、正直なところ、この日はあまり演奏に集中できなかった。
おしっことかゴロゴロが原因ではない。
会場に断続的に騒音が起こったからだ。始まってすぐは3階の方から話し声と金属を打つような音がしたし、始終パンフを落としたようなパンという音や声が混じったような咳が続いた。騒々しいというのはオーバーだが、かすかなざわつきのようなものが収まらず、私としては定期演奏会でこんなにノイズがあるのはそう経験したことがなかった。 プログラムには歌詞対訳が載っており、“ご覧の際にはページをめくる音にご注意ください”と書かれていたが、そんななまやさしい音ではなかった。
金属を打つような音はその後も1度あったが、あれはなんなんだろう?
ホール出入り口に待機している係員も音の方を見ていたが、わからなかったようだ。
あら、アルミンさまの息子さんで?
聴かせどころが多いこの曲には名盤が多々あるが、今日は意表を突いて(ると思ってくれたら、何となくうれしい)フィリップ・ジョルダンがパリ国立オペラ座管弦楽団を指揮したライヴ盤をご紹介する。
ジョルダンというとスイス・ロマンド管弦楽団の常任を務めていたアルミン・ジョルダンが有名だが、フィリップはアルミンの息子。1974年生まれだから40歳になるわけだが、まだ日本では“アルミンの息子”という説明つきで紹介されることが多い。
ドイツ各地の歌劇場で経験を積んでいるそうで、ならばこのレクイエムだってお得意なんじゃないだろうか思っちゃう。
不思議な演奏だ。
最初に聴いたときは、静かな箇所は腑抜けたように感じたし、パワフルなところはヤケのヤンパチに思えたのだが、何回か聴くうちに「なんか、いいかも……」って感化されつつある私。
荒削りで、心に浸み入るようなものでもないが、1周忌のお祭り音楽という面から考えれば、こういうのも変ではないのかもしれない。
2013年ライヴ。エラート。
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