かつてはあちこちで歌われた「森の歌」
クラシック音楽にも流行り廃れはある。
それは、飽きられるというよりも、時代的(社会的政治的)背景に左右されることが多いようだ。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のオラトリオ「森の歌(Song of the Forests)」Op.81(1949)は、その典型例である。
1948年。
ソ連共産党中央委員会は、西洋のモダニズムに毒されているとしてショスタコーヴィチらを批判した。ジダーノフ批判と呼ばれるものである。「森の歌」はジダーノフ批判に応える形で発表され大歓迎されたが、それについては、過去の記事「勇気を奮って言おう。やっぱり大好き「DSch/森の歌」」で取り上げている。
名誉回復のために体制に迎合する作品を書いたショスタコーヴィチは自分を責めたようだが、迎合作品といういきさつや、スターリンや共産党を称えていることが、この曲が次第に聴かれなくなっていった原因だ。私がクラシック音楽を聴き始めたときには、もう「森の歌」の人気はなくなっていた。
その昔、「森の歌」ブームがあったということを知り、うらやましく思ったものだ。生で聴いてみたいなぁ。
しかし、近年、再評価の動きもある。
この作品のわかりやすく美しい音楽は、ソ連の植林事業ってのはたいしたものだとまったく思わない人でも(ショスタコだってそう思ってなかったに違いない)、心を揺さぶられるはずだ。
1990年代以降、散発的ではあるが新たなレコーディングがなされてきている。日本人にとっては、歌詞の日本語訳を見ながらではなく、まったく理解できないロシア語のまま聴くことによって、この曲を邪念なく純音楽として聴くことができる。メロディー、ハーモニー、劇的効果……スターリンのことはすっかり忘れてそれらに酔ってほしい。
「森の歌」みたいな曲を書いてみたい
ところで、伊福部昭はこう書いている。 ……新しく入手したと云うショスタコヴィッチの『森の歌』を繰返し聴いたが、彼はこの様な作品を書きたいと頻りに言っていたのが印象に深い。
(「伊福部昭綴る(ワイズ出版):130~133p「芥川也寸志君を偲ぶ」)
芥川也寸志(Akutagawa,Yasushi 1925-89 東京)は、ショスタコーヴィチなどのソヴィエトの作曲家の音楽に傾倒していたが、1954年、憧れの作曲家に会うためにソヴィエトに密入国。ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーに会って指導を受けた。その滞在中に、彼の「弦楽のための三楽章(Triptyque for string orchestra)」(1953)がモスクワで演奏されている。1956年にはソヴィエトでこの曲の楽譜が出版された。
「弦楽のための三楽章」については、こちらの記事をご覧いただきたいが、師・伊福部昭に通じる力強さと土臭さが強烈な作品である。また、第2楽章の切なさもたまらない。
ずしんと来る響きの厚さでは森正/東京交響楽団の演奏がいちばんだが録音が古くなったので、ここでは飯守泰次郎/新交響楽団の1999年ライヴをご紹介しておく(フォンテック)。
そして「森の歌」ブーム
この曲を書いたころ、芥川は“うたごえ運動”や勤労者音楽協議会(労音)の活動に積極的に関わるようになっていた。労音の演奏会で、芥川は「森の歌」を指揮している(1956年に芥川が音楽監督となって結成されたアマチュア・オーケストラの新交響楽団は、その前身を1955年結成の民音アンサンブルとしている)。 「森の歌」が作曲された1949年は、昭和で言えば24年。
日本での全曲初演は、オケの編成を縮小した形ではあったが、昭和28年に桜井武雄指揮こんせる・ぬぼお他によって、京都で行なわれた。
音楽之友社のこの曲のポケットスコア。
私が持っているのは昭和53年発行の第4刷だが、これの第1刷は昭和30年、つまり1955年発行である。
日本での初演のあと、こんなにすぐに国内版スコアが出版されたことは驚きだ。しかも、歌詞は日本語訳のものが書かれている(掲載譜。第4楽章「ピオネールは木を植える」の一部)。
この日本語訳歌詞は、井上頼豊、桜井武雄、合唱団白樺の3者の訳によるもので、京都での初演で使われたものである(つまり初演は日本語の歌詞で歌われた)。
なお、音楽之友社からは現在“新版”のスコアが出ているが、中身がどうなっているかは未確認である。
合唱団ウォッチング
今日は「森の歌」を収めたDVDを取り上げる。
演奏はスヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団、モスクワ放送合唱団、東京荒川少年少女合唱隊、マスレンニコフ(テノール独唱)、ヴェジョールニコフ(バス独唱)。
1978年にNHKホールで行なわれたコンサートのライヴである。
いやぁ、時代を感じる。
まず画質。
1978年の頃って、こんなに画質が悪かったんだ。
次に荒川隊の制服。
かわいらしいが、今見るといかにもって感じ。ちゃんとしているのに古臭く見えるのはなぜだろう。
でも一生懸命歌ってる姿に、おじさんは「よしよし、よくやった」と褒めたくなる。
モスクワ放送合唱団は、平均年齢が高そうだ。
バシバシバシッっとすごい化粧に、ロウ細工のように髪を固めたおばさんが怖い。
ステージ向かって右側。端から2人目のやや髪が薄く鼻ひげを生やしている眉毛が太い合唱団員。あまり口が動いていない。目もうつろだ。絶対真剣に歌っていない。前の日の飲み過ぎたか?あるいは、実は団員じゃないのに当日員数合わせで動員された謎の外国人か?
しばしば映るこの男性団員を見ているだけでも、ややイラつくが、楽しい(カメラマンは絶対ターゲットにしていると思う)。
オケの迫力はなかなか。モスクワ放送合唱団は見た目では全体的にやる気が伝わってこないものの、きちんと歌えているのはやはり底力があるということか。
荒川隊は良くトレーニングされている。しかもモスクワ隊とは異なり、楽譜を持っていない。つまり暗譜。
ってことは、逆に言えば、モスクワ放送合唱団は、そんなに数多くは「森の歌」を歌っていないということか。
この公演から35年。
出演している荒川少年少女合唱隊の人たちも、仮に当時10歳だとしても45歳。 このDVD買ったかなぁ……
いろんな点で、観ていて幸せな気持ちになれる映像、演奏だ。
NHKエンタープライズ。
ところで、スヴェトラーノフには同じく1978年ライヴのソヴィエト国立交響楽団、ソヴィエト放送合唱団との「森の歌」がある(⇒こちら。LP時代にはモスクワ放送合唱団の記述もあったように記憶しているが、VENEZIAレーベルのこのCDには書かれていない。またどこでのコンサートのライヴなのかよくわからない)。
テノールは東京公演と同じマスレンニコフ。バスはヴェデルニコフだが、こちらは表記の微妙な違いのせいで、実はヴェジョールニコフと同一人物のように思える。
こちらの演奏は超重量級の爆演(CDは現在入手困難)。
東京での演奏はここまで爆々してはいないが、真っ向からガチで立ち向かうスヴェトラーノフの姿勢は一緒だ。アシュケナージの退廃的なアプローチとは正反対だ。指揮者のスタンスでこんなに音楽の表情が変わってしまうとは……
そして、CDでのライヴ演奏(たぶんソヴィエト国内での公演)では第2楽章で合唱が入る箇所で大きなミスがあるが、東京のはノーミスである。
スヴェトラーノフのような演奏は、真の姿を見て見ぬふりしているような感じですね。でも、そういう演奏が「森の歌」では好きです。アシュケナージの演奏が、おっしゃるように真髄を突いているように思います。