働かざるを得ない現実だが、定義を変えるならていねいな論議を
8月16日の北海道新聞に、こんな記事が載っていた。
これを読んで、もう『偽書』という説が定着してしまったものの、それでも説得力のある「ショスタコーヴィチの証言」(S.ヴォルコフ編、水野忠夫訳:中央公論社・1980年)の一節を思い出した。
……いったい、あそこ(第5交響曲の終楽章)にどんな歓喜があるというのか。第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは『ボリス・ゴドゥノフ』の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。……(265ページ)
にしても、高齢者と定義する年齢を引き上げたんだから、もっと働けって、おかしな話だ。
そして、そうすることによってこの新たな『社会保障の担い手』からさらに搾取するってことだ。
新浪氏はまた勝手なことを言っている。あなたに「75歳でいい」なんて、国民の在り方に対して決めつける権利があるのか?
記事にあるように、SNS での「悠々自適の老後は存在しない」っていう反応は、まったくそのとおりだし、じつはもうすでにそういう状態になっている。
これだけ物価が上がり、多額の税金が引かれて-年金からも税金が引かれるとはどういう精神構造なのだ?この国は-いるいま、「すでに65歳になったからおうちでのんびり」なんてしてられない。そんなことして、年金では足りない分を貯金(退職金)から切り崩していったら、あっという間に蓄えはなくなる。
だからアルバイトででも雇ってもらって少しでも稼がざるを得ない。
「元気で意欲のある人」?。なにを言ってるんだ、内閣府幹部よ。意欲がどうこうじゃなく、働かざるを得ない優しくない国なのだ、ニッポンは。元気だけど、早めにぽっくり死んだ方がずっと幸せかもしれない。けど、ポックリ死ぬのもかなり難しい。
「おまえたちはもう高齢者じゃないのだ。さあ、働け、働け、それがお前たちの仕事なのだ」。そして高齢者ではなくなった者は、震える手、痛い腰、おぼつかない足取りで職場に向かい、「さあ、働くぞ、働くぞ、これがおれたちの仕事だ」というのだ。
やれやれ、ほぅら、「さくさくぱんだ」だって値上がりだ。