MurakamiMachito  混沌、錯綜、面白いのかどうかも判然としなくなる第一部
 4月13日に発売され、その日のうちに買った村上春樹の新作長編「街とその不確かな壁」。
 4月23日に読み終えたが、自宅にいるときだけ(重いので通勤時に持ち歩くのはやめた。電子書籍にしようと思ったが、そのときはまだ BookLive にはなかった)、さらに毎晩の飲酒後はほとんど読み進まなかったので(読んでも細かなところを忘れてしまうので)、限られた時間の中、私としては早く読み終わった方だと思う。

 前回の長編「騎士団長殺し」のときは、なかなか読み進めなかった。読みたいという気持ちが駆り立てられなくて、読むのが苦痛でさえあった。

 今回の原点となる未出版の封印小説が、のちに私が好きな氏の作品の一つである「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』に書き直されたという情報は事前にマスメディアから得ていたが、それをさらにもう一度よみがえらせた小説(つまり最初の小説「街と、その不確かな壁」の再々書き直しということになる)ということで、むかしほどは新刊を待ち望む気持ちの高ぶりはなかったものの、それでも楽しみにしていた(だから、結果的にではあるが、刊行日に購入することになった)。
 そして、上に書いたように、村上春樹の新作としては久しぶりに先へ読み進みたいという気持ちにさせられ(「一人称単数」、「猫を棄てる」、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、「騎士団長殺し」のときよりは、ということだが)、早く読み終えることになった。

 だが、頭のなかが整理できない内容も多々あった。
 以下、小説の内容がわかるような記述もあるので、「それは困る!余計なことするな」という人は、この余計な文章を読まない方がいいかもしれない。
 また、きちんと内容を把握・理解していないせいで間違った捉え方をしているところもあるはずだ。それはいずれ再読し、大いなる勘違いに気づいたら、またあらためて感想を書きたいと思う。

 「街とその不確かな壁」は三部構成。
 第二部が最も長く、次いで第一部が長い。第三部は短い。
 このアンバランスが良いとか悪いとかそんなことは何の不都合にも私にはならないが、ショスタコーヴィチが自作の交響曲第10番の第2楽章について「この楽章は、特に第1と第3と第4がかなり長いことを考えるとあまりに短すぎるようだ。こうして全曲の構造に若干のはたんがおこった」と述べていた言葉を、私はふと思い出した(全音スコアの解説に書かれている)。
 村上春樹自身は3つの部の長短のバランスに何も思っていない(あるいは逆に計算づく)だろうし、もちろん破綻も起こってない(と思う)。
 ショスタコといえば、この小説の第二部では、「M**」という名の少年が図書館で『ドミトリ・ショスタコビッチの書簡集』を読んでいるという箇所がある。

 さて、第一部だが、現実の世界(17歳の ’ぼく' と16歳の ’本当ではないきみ' がいる世界)と壁に囲まれた街(’夢読みになった私' と 図書館に勤めている ’本当のきみ' がいる街=世界の終り)の2つの世界の話が交互に進む。とはいえ、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のように一章ごとに規則正しく交互に語られるわけではない。

 壁に囲まれた街は、現実の世界のぼくと、自分で ’私は本当の自分ではない’ と言っている16歳の女の子とで作り上げたと、はっきりと書かれている(この女の子はその後、突如音信不通になる)。ということで、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』の成り立ちの経緯についてのガイドブック的物語。ただ、ガイドといっても『教科書ガイド』のように正しとされる解釈が書かれているわけではない。実に詐欺的なガイドブックなのだ。

 どのようにして ’私' が壁に囲まれた街に行くことができたのかなど、あいかわらず不明(16歳の女の子曰く、行きたいと強く望めば行けるらしい)。

 ということは、その壁に囲まれた街は ´ぼく’ の心の中にある想像上の架空の街と考えるのが、そして16歳の女の子はかなり思いこみの激しい夢想家と考えるのが合理的なんだろうが、そう割り切らせてくれないのが村上春樹の病的ワールド。だんだん壁に囲まれた街と現実の世界がいったいどんな関係なんだかワケがわからなくなってくる。「いまの話は、ぼくが空想してた世界と暮らしぶりなんだ」って明るく教えてくれないから、’ぼく’ は。
 さらに、壁に囲まれた街の ’私’ は “壁に囲まれた街と壁の外の世界(現実の街)の、どちらの世界に属するべきなのだろう?私はそれを決めかねている” なんてってワケのわかんないことを言い出す始末だ(151ページ)。
 そう、作者はていねいに状況を説明しているようでいて、実はどんどん私を混乱の世界へ追いやり放置し始めるのだ。いままでの春樹ワールドの不可思議さに輪をかけたあげく、不親切さも加味されているような感じさえする。

 第一部は以下のように終わる。

 現実の世界の ’ぼく’ は、大学を卒業し、書籍の取次をする会社に就職し、さらに45歳になり、出し抜けにすとんと穴に落ち、その後意識が戻ったときに穴の中にいる ’ぼく’ に声をかけたのは門衛だった。門衛は ’ぼく’ が横たわっていたのは、死んだ獣たちを放り込んで、油をかけて焼くための穴だ、と明るい声で言うところで終わる(第23章)。
 つまり死んだ単角獣を焼く穴だが、その穴は壁に囲まれた街の外にある。だから ’ぼく’ は壁に囲まれた街の中には入りこんでないわけだが、でも現実の世界でもないだろう。
 やれやれ、もう私の頭はウニ状態。
 このとき、『夢読み』の ’私’ は、壁の中にいるのか?
 時制もよくわからない。ま、壁に囲まれた街にある時計塔には針がないわけだから、時制なんて考えちゃいけないのかもしれない。

 一方、壁に囲まれた街の ’私’ は、影とともにその世界から外の世界へ出て行こうとするが、結局は居残ることにし、影だけが地下で外につながる『南の溜まり』に飛び込んで脱出を図る、という話で終わる(第26章。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のストーリーと矛盾がない)。

 当初は第一部だけで、この小説は完結するつもりだったそうだが、この第一部だけじゃ「はぁ?これで終わり?勘弁してよぉ~」ってことになったに違いない。

 ってことで、感想を書くほど全然よくわかっていないくせに-強いて言えば「よく理解できていません」というのが感想-さらなる続きはまた今度。

 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第6番ロ短調Op.54(1939)。
 このシンフォニーもバランスが悪い。3楽章構成だが、第1楽章が約20分。しかし第2楽章は約6分、第3楽章は約8分だ。つまり全曲の半分が第1楽章。しかもこの第1楽章、ひどく暗い……
 ショスタコは第10交響曲であんなことを言って反省しているが、反省しているふりで、別に楽章間の長さのバランスなんてもともと考える気はいつもなかったんだろう。


Shostako06Pet1