1ページ目から試される私
 先日紹介した小川洋子編著の「小川洋子の偏愛短篇箱」を読んでいる。

 この本には、次の16作品が収められている。

OgawaYokoTanpenbako3

OgawaYokoTanpenbako4

 このなかで、この本を購入する強い動機付けとなった「お供え」は4回読み返した。
 「兎」は2回読んだ。
 ほかに「件」「藪塚ヘビセンター」「耳」を読み終えた。

 読んだ5つのどの小説も独特の雰囲気を漂わせている。いや、匂わせているというべきか。
 不思議な世界。不思議な雰囲気。不思議な出来事。

 そしてまた「兎」の残忍さ。よくもまあ、こんなに気持ち悪く書けるものだ。そんななかにエロスも垣間見える。

 でも(まだ読んだのは5作だけだが)「お供え」の『解なし』には頭をひねるばかり。謎だらけなのだが、その世界に自分も謎の一つになって吸い込まれていくような引力をもった作品だ。これまでこんな小説を読んだことがない。

 そもそも私は最初のページで混乱する。

OgawaYokoTanpenbako5Osonae

 玄関を出ると正面に隣家のブロック塀が見える。そこから西へ曲がって生垣沿いに歩いて行くと自動車道に出る。家の西側が道なのだから、わざわざ敷地の東と南の二辺をぐるぐる廻って道路に出ることになる。この生垣や私道がなければ道からすぐに出入りできるし、庭もずっと広くなるだろう。こういう設計をしたのは夫だった。「カドへ立ったとき、家の中がすべて見えてしまうのはよくない家だ」「出入りする場所は必ず南からでなければならない」という信条があって、それは彼にとって絶対最優先の条件なのだった。カドというのは敷地の入口のことで、うちの場合、隣家のブロック塀とうちの生垣との間の二メートル幅のところである。

 これを何度読み返しても、この家、そして敷地などの『間取り』や『方角』の『地図』が把握できない。
 私の読解力が乏しいのか、それとも作者はここですでに謎を仕掛けてきているのか、あるいはこんな東西南北や回り道のことなどどうでも良いこととみなしているのかわからないが、敷地の出入り口が南なら東を廻らなければならないってことはないはずだ。
 私の頭には、なぜかひまわりの巨大迷路が浮かんできて、思考がとまってしまう。

 これまで読んだ5作品はそれぞれ独特な不思議感があると書いたが、他の11作品もやはり奇怪で奇妙で不気味さを伴ったものなんじゃないかと想像している。
 きっとそれが小川洋子の好みなのだ。小川洋子の小説を私は読んだことはないが、この本の序文や解説・エッセイを読むと、この人の小説もかなり独特なものに違いないと思った。

 「お供え」を知ったことは、私にとっては大収穫である。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の歌曲集「子供の不思議な角笛(Des Knaben Wunderhorn)」を。

MahlerKnaben