「雨はあした晴れるだろう」の次に読んでいる三浦綾子の著書は「ごめんなさいといえる」(小学館文庫)である。
これは小説ではなく、エッセイ集-というか「氷点」にまつわるドキュメンタリー-である。
ところで、三浦の最初のエッセイ集は「道ありき 青春編」だが、そのなかには、自らの命を絶とうとしたときのことが書かれている。
……その夜、一郎の母が心づくしに作ってくれたチラシズシはおいしかった。そのおいしいことが、わたしには不思議だった。
(これが最後の食事になるというのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。人は生きるために食べるとか、食べるために生きるとかいうけれど、今夜のこの食事は、生きることとは何の縁もない食事なのだ)……
……その夜、一郎の母が心づくしに作ってくれたチラシズシはおいしかった。そのおいしいことが、わたしには不思議だった。
(これが最後の食事になるというのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。人は生きるために食べるとか、食べるために生きるとかいうけれど、今夜のこの食事は、生きることとは何の縁もない食事なのだ)……
そして、いよいよかってときには、
……その重大な死を前に、私はその夜のチラシズシがおいしかったことを記憶している。……
ってことは、おそらく、彼女はチラシズシが好きなのだろう。
時代を考慮すると、刺身が散りばめられた生ちらしではなく、「すし太郎」みたいなやつだろう。
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の「レクイエム(Requiem)」ニ短調WAB.39(1848-49,改訂'92)。
レクイエムというのはご存じの通り「死者のためのミサ曲」。
そしてブルックナーといえば敬虔なクリスチャン。
ところがこのブルックナーのレクイエム、古今東西のレクイエムのなかでもほとんど聴かれることがない。
多分その理由は、ブルックナーのこの曲はなんだか尻軽な感じがするから。
ここに書いたように、特に「ディエス・イレ(怒りの日)」なんて全然恐怖のどん底、世の中の終わりって感じじゃない。ベルリオーズやヴェルディとはえらい違いだ。
でもこれってちょいと意味ありげ。
クリスチャンにとって死ぬということは神の御許に帰ること。だから「怒りの日」は必ずしも「恐怖の日」ではないのかもしれない。
この曲で上のリンク記事で紹介した音源以外があるのかどうかは不明。
この音源も廃盤のようだ。
病床でもちらしずし
さて、「青春編」の続きとなる「この土の器をも-道ありき 第二部 結婚編」では、病気で臥ているときに三浦綾子が元所属していた教会の武内牧師がとった行動について書かれている。
……自転車で家まで飛んで帰られ、奥さまの作られたちらしずしなどを、夕食に持って来てくださったりした。……
……自転車で家まで飛んで帰られ、奥さまの作られたちらしずしなどを、夕食に持って来てくださったりした。……
わざわざちらしずし(なぜこちらは“チラシズシ”でないのだろう?)を持ってくるということは、やはり三浦綾子がちらしずし好きなのは広く知れ渡っていて、だからこそその好物を病気で寝ている三浦に届けたことは疑う余地がない(一般的に体調不良の人には食べたいものを持っていくものだ。栄養豊富で体に良いからといって、好きでもない生ガキを持っていく人はいないだろう)。
どう考えても、三浦綾子の好物はちらしずし(または、チラシズシ)だったのだ。
太いやつですか?細いやつですか?
ところがである。
いま読み始めた「ごめんなさいといえる」ではこんなことを書いている。
……この私を助けて、誠子さんは掃除や洗濯に通ってくれた。時には、私の好きな巻きずしを作ったり、……
誠子さんというのは、綾子の夫の妹である。
それはともかく、「えっ?」って気分だ。
ちらしじゃないの?巻きなの?
そんなこといままで書いてなかったじゃん。
まっ、おすしが好きってことね、チラでもマキでも。
にぎりはどうだったのかなぁ……
ところで私はいい歳になるまで「お新香巻」の中というのは奈良漬け以外はないと思っていた。
ところが大学生のとき、本州から北海道に来た連中が「沢庵じゃないのがおかしい」と言っていた。
確かにその後、沢庵の新香巻きを食べる機会が訪れたが、そっちの方がおいしかった。
なぜ北海道では奈良漬けなのだろう?
いまでは私はすっかり沢庵派だが、スーパーの総菜コーナーではたいていは奈良漬けのものが並んでいる。あの甘さ、おじさんは苦手だ。


