後半はペースアップで読了
このあいだの土日に福岡に出張(福岡でのたいしたことない話は、また今度)。
行きの新幹線の車内で「果て遠き丘」を読了した。
とにかく、私はここに出てくる香也子の性格の悪さにイライラしまくって、血圧も上がりがち。読み始めると腹が立つので遅々として読み進めなかったのだが、後半に入るとがぜん読み進みたい気持ちが強まった。
なぜか?
この
どのようにして人を傷つけ、人を不幸にさせるか。そう考える時が、香也子の人生では最も充実した時なのだ。
そして、
相手が傷ついていればいるほど、香也子は満足なのだ。
ってヤツなのだ。
こんな人間が満足したままの人生を歩んだとしたら、旭川の街はおしまいではないか!
ところで、私が言うまでもなく、三浦綾子の多くの作品-といっても、私が読み終えたのはまだ数作品だが-に登場する人物たちは、聖と俗の拮抗あるいは対決の構図をとる。
聖なる人は必ずしも俗(というよりも悪)と対峙しようとするわけではないが、俗(悪)はとことん聖なる人を攻撃する。
それは「氷点」でも「裁きの家」でもそしてこの「果て遠き丘」でもそうだ。
「果て遠き丘」の登場人物の中では、特別に際立って香也子は悪魔的存在だが、
人を傷つけることだけにしか、生甲斐を見つけることのできない香也子の生き方が、恵理子には悲しかった。
と思う、姉の恵理子は聖人なのである(興味がある方は、この小説の登場人物を聖チームと俗チームに分類してみよう!)。
わが妹ながら、香也子の行動は恵理子には悲しかった。人間にもにせ物と本物とがあるのだと、恵理子はいいたいような気がした。真実をもたぬ人間は、にせ物なのだといいたかった。
「だったら強く言ってよ!」って私は聖なる恵理子にもいらだったのだが……
鏡に映った香也子は綾子?
香也子にはモデルとなった人物がいると、私は読み始めてすぐに感じた。
それは作者自身である。
三浦綾子の自伝「道ありき 青春編」に、こういう記述がある。
わたしには妙な癖があって、人と仲よくなりたいと思う時には、子供のように喧嘩を売るのである。
……
ところで、いったいわたしとはどんな人間なのだろう。とらえどころのない夢のようなことを考えている、甘い、そして不良がかった、そのくせ清さへのあこがれを捨てられない、でたらめな女だ。人生への善意と積極性を持つ大正生れのロマンチスト。いつも泥沼にバタバタしてるような汚れた女。この世に「いてもいなくてもいい」ではなく、いないほうがうるさくないといいたいような女だ。
「あなたの行く所、必ず風が立つ」
と誰かが言った。そしてそれが、ちょっとご自慢でもあった愚かな女。
ただ、もっとすごい『証拠』があった。
だが、このことについてはツイッターで教えてもらうまで、私はまったく気づかなかった。
KAYAKOから頭のKをとればAYAKO……
確かに香也子という名前はそうそう一般的ではない。が、このからくりのための命名だとすれば、なるほどと思う。
作者はこのどうしようもない(でも自分の分身のような)女に、自分の名を暗号として忍ばせていたのだ。バッハとかショスタコとかシューマンみたいね。
『とってもいいこと』を教えてくれたツイッター上の橋宮香也子さんには心よりお礼申し上げたい(「お礼の言葉だけじゃいやよ。じゃあ、香也子にお家を建ててほしいわ」とか言われそうだが)。
では、今日のところはスクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915 ロシア)の交響曲第2番ハ短調Op.29(1901)と交響曲第3番ハ長調Op.43「神聖な詩(Le divin poeme)」(1902-04)。
第3番の方はこちらの記事を、また根拠なく「悪魔的な詩」と命名されむかしはその通称で呼ばれることもあった第2番はこちらをご覧願えればと思う。
私が聴いているインバル盤やムーティ盤は廃盤。
ここでは私は聴いたことがないが、いまが旬のペトレンコさまのディスクをご紹介しておく。
でもなぁ~。
私は香也子にはもっともっと強い天罰を与えてほしかった気がする(そんな私も俗中の俗)。

間違いなくいますって!