2008年に札幌に転勤になったあと、最初に聴いた札響のコンサートは、4月11日の第508回定期であった。
指揮はエリシュカ。私にとっては、この日が初めてエリシュカ/札響の組み合わせを聴く機会となった。
プログラムはヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番(独奏:伊藤恵)。
メイン・プログラムはドヴォルザークの交響曲第6番だったが、これは聴かずに前半で Kitara をあとにした。
このとき、私がエリシュカと札響の相思相愛のアツアツぶりや相性の良さを強烈に感じたかというと、正直なところそうではなかった。
ただし、年齢のわりに若々しい演奏をすること。そして、「タラス・ブーリバ」がこんなに良い曲だったとはと感じさせてくれたことが、強く印象に残った(このように、感想も絶賛的)。
“育ちが良い”GM4
次に Kitara に足を運んだのは、翌月の5月23日の第509回定期。
指揮は尾高忠明、独唱は天羽明恵でモーツァルトの交響曲第40番とマーラーの交響曲第4番。この日の演奏について、私はおおむね好意的な感想を書いているが、しかしマーラーではもっとオーケストラを鳴らしてほしいという不満ももっている。
聴き手を引き込む高関
さらに翌月の6月の第510回定期では高関健の指揮でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(独奏:シフリッツ)とストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴いた。
また、なぜか高関健のラフマニノフの第3楽章でのある場面での動きが、不思議なことにいまでもはっきりと記憶に残っている。
『指揮者による』のは当然のことなのに……
そして、7月19日に行なわれたPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)で、尾高指揮による札響の「ウエスト・サイド・ストーリー~シンフォニック・ダンス」を聴いたとき、東京の演奏がつまらなく感じた理由がわかった(東京公演は毎回尾高の指揮だった)。
それは当たり前すぎるほど当たり前のことだったのだが、私の、あまりに『札響』そのものを聴きに行くという思いが強すぎて、気づかなかったのだ。
つまり、「尾高が振る札響の演奏が(私には)つまらない」、ということだったのだ。
ふだんから、あの指揮者の演奏は良い!などと言っているくせに、こと札響になると「札響は良い!」ということばかりを考え、指揮者による違いや功罪が頭から吹っ飛んでいたのだ。
この日のPMFの「シンフォニック・ダンス」のダンスっぽくない演奏を聴き(なぜかこの曲について、私は触れていない)、シロウトのようにはたとそのことに気づいたのだった(シロウトだけど)。
もちろん尾高ファンの方々もたくさんいるだろうし、尾高忠明が札響の成長に大きく貢献したことは間違いないだろう。いまや日本を代表する指揮者でもある。
しかし、少なくとも私には、いつでも他人行儀な演奏に聴こえてしまう。
その後も、尾高の指揮するコンサートでは、好きなプログラムなので期待してホールに行くが、いつも消化不良の思いをさせられた。
まだ正指揮者として高関がいたので消化不良のままで閉塞までに至らずに収まっていたが、それゆえに高関が2012年3月をもって正指揮者を降りたときは残念でならなかった。
それに返信してくださった方がいた。それが画面のものである。
そっか、予定調和か……
確かにそうかもしれない。私にはその表現が思いつかなかったけど、核心をついていると思う。
岩城宏之が札響の正指揮者に就任したとき、札響を日本のクリーヴランド管弦楽団にする、という目標をたてた。
アメリカの地方オーケストラの1つに過ぎなかったクリーヴランド管弦楽団は、ジョージ・セルを音楽監督に迎えたあと、徹底的にしごかれ、20数年で世界のトップオーケストラにまで育ったのである。
その岩城は1988年3月をもって音楽監督から桂冠指揮者になったが、これは事実上の退任であった。12年半にわたる岩城の時代は終焉した。
そのはっきりとした理由はわからないが、楽員との間に軋轢があったという噂もあった(その点では、2004年から音楽監督の座にあった尾高忠明は楽員に慕われていたということだ←これまた噂)。
また、岩城自身の健康上の問題もあったのかもしれない。
岩城は1987年に頸椎後縦靭帯骨化症、89年には胃がんを患った。 さらにその後、2001年に咽頭腫瘍、05年には肺がんとなり、2006年6月13日に心不全で亡くなっている。
私にとっては最も印象深い札響の指揮者である岩城の指揮を、最後に見たのはいつだったか?
おそらく1987年9月の第284回定期だと思う。
岩城はそのあとも札響を振りに来ているものの、私は聴きに行けていない。
岩城の終わりは就任時の華々しさとは正反対に、実にひっそりとしたものだった。私はなんだかあと味の悪さを感じたものだった。
岩城の目標は岩城の死後になって達成された
岩城の時代に札響が『日本のクリーヴランド管』になったかというと、そこまでは至らなかった。
だが、そのあとの秋山和慶、尾高忠明、高関健が、岩城がいいところまで磨き上げた原石にさらに磨きをかけ、日本で1、2のオーケストラに育て上げた。
ただ、再三私が感想を書いているように、尾高は札響の顔となったが(そして経営難も乗り切ったが)、肝心な演奏そのものとなると印象に残るものは多いとは言えない。 さらに、磨き上げられた宝石に波長の合う光をあてて、最上の輝きを放させたのがエリシュカだったと言えるだろう。
いくら素晴らしい演奏を立て続けに聴かせてくれるとは言え、(尾高は別として)これがエリシュカだけだったら、かつてのシュヴァルツ時代のようにレパートリーが偏ってしまっただろう。しかしそこは、高関が若々しく大胆でエネルギッシュな演奏を披露してくれた。札響がこのように幅広いレパートリーをこなせるのも岩城、さらには後継の秋山の功績だろう。

邦人作品などを積極的に取り上げるなど、岩城に《変革》とレパートリーの拡大を求められ、全国区のオーケストラになるために、あらゆる面での向上に努力していた時代だ。
そんな、むかしの写真を勝手に載せるなと叱られそうだが、このメンバーの顔は私にとって(そして私と同世代、もしくはそれより古くからの札響ファンにとって)単に懐かしいというだけではなく、いまや日本を代表するオーケストラとなった札響の礎を築いた人たちということで、私は敬意を表し、ぜひいまの札響ファンに紹介したいのだ(ヤマザキマリのお母さん、“
ヴィオラ母さん”の顔もある)。
いまの札響ファン(特に会場が Kitara になってからの、いわゆる『 Kitara 世代 』のファン)にとっては、知らない顔も多いだろうし(創立からのメンバーもいる)、あるいはその団員が退団する演奏会に遭遇したという人もいるかもしれない。
繰り返すが、このメンバー(と、それ以前のメンバー)が苦労し努力し研鑽したからこそ、いまの札響がある。
私も北海道に戻ったらまた札響に通いたいと思っているが、メンバーが入れ替わってもいつまでも伝統の札響サウンドを守り続けてほしいと願っている。そしてまた、エリシュカ・ブームで札響が一時的に脚光を浴びたに過ぎないと言われないよう、これからも進化を続けてほしいと重ねて願うところである。
そしてなによりも、さらに若い世代の人たちが札響のコンサートに足を運んでくれることを、これまた切に願ってやまない。
片山氏のこの文を読んだのがきっかけではじめたこのシリーズは、今回をもって終了。
このシリーズでは、私がブログを書き始める以前に聴いた札響のコンサートの感想を書いてきた。