VirusScr20190126  朝から出ちゃったんです
 昨日の朝、妻から電話が来た。

 次々と出てしまって止まらないという。

 朝っぱらからパチンコに行っていたわけではない(彼女にはパチンコ店に出入りする習慣もない)。

 パソコンを使ってインターネットで調べ物をしていたところ、ウインドウズを修復しなきゃならないとか、あと何百秒かでウイルス撃退のためのソフトをダウンロードをするだのという画面に支配されているというのだ。

 数日前もその日とは別の、でも言ってることはほぼほぼ同じ画面に支配されたが、そのときは X をクリックして消せた。ところが、今回は X をクリックしても無反応。無反応どころか次々と新しい画面が出てくるという。

 電話での説明なので要領を得ないところも多々すぎるほどあり、一瞬、もしかすると前回ウイルスに感染してしまいそれが悪さしているか、パソコンのウイルス対策ソフトがそれに対して働いている最中なのかとも思ったが、画面が(たぶん)フリーセルでクリアした時のカードの嵐-活動休止だそうで-みたいな表示になるのはやっぱり変だと思い、電源スイッチを長押しして強制的に電源を落とすように丁重に指示した(タスクマネージャーを起動し感染通知て……などと説明しても、できなかっただろうから)。

 この現象を実際に画面を目にしていないので断定はできないものの、おそらくは脅したうえでダウンロードさせ、その代金を請求する広告の一種だろう。

 気のせいかも知れないが、最近特にこういうのが増えている気がする。

  うざい偽の警告
 というのも、その前日に、私も同じような目に遭ったからである(上の写真。また、10日ほど前にも遭っっているのだが、それが2枚目の写真)。
 X をクリックして、即刻おさらばしたが……

 調べてみると、説明してくれている記事が少なからずある。
 それだけ一般的な出来事ってことだ。

MozartHarnoncourtEarlySyms モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲ニ長調K.196+K.121

 3楽章からなる曲だが、第1楽章(Allegro molto)と第2楽章(Andantino grazioso)は1774年から’75年にかけて作曲された歌劇「偽の女庭師(La finta giardiniera)」K.196(1775初演・ミュンヘン)の序曲。
 この2つの楽章に、終楽章としてAllegroの楽章K.121(K6.207a)を加えた。

 音楽之友社から出ていたベーレンライター版スコアのベック氏(石井宏訳)による解説で、このK.121について、

 このスコアの第1ページに、モーツァルトはたんに〈アレグロ〉と書いただけで、曲の用途を示すような言葉はひとつも書いていない。しかしながら、序曲K.196との性格的な関連や、オーケストレーションや調がこの時期の他の作品(序曲、ディヴェルティメント、セレナード)に近いこと、などの点からみれば、モーツァルトがこの曲を《にせの花作り女》K.196のフィナーレとして書いたことに疑いの余地はないのである。

と書いている。

 札響の首席指揮者を2015年~2018年まで務めた、札響ファンにはおなじみのポンマー。そのポンマーが、ハンブルク・カメラータを振った1999年録音のARTENOVA盤(下の写真)の愛らしい演奏をみなさんに買って聴いていただきたかったのだが、残念ながら廃盤。

 そこでアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥスムジクスの演奏を(この演奏も良い)。

 1999~2000年の録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

 いずれにせよ、こういう詐欺広告が表示されないよう対策を強化してほしいものだ。
 なお、私はどっちかと言われれば、『偽の女庭師』より『偽の女教師』の方が好きなような気がしてならない。

♪ 作品情報 ♪
【構成】 3楽章(約7分)
【編成】 orch( ob 2, hrn 2, Str)
【本作品について取り上げた過去の記事】
  ニセって呼ぶのはかわいそうじゃないかい?WAM/K.196
  鱗茎は太り、私は痩せた。めでたしめでたし♪WAM/K.196+K.121
    
MozartEarlyArte♪ 作曲家情報 ♪
 
 古典派の典型をなす作曲家。J.ハイドン、ベートーヴェンと並んで、ウィーン古典派の三大作曲家と称される。早熟の天才であり、35歳で夭逝。生地ザルツブルクで父レオポルトから、姉ナンネルとともにクラヴィアを学び、5歳で作曲を試みた。1763年、父に伴われてパリに行き、国王ルイ15世一族の前で姉と連弾を披露、最初の作品集を出版。'64年ロンドンに行き、J.C.F.バッハから作曲を学んだ。帰途ネーデルランドに滞在。’68年ウィーンに出て歌劇を上演。’69年よりザルツブルク大司教の宮廷の楽団員になるが、この年より父とともに3回にわたりイタリア旅行。この間、演奏、作品の発表をしたのみならず、ボローニャではG.B.マルティーニの指導も受けた。父による一種の英才教育によって、フランス、イタリアなどの音楽を吸収したことが、天才の育成に大きな役割を果たしている。’77年までザルツブルクで活躍したのち、マンハイムを経てパリに演奏旅行。’81年大司教と決裂し、独立した音楽家をめざしウィーンに定住。以後ウィーンの宮廷作曲家を志望することはあったが、もっぱら作品とピアノ演奏(この時期からはチェンバロではない)で生計を立てた。’84年フリーメイソンに加盟、その活動が作品にも投影する。1770年代初めまでの初期の作品には前古典派およびイタリア古典派の影響が強く見られるが、中期には典雅なギャラント様式、マンハイム学派の様式を取入れ、30歳以後の後期ではバロック音楽への傾倒も加わって、古典美のなかに深遠な表情をもつようになった。 (井上和男編著「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)による)
 注)J.C.F.バッハ:Johann Christoph Friedrich Bach 1732-95 大バッハの五男。