鉛色の空のもと、駅に向かって歩いていた私のはるか前の方に、ジョギングのウェアー(に類するもの)を来た人の姿が見えました。はるかに前だったので、最初はセミぐらいの大きさに見えました。
でも、だんだんその姿は大きくなりました。
私と同じ方向に向かっているにもかかわらず、なぜか徐々に近づいたからです。
そして近づいてはっきりとわかったのですが、その人は実際にジョギングをしていたのです。
でも、とってもとっても進むのが遅いのです。電池切れ寸前のようです。
だから後ろからだんだん近づいたのです。
無言は配慮
確かに私は歩くのが速い方です。新品のアルカリ電池を入れたようにです。
私はみるみるうちに、そのジョガーに近づき、追いついてしまいました。
小学校の算数の『旅人算』で計算したら、私の歩く速さの方が、この人の走る速さよりも速いという驚きの答えになってしまうでしょう。でも、しょうがありません。なくなる寸前のマンガン電池による走行と、新品のアルカリ電池の歩行はこういう結末を迎えるということでしょう。
そのジョガーはおじいさんでした。
でも『にんにく卵黄』を毎日飲んでいるような体格ではなく、粗食こそ健康の源と考えているような感じでした。
最初にセミに見えたのは背中に羽があるからではなく、ミンミン唸っているからでもなく、ウェアの背中が茶色だったからです。だったらセミじゃなくてガムシに例えてもいいんじゃないか?なんて、失礼千万ってものですよ、そこのあなた!
そのおじいさんは、ジョギング中にもかかわらず、右手には歩行杖を持っていました。
ジョギングをするほど元気なのに、用心深い人です。でも、立派な心構えだと思います。
私は後ろから「バンフライ!」と声をかけようかと思いましたが、やっぱりやめて黙って右側から、走っているおじいさんを歩いて追い抜きました。「バンフライ!」という掛け声は、クロスカントリーなんかで前の選手を追い抜くときに言う掛け声です。どうして無言で追い抜いたかというと、私の掛け声でびっくりして転んだらたいへんだと思ったからです。驚かないにしても「バタフライ!」と聞き間違えて、いきなり「♪あなたに抱かれて、わたしは蝶になるぅ~」と歌われても困ります。そっちの方が、はっきり言って困ります。
追い抜いたあととっても気になりました。追い抜いたとたんマッハの走りで、近ごろ日本で流行ってるみたいにあおられる危険だってゼロではないからです。恨みに思って、私を後ろから杖で殴ってやりたいと殺意を抱く恐れだってあります。
でも、振り返って見るのはいやな感じに思われると思ってがまんしました。しかし、気配でそのままどんどん距離が開いていくのがわかりました。
私はジョガーであるこのおじいさんのプライドを傷つけてしまったでしょうか?
おじいさんを物悲しい気分にさせてしまったのでしょうか?
だったらおじいさん、ごめんなさい。
この曲のテンポの方が速いです。おじいさんより
ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の「アンダンテと変奏曲(Andante con variazioni)」ヘ短調Op.83,Hob.XVII-6(1793)。
アンダンテというのは、ご存じのように速度指示で「歩くような速さで」。
この曲を耳にした誰もが-あまのじゃくじゃない限り-『物悲しい音楽』と感じるようだ(私を含む)。
作曲のきっかけとなったのは、ハイドンの音楽の信奉者だったウィーンの貴族、マリアンネ・フォン・ゲンツィンガー夫人の死だったと言われている。哀悼の音楽なのかも知れない。
デームスのピアノで。
1959年録音。グラモフォン(TOWER RECORDS UNIVERSAL VINTAGE COLLECTION +plus)。
こんどおじいさんをずっと先に見かけたときは、その瞬間に右と左ともう一度右を確認したうえで道路を斜め横断して、反対側の歩道を歩み進もうと思います。
そして、おじいさん、いつまでも健康でいてください。
言葉の響きはヘ短調の方が滑稽な感じがしますけどね。