
もし「大好きな作曲家を3人挙げよ」と私が言われたら(言われたことはないけど)、いまならマーラー、ショスタコーヴィチ、伊福部昭と答える。
この3人の中でずっと変わず不動の地位を気づいているのがマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)。
私がクラシック音楽を聴き始め、マーラーを知ったそのときから、彼の音楽は私の日常生活にいつもまとわりついてきた。
そういえば、むかし『ラーマ』というマーガリンがあったな。
そんな大好きなマーラーだが、「じゃあ、マーラーの交響曲のなかでもいちばん苦手なのは?」と聞かれたら(聞かれたことはないけど)、私は第8番と答えるだろう。
陰影がなければ名曲じゃない!
「西村朗と吉松隆のクラシック大作曲家診断」(学研)で、日本を代表するこの2人の作曲家はこう話している。

西村 あー、8番は苦手(苦笑)。8番は最初から最後までアーッって感動し続けている感じ。陰影がない、陰影が。7番のフィナーレからマーラーはおかしくなっている。あの瞬間から何かが切れたように思う。
吉松 6番で切れたかな。
西村 6番は陰。デモーニッシュかつ鬱病のよう。そして7番のフィナーレの異常な明るさ。突然の躁転(笑)。名作には影と光の中間の陰影があるべきだよ。
-中略-
吉松 ……それにしても、シベリウスとマーラーっていうのは1番、2番までは似たものがあったかもしれないけど、4番以降は決定的に対照的な作風になるよね。両者が会ったのは、シベリウスが最もコンパクトで内省的な4番、マーラーが最も大編成で誇大妄想的な8番を書いているときで、全然話が合わなくて最悪だったみたい。
先日の記事で、マーラーの8番では沈んだ気持ちは回復しないと書いたが、この曲のワケのわからないハイテンションさは私の心を癒したり鼓舞したりはしてくれないのである。
マーラーはこの曲について、
宇宙が歌い始め、鳴り響く有様を想像して欲しい。もはや人間の声ではなく、惑星と太陽の回転なのである。
と述べたというが、これはもうほとんどおビョーキ。言ってる意味がよーわからん。
その交響曲第8番変ホ長調「一千人の交響曲(Symphonie der Tausend)」(1906)。
タイトルはもちろん通称。あまりに編成規模が大きく、演奏に1000人ほど必要なためにこう呼ばれるようになった(ちなみに、この70年ほど前にベルリオーズが理想としたオーケストラは467人で、これに360人の合唱団が加わるというものだった)。
どうやれば1000人にもなるのか?
これが、この曲の楽器編成と声楽の編成である(音楽之友社刊のフィルハーモニア版スコア)。
今日は小澤征爾/ボストン響、ダングルウッド祝祭合唱団ほかの演奏を。
ここに書いているように、あっさりしたもの。“なんとかなる”曲という小澤の言葉が、そのまま演奏に表れているような……
1980年録音。デッカ。
ハイなテンションはここまで
あらためてマーラーの第7番以降の交響曲を見てみると、第7番-この曲はむかしから大好きである-は葬送行進曲から始まり、おセンチになったりしているうちにテンションが上がってきて終楽章ではこの上なくハイな状態になる。
つまりこの曲でマーラーは、暗から明というよりも、鬱から“躁転”したのだ。
続く第8番は出だしっから『躁』だ。第2部でしみじみと歌うところはあっても、『鬱』は忍び寄ってこない。
第8番のあとに書かれたのは「大地の歌」。
9という数字を付けると命を落としてしまうかもしれないというジンクスを避けて、番号を付けなかった連作歌曲ともいえるこの交響曲は6つの楽章からなるが、奇数楽章は酒ばっかり飲んでいてけっこうテンションが高い。
しかし偶数楽章は(第4楽章はちょっと毛色が違うが)鬱っぽさの陰が現れる。
いまは躁、そのあとは鬱ってな、躁鬱共存の音楽だ。
そして第9番。先日書いたように、死の予感があると一般的に言われている。
それが真実かどうかはともかく、少なくとも躁の音楽とは言えない。
マーラーのテンションは第8番で頂点に達し、あとは下がっていったのだった。