
岩城宏之の「棒ふりの休日」(文春文庫)。このエッセイ集のなかの「パーティ狂騒曲」。
日本の人間は、世界に冠たるパーティ下手、またはパーティおんちであって、みんながみんな無愛想な顔をして、会場の壁にへばりついて立っている。運良く椅子が置いてあれば、ペタリと座りこんで、中央には大きな空間ができ、シラケのかたまりみたいな真ん中のテーブルに、どこに行っても同じような伊勢えびとかローストビーフが並んでいて、取りに行く気はさらさらなく、パーティには何の関係もないような銀座のオネエチャンたちが着物でシャナリシャナリやって来て、うすい水割りを渡してくれる。
しばらくの間、こちらも壁の花になっていて、誰かの長いスピーチの間に、戸口近くの人に、さも用事があるような意味ありげなすり足を見せ、そのままスルリと逃げてくれば、もう自由の身なのだ。
このような日本的典型のパーティは、実はパーティとは言い難く、あれは何だろう。セレモニーの一種ではあるのだが。……
みな場馴れしているように見えるが……
実は昨日、ある大きな取引先の懇親会があった。
こういう場はもちろん初めてではないが、何十年経っても私も苦手だ。
あるいは参加している人たちも、ごく一部の人を除き、苦手だと思う。
それでもこの取引先の方々はけっこう気さくでパーティーの席でもけっこう長く話し相手になってくれる。
が、よくわからない取引先の場合は、ほとんど孤立状態。
まずは先方のお偉いさんたちに挨拶する列に並び、ようやく自分の番が来て、かといってこれといった気の利いたことを言えるわけでもなく、「今後ともよろしくお願いします」とかなんとか会話した後は、再び私は常連さんばかりの焼き鳥屋(それも巨大な)に迷い込んだような気分になるのである。
もう誰にもSOSすら発信できない。
でも、それはきっと他の人も大なり小なり一緒なのだろう。
飲み食いに徹するすごい人もいる
すごいと思うのは、そんな取引先との挨拶なんて関係ないとばかり、黙々飲み、食べ続ける人がこういう場に必ずいることである。
会費を払っているのだから全然かまわないが、私なんて食欲もわきません。小心者でスイマセン。
でも、なんであんなにがっついてんだろ?ふだん、ちゃんと食べてないのか?1人でローストビーフと寿司を大量に持っていくな!まっ、小心+(こういう場では)小食だから、私は構わないけど。
昨日の場合は、さらに伏草課長や開元さんなど、わが社の参加メンバーが私1人でなかったのが大いなる救いであった。
でもこうなると、おのずと自分たちだけが寄り添いあう。
となるとなんだか意味があるのかどうかわからなくなるが、そんな中、1人でポツンとしている人たち-あっちもこっちもポツンがたくさんだ-を見ると、痛いほど気持ちがわかる。僕たち、幸せそうにしててごめんね。

立食パーティーの悲哀を描いているのではもちろんなく、S.ベケットの小説「仲間」を描いたものである。
カードゥッチ弦楽四重奏団の演奏で。
2008年録音。ナクソス。
しかし、冬休み長くないか?
SOSって、何かのメッセージか?
そもそもここ、何の店なんだろう?
ホントだ。気づかなかった。