読み込んだからゆえに突っ込めること
11月12日の北海道新聞に載っていた書評。
これは読んでみなきゃと思い、買った。
平山瑞穂氏の「愛ゆえの反ハルキスト宣言」(皓星社)である。
書評(東京報道 上田貴子さんによる)から内容を書くと、
・ 著者は「風の歌を聴け」をきっかけに文学に目覚めた。
・ そのなかでも村上春樹は別格だった。
・ しかし「雑音が気になって」憧れは続かなくなった。
・ 「雑音」の1つは「やれやれ」の多用。
・ 純真なようで性に奔放な主人公たちの振る舞いにもイライラする。
・ ほかにも、超現実的な妊娠、都合のいい“年上の人妻ガールフレンド”など、突っ込みどころを列挙。
ハルキストなら誹謗なんてしないはず
著者は「序にかえて-村上春樹と僕」で、こう書いている。
結局僕は、村上春樹という作家から離れられないさだめのもとにあるようだ。そのときどきのやむをえない事情はあれど、窮極には「無視できない」のひとことに尽きるのだろう。ただ単に嫌いなだけなら、あるいはなんら評価していないのなら、無視していればいいだけの話だ。実際、そういう形で一顧だにせずに見過ごしている作家だって(誰とは言わないが)何人もいる。作品がどれだけ売れていようが関係ない。肯定的に評価できる点が何もなければ、僕にとってその作家は存在しないのも同じだからだ。
村上春樹については、そうはいかない。どれだけ無視を貫徹しようと努めても、いずれかのタイミングで必ず視野に入ってきてしまう。そして、なにごとかを言及せずにはいられなくなる。たとえそれが否定的な、あるいは批判的な内容であったとしても、「言わずにはいられない」という時点で、僕にとってこの作家はなにがしかの重要な意味を持ちつづけているということなのだ。
村上春樹の小説はおもしろい。いや、おもしろかったというべきか?
そう思って「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」から村上ワールドにはまった私だが、このところの作品には「やれやれ」とあと味の悪い思いをすることが多い。
平山氏とは異なり、私は一読者に過ぎないが、ここに書かれている氏の思いはよく理解できる。
同じ「序にかえて」のなかで、氏は、
このような本を出す以上、僕はさまざまな批判を免れないだろう。とりわけネットでは批判どころではなく、ありとあらゆる誹謗中傷、罵詈雑言、根拠のない言いがかり、「だからそれは違うってちゃんと本文の中でも断ってるよね」と言いかえしたくなるであろう条件反射的な揶揄や悪罵にさらされることになるのが必定だと思っているし、その覚悟もできている(覚悟ができているかどうかと、実際にあれこれ言われても腹が立たないかどうかは別問題だとしても)。
それに僕は、たとえ多数派ではなくても、僕が述べたことに「そのとおり」と深くうなずいてくれる人が一定数は存在することを確信している。だからこそ僕は、それを述べずにはいられない(述べないわけにはいかない)のだ。
本書を読み、私は概ね氏の主張、指摘に「まったくだ」と思っている。
村上春樹作品のなかの異様なまでの性行為への執着やら、「これ、みんな読んでてすっきりしてるのかな」という曖昧模糊な展開や終わり方など、読んでいてイライラしたりすっきりしないところを、きちんと洗い出してくれている。
ファンだからといって目くじらを立てるのではなく-私だって、かなりトーンダウンしているが村上春樹のファンだ-、冷静に氏の作品を見つめなおすには参考になる本だ。
揚げ足をとって悪いけど、218pの後ろから6行目。
“〈ね〉の〈僕〉は”は、“〈ダ〉の〈僕〉は”の誤りである。
昔からそういう妻はいたようです
つい最近も取り上げた、ルネサンス期ドイツ音楽の最大の作曲家ゼンフル(Ludwig Senfl 1486頃-1543 スイス)のリートを今日もまた1曲。
「昔、外出したがる妻がいた(Heth sold ein meisken garn om win)」。
つまり、そういうことです。
ズヴェン・ベリエル(ベルガー)/アンサンブル・ヴィラネッラの演奏で。
1994年録音。ナクソス。
まっ、こんな会い方しててバレないなんてありえないだろうに……
11月12日の北海道新聞に載っていた書評。
これは読んでみなきゃと思い、買った。
平山瑞穂氏の「愛ゆえの反ハルキスト宣言」(皓星社)である。
書評(東京報道 上田貴子さんによる)から内容を書くと、
・ 著者は「風の歌を聴け」をきっかけに文学に目覚めた。
・ そのなかでも村上春樹は別格だった。
・ しかし「雑音が気になって」憧れは続かなくなった。
・ 「雑音」の1つは「やれやれ」の多用。
・ 純真なようで性に奔放な主人公たちの振る舞いにもイライラする。
・ ほかにも、超現実的な妊娠、都合のいい“年上の人妻ガールフレンド”など、突っ込みどころを列挙。
ハルキストなら誹謗なんてしないはず
著者は「序にかえて-村上春樹と僕」で、こう書いている。
結局僕は、村上春樹という作家から離れられないさだめのもとにあるようだ。そのときどきのやむをえない事情はあれど、窮極には「無視できない」のひとことに尽きるのだろう。ただ単に嫌いなだけなら、あるいはなんら評価していないのなら、無視していればいいだけの話だ。実際、そういう形で一顧だにせずに見過ごしている作家だって(誰とは言わないが)何人もいる。作品がどれだけ売れていようが関係ない。肯定的に評価できる点が何もなければ、僕にとってその作家は存在しないのも同じだからだ。
村上春樹については、そうはいかない。どれだけ無視を貫徹しようと努めても、いずれかのタイミングで必ず視野に入ってきてしまう。そして、なにごとかを言及せずにはいられなくなる。たとえそれが否定的な、あるいは批判的な内容であったとしても、「言わずにはいられない」という時点で、僕にとってこの作家はなにがしかの重要な意味を持ちつづけているということなのだ。
村上春樹の小説はおもしろい。いや、おもしろかったというべきか?
そう思って「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」から村上ワールドにはまった私だが、このところの作品には「やれやれ」とあと味の悪い思いをすることが多い。
平山氏とは異なり、私は一読者に過ぎないが、ここに書かれている氏の思いはよく理解できる。
同じ「序にかえて」のなかで、氏は、
このような本を出す以上、僕はさまざまな批判を免れないだろう。とりわけネットでは批判どころではなく、ありとあらゆる誹謗中傷、罵詈雑言、根拠のない言いがかり、「だからそれは違うってちゃんと本文の中でも断ってるよね」と言いかえしたくなるであろう条件反射的な揶揄や悪罵にさらされることになるのが必定だと思っているし、その覚悟もできている(覚悟ができているかどうかと、実際にあれこれ言われても腹が立たないかどうかは別問題だとしても)。
それに僕は、たとえ多数派ではなくても、僕が述べたことに「そのとおり」と深くうなずいてくれる人が一定数は存在することを確信している。だからこそ僕は、それを述べずにはいられない(述べないわけにはいかない)のだ。
本書を読み、私は概ね氏の主張、指摘に「まったくだ」と思っている。
村上春樹作品のなかの異様なまでの性行為への執着やら、「これ、みんな読んでてすっきりしてるのかな」という曖昧模糊な展開や終わり方など、読んでいてイライラしたりすっきりしないところを、きちんと洗い出してくれている。
ファンだからといって目くじらを立てるのではなく-私だって、かなりトーンダウンしているが村上春樹のファンだ-、冷静に氏の作品を見つめなおすには参考になる本だ。
揚げ足をとって悪いけど、218pの後ろから6行目。
“〈ね〉の〈僕〉は”は、“〈ダ〉の〈僕〉は”の誤りである。
昔からそういう妻はいたようですつい最近も取り上げた、ルネサンス期ドイツ音楽の最大の作曲家ゼンフル(Ludwig Senfl 1486頃-1543 スイス)のリートを今日もまた1曲。
「昔、外出したがる妻がいた(Heth sold ein meisken garn om win)」。
つまり、そういうことです。
ズヴェン・ベリエル(ベルガー)/アンサンブル・ヴィラネッラの演奏で。
1994年録音。ナクソス。
まっ、こんな会い方しててバレないなんてありえないだろうに……


この本、「愛が憎しみに変わるってこういうことなのね」と、ちょいと怖いくらい。けど、指摘していることは、いつも自分もモヤモヤしていたことばかりです。