小泉和裕がサン=サーンスの「オルガン付き」を取り上げた翌々月。75年3月11日の第147回定期は岩城宏之が指揮台に立った。
プログラム・ノーツのプロフィールを見ると、意外なことに岩城はこのときが5回目の共演。
“札響会員にもなじみ深い”とあるが、私はもっと登壇しているのかと思っていた。
そして、私にとって岩城の生演奏はこの日が初めて。
プログラムも新鮮だ。
「フーガの技法」に廣瀬の「悲」(この曲は、すでに岩城&堀のN響の演奏をFMで聴いたことがあった)。そしてバルトークの「管弦楽のための協奏曲」である。
シュヴァルツは札響のシュヴァルツでなくなりつつあった
ところでこの前の月の第146回定期は、シュヴァルツの指揮、ソリストはホルンのハンス・ピツカ。
プログラムはドヴォルザークのスラヴ舞曲Op.46全曲と、M.ハイドンのホルン協奏曲にモーツァルトのホルン協奏曲第4番。
スラヴ舞曲Op.46の全8曲をまとめて生で聴ける機会はありそうであまりない。なのに、なんだかノレない演奏だった。
2曲のホルン・コンチェルトについても、全然遊び心がないというか、堅物的演奏ですっかり退屈してしまった。
そんなこともあって、なおさら3月の定期は“新しさ”を感じさせた。
シュヴァルツの次期契約更新がないことが、このころすでに決まっていたかどうかはわからない。
だが、シュヴァルツは人気が高まったために居を東京に移していた。当然、札響との間に亀裂が入りはじめていた。
シュヴァルツは岩城の紹介で札幌に来て、札響を育て上げた。
当時のチェロを弾いていた団員の北市氏は「本場のモーツァルトやベートーヴェンを教え込まれ、より上のレベルの音楽を求めるようになった」と述べており(札幌市教育委員会編:さっぽろ文庫57「札幌と音楽」。なお、この本の無料のインターネット版がある)、練習魔と言われたシュヴァルツに鍛えられた札響のレベルは向上した。
しかし、地元に住まなくなって札響の常任指揮者としての活動に支障が出てきたこと、シュヴァルツのレパートリーが極端に偏っていることで、両者の関係は限界に来ていたのだった。
その後任が岩城。
75年10月に就任した。
もし、3月の定期というタイミングで札響を振りに来ていなかったら、岩城就任の話もなかったかもしれない。
いつもとはどこか異なる雰囲気
この日、岩城がステージに現れたとき、手にはマイクが。
1曲目の「フーガの技法」についてプログラム・ノーツに書かれている解説に誤りがあるということで、岩城自らが楽曲の説明をしたのだ。
私は子ども心-って年ではなかったが-に、解説を書いた人、けっこうムッとしてるだろうなと思ったものだ。
それは別としても、この日のステージはいままで経験したことがないような雰囲気に包まれていた。
楽員の「やってやるぞ!」という意気込みのような、そんな熱気が感じられた。
聴衆は聴衆で“斬新なプログラム”に期待していた。
どの曲も緻密なアンサンブルが要求されるものだ。
TVで、岩城がN響で現代作品を振るときによく目にした、指を1本ずつ立てていって拍をとるやり方-なんだか、とってもカッコイイのだ-も目にすることができた。
チェロ・コンチェルトの演奏は「すごかった」という、子どもの絵日記のような感想しか残っていないが、バルトークのオケ・コンが終わったときには、よくぞやってくれた!と胸が熱くなった。
どちらかといえばメロディー・ラインに重きを置く選曲(と感じた)とアプローチのシュヴァルツとは明らかに違う厳しい緊迫した演奏。
細かいところまでは覚えていないが、楽譜の横だけではなく、縦のラインの音符もピシッとそろっていたのではないだろうか?
この人がしょっちゅう札響に来てくれたらなぁ。
もちろんそのときは、半年後にこの人が札響の正指揮者になるとは、まさか夢にも思っていなかった。
永遠の名盤
バルトーク(Bartok,Bela 1881-1945 ハンガリー)の「管弦楽のための協奏曲(Concerto for Orchestra)」Sz.116(1943)。
この曲のディスクでは、録音は1955年と古いがいまだ名盤と言われ続けており、そしてまた私がこの演奏会のあとに買った廉価盤LPの、ライナー/シカゴ響の演奏に特別の思い入れがある。
繰り返し繰り返し聴き、CD時代になってからも、「オケコン」といえばこれを聴くことが多い。
今日は富士メガネにメガネを受け取りに行く予定だ。
地味にシリーズ化となった「私の札響感動史」。
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