
吉松 ブラームスとかシューマンとかシューベルトとかのドイツ系ロマン派って、音そのものを聴いて感覚的に何かを感じるタイプの音楽じゃないような気がするんだよね。そもそもロマン派というのが、音以外の余計な想像的プラス・アルファを組み込む流派でしょ。だから、物語があったり精神があったりして成立する。音だけでは完結しない。そんな気がする。ベートーヴェンやモーツァルトにもその萌芽があるかな。
西村 僕はシューマンもブラームスも音楽そのものとしてすばらしいと思うけどね。シューマンのあのニ短調のシンフォニーなんかが、プラス・アルファを必要とするほど平凡なものとは思えない。
吉松 もちろん平凡とはいわないよ。でも一般のひとがただ感覚的に聴いてわかるようなものじゃないと思うな。オーケストレーションも地味だし。
西村 マーラーがシューマンのシンフォニーのオーケストレーションをやりかえているよね。
吉松 あれはね、たしかにやりたくなるよ、スコアを見ていると。
西村 まあどっちでもいいんだよ。音楽はそういうものじゃないんだよ。シューマンのすばらしさはオーケストレーションの巧拙を超えているよ。
吉松 最近ではオーケストラのレベルが高いから、シューマンの鳴らないオーケストレーションだって鳴らしてしまえるからね。むしろ、マーラーとかリヒャルト・シュトラウスとかリムスキー=コルサコフとか、あんまり鳴りすぎるオーケストレーションを否定する向きもあるわけだし。
西村 シューマンの《ライン》。天才的な輝かしい主題が、じつに野暮ったいオーケストレーションをまとって登場するよね。でも、それがシューマンならではの人間的味わいを生んでいると思うね。愛情をさそう、“偉大な拙さ”だよ。
「
吉松の“……マーラーとか……”の箇所は、以前にもご紹介したことがある。
おととい紹介した、レイボヴィッツ指揮のレイボヴィッツ編による、結末大どんでん返しの「はげ山の一夜」は、オーケストレーションも大改編しているものだが、ああなるとリムスキー=コルサコフの編曲版を元に、それを創作して再構築した曲と言うべきものだ(ゴードンのベト7の再構築にはかなわないけど。)。
あの記事でも書いたように、リムスキー=コルサコフの編曲をさらに完成度高く補筆したものだと思って聴くと、「冒瀆だ!」と叫びはしないまでも、なんだかイライラしてくる。
しかし、匠の技による創作中華料理とか創作和食なんだと思って聴くと、なんと革新的なんだろうとミュシュランご一行様も感心しきりってことになる。
考えてみれば創作露西亜料理って耳にしたことがない。和食とのコラボでピロシキの中にあんこを入れたりしたらどうだろう?あっ、それってあんドーナツか。

シューマンのオーケストレーションはくすんだ響きがすると言われる。そのため-どのくらいの頻度なのか、あるいはほとんどの場合なのかわからないが-指揮者がスコアに手を入れてよく響くようにするという話を聞いたことがある。
西村氏が述べているマーラーの編曲版についてはこの記事などをごらんいただければと思う。
このように、シューマンのすばらしさをもっと伝えたいという善意からオーケストラが鳴るように手を加えることに、私は違和感を持たない。どちらかというと作曲者が残したオリジナル版を尊重すべきだという考えを私は持っている。でもこういう親切は許してあげたい。そもそもどこに手を加えているのか、その指揮者ごとにわかるかといえば、どちらかというとわからない。
が、同じ手を加えるでも、ケーゲルのタコ5を聴いたときには、最初びっくり、その後はじわじわとありがた迷惑感が高まり、何の意図でこんなことをしたのか良識ある私には意味不明と困惑。
ライヴで聴衆の拍手も入っているが、それはおっそろしいほど冷めざめしたもの。このときのケーゲルの心中はいかばかりか?絶対ウケを狙っていたのに、そして興奮のるつぼと化すと信じていただろうに、完全にスカ!
終演後、ケーゲルは独り寂しくヤケ酒の数杯もあおったんじゃないだろうか?
その、「バビ・ヤール」じゃないのに、最後に鐘が鳴り響くケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmity Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)の演奏は、でも、聴いておくべきだ。
「こんなことしちゃいけないんですよ」という教訓のために。
ただし、ショスタコの5番のCDを初めて買おうとしている人は、これを選んじゃ絶対ダメ!(←ブルゾン風に)。
あくまでこれは応用動作。というか、逸脱。「ちょいとオイタしちゃおうかな」っていう変態っ気のある人向き。正気の沙汰じゃないから。
もっとも、私のように変態っ気のない人も消費者の1人なのだが。

スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915 ロシア)の交響曲第2番ハ短調Op.29(1901)。
なんでいきなりスクリャービンかって? 彼のオーケストレーションも評判があまりよろしくないようだからだ。
S.ヴォルコフ著「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫 訳:中央公論社)には、
ところで、ある講演のとき、ソレルチンスキイはロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンのことを話していた。彼はスクリャービンがそれほど好きでなかった。スクリャービンの管弦楽法の知識は豚がオレンジを見分ける程度のものだ、というわたしの意見に彼は同意していた。
という記述がある。“わたし”というのはショスタコーヴィチだ(この本は偽書らしいけど)。
でも、豚ってオレンジを見分けるの?何と?
私は伊予柑と八朔の違いがよくわからないんだブゥ~。
スクリャービンのこの第2交響曲は、学生時代にLPを買ってみて-金もないのに、未知の曲のLPに投資したのだ-すぐさま好きになった作品。賭けに勝ったのだ。
特に終楽章がめちゃカッコいい。

第3番が「神聖な詩」、第4番が「法悦の詩」、第5番が「火の詩」という標題をもっていることから誰かが、第2番にもタイトルを、とばかり「悪魔的な詩」と勝手につけたのだけである。
いまでも「悪魔的な詩」と表記しているディスクもあるが、そういう誤解を生むことを書かないでほしい。
スクリャービンはのちに神秘主義へと突っ走ったが、第2番はロマン主義の音楽。
5つの楽章からなるが、第1楽章と第2楽章、第4楽章と第5楽章は切れ目なく続けて演奏される。
第3楽章の、フルートによる鳥のさえずり声の模倣。その美しさも聴きものだ。
ショスタコの証言はこう続く。
わたしの見るところ、スクリャービンの交響詩のすべて、『神聖な詩』にせよ、『法悦の詩』にせよ、『火の詩(プロメテウス)』にせよ、いずれもちんぷんかんぷんである。

でも、つまるところ、にせショスタコは神秘主義に傾倒したスクリャービンの音楽が肌に合わない。なのに、豚がオレンジを見分ける程度のものだなんて、単なる好き嫌いにすぎないんじゃ……?豚さんがかわいそうだ(写真はイメージだブゥ~)。
私はスクリャービンの交響曲全集として、ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団のものとインバル/フランクフルト放送響のものを持っているが、どちらも廃盤。
それがスクリャービンの置かれているいまの現状って感じだ。
第2番単独のCDではゴロフスキン/モスクワ交響楽団のものも持っているが(遺作の交響詩ニ短調も併録)、幸いにしてこちらは現役。ちょいとオーケストラの響きが薄いが、悪くない。
1995年録音。ナクソス。