Haydn103Davis  交響曲の父の最後の交響曲
 ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の交響曲第104番ニ長調Hob.Ⅰ-104ロンドン(London)」(1795)。

 昨日書いたように、ショスタコーヴィチの最後の交響曲となった第15番の第4楽章で、ハイドンの104番の冒頭の音型が現れる。


 ショスタコの第15番の第4楽章の後半になって、低弦によるバスオスティナート主題が出てくる。この主題は第7交響曲「レニングラード」第1楽章の“戦争の主題”に似ている。
 そして、実はそれがハイドンの第104番の序奏と同じだったというわけだ。むかしも書いてるけど


 ハイドンといえば“交響曲の父”である。
 どんな曲を書いたか知らなくても、小学校の音楽の時間にとにかく「このおじさんが“交響曲の父”なんだよ」と、先生に教えられたはずだ。交響曲って何なのか知らないのに。

 ウィキペディアのハイドンの項には、“今でこそハイドンの交響曲はあまりにもポピュラーな存在であるが”と書かれているが、そうだろうか?あまりにもオーバーな書き方に思えるのだが……。

 個人的には、まだまだハイドンの交響曲(や他のジャンルの作品)はポピュラーとは言い切れないと感じている。残念なことだが……


  タコ15は交響曲形式の墓碑銘
 ソヴィエトでもハイドンのことを“交響曲の父”と呼ぶのかどうか知らないが、ショスタコーヴィチは20世紀最大の交響曲作家として“交響曲の父”を讃え、そして自分が亡くなったあとには真の交響曲作家がいなくなることを理解していたので、最後の15番に交響曲形式の確立者ハイドンの最後の充実した交響曲を用いたのではないかと思う。

 もっとも西欧では、マーラー(1860-1911)のころには交響曲という形式はすでに終焉を迎えていた。
 そのあとはソナタ形式にのっとった伝統的な形式の交響曲というのは、例外的にしか書かれていない(はずだ)。音楽的には時代に遅れて進化していたソヴィエトだったために、プロコフィエフやショスタコーヴィチらが交響曲を手がけ続けたのである。

 最初の楽譜がハイドンの交響曲第104番冒頭(掲載譜はオイゲンブルク社のスコア(全音楽譜出版社から国内版として出版されている))。
 ニ短調の重く威圧感のある序奏だが、そのあとは「そんなことあったっけ」みたいに、軽快になる。だからこの序奏が異質といえば異質。

 

Haydn104_1


 2枚目がショスタコの15番のバスオスティナート主題で、3枚目はそれが爆発する箇所(この2つの楽譜は全音楽譜出版社のzen-on score)。


Shostako15-4-BassOstinato

Shostako15-4-ff

 このあと音楽は静まり、魂が天へ昇華するように曲は終わる。

  12曲全部がロンドン交響曲なのに……
 さて、ハイドンの交響曲に話を戻すと、第104番だけに「ロンドン」というニックネームが付けられているものの、第93番から第104番までの12曲がすべてロンドンに縁のある作品。

 ザロモンに招かれてロンドンで演奏するためにウィーンで作曲されたものと、ロンドンで作曲されそこで演奏されたものがあるが、この12曲を「ロンドン交響曲」とか「ロンドン・セット」、あるいは「ザロモン交響曲」「ザロモン・セット」と呼んでいる(ドヴォルザークの交響曲第8番は楽譜がイギリスで出版されたために「イギリス」と、曲の本質とは縁もゆかりもない名を付けられたことがあったが、最近ではほとんどそう呼ばれなくなったのは幸いである)。

 ちなみに、12曲のなかで104番「ロンドン」以外にニックネームがついているのは、第94番「驚愕」、第96番「奇蹟」第100番「軍隊」第101番「時計」第103番「太鼓連打」である。

 では、104番をC.デイヴィス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で。

 1977年録音。フィリップス。

 先日の新聞に、デューク・エイセスが解散するという小さな記事が載っていた。

 「歌えなくなる前に、きれいな形で解散しよう」と話し合った結果だったという。

 私が子どものころは、ダークダックスに、デューク・エイセス、ボニージャックスといった男性四重唱団がずいぶんテレビに出て童謡やロシア民謡を歌っていたのを記憶している。

 それがフォーリーブス、さらにはぴんからトリオや玉川カルテットに座を奪われ……ってことではなく、これも“うたごえ運動”の流れをくんだ1つの形式の終焉なんだろう。