ShostakoKegel  偶然耳にした新作
 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。

 ショスタコーヴィチの交響曲15曲の中で、私が初めて第15番を聴いたのはクラシック好きになってからでもとても早いうちで、第5番、第9番に次いで3曲目のことだった。

 NHK-FMでだったが、それは1975年8月24日のこと。コンドラシン/モスクワ・フィルの演奏。これが録音されたのは1974年。さすが、現代の交響曲作家のショスタコーヴィチ。新作を発表してからあまり期間を開けずに録音されたわけだ。

 ショスタコーヴィチの最後の交響曲となる第15番が、息子のマキシム・ショスタコーヴィチ指揮のモスクワ放送交響楽団によって初演されたのが1972年1月8日のことなので、私も作曲後すぐとは言えないものの、新作をほどなくして聴けたということになる。

 そしてまた、ショスタコーヴィチが亡くなったのが75年の8月9日。
 なのでこのときの放送は、ショスタコを追悼するために最後のシンフォニーを取り上げたのかもしれない。
 そのころはあまり意識していなかったが、私が第5番でショスタコを知り、また次に第9番に接したころ、まだショスタコーヴィチは生きていたのである。おぉ、同時代人!

  1番に戻って環を閉じる?
 交響曲第15番について、増田良介氏はこう書いている*)

 ……だが、第2楽章冒頭のチェロ独奏が楽章の終わりの方で反行型になってチェレスタに出てくると、実は交響曲第1番冒頭の音型になっていたり、第1番でも聞こえていた《トリスタン》冒頭や《指環》の運命の動機が第4楽章に出てきたりすると、これは全15曲を円環のように閉じる意図だったのではないかと思わざるを得ない。

 なお、雑誌では表記が“反行系”になっていたので、ここでは“反行型”にさりげなく直しておきました(って、そこを書かなきゃいい人なのに……)。もしかして“反行形”の方が良かったでしょうか?

 いずれにしろ、編集者はたいへんだろうけど校正をきちんとしましょう。なお、この号ではもう1か所、私はミスに気づかさせていただきました。

 その第2楽章冒頭のチェロの独奏がこれ(以下、掲載譜はすべて全音楽譜出版社のzenon-scoreによる)。

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 第2楽章の終わりの方のチェレスタのメロディー、つまりチェロ独奏の反行型というのがこれ。私は100%は理解できていないけど。

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 そして、このチェレスタの音型が交響曲第1番の冒頭と同じだというのだ。

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  当惑するお客さま多数
 さて、第15番を、今日はケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団の演奏で。

 この演奏についての感想はここに書いているが、着目すべきはこの録音が1972年11月7日のライヴだということ。初演から10か月後のことなのだ。

 ケーゲルもこの新作をすぐに取り上げたわけだが、この不思議な感触の音楽に対する聴衆の反応が複雑なのは拍手から伝わってくる。それだけでも貴重なライヴだ。

 WEITBLICK。

 ところで、このところショスタコーヴィチを取り上げる機会が多いのは、創刊800号となった“レコード芸術”の特集で、ショスタコの時代が来たという話が乗っているから。
 そして、この特集を読んでからというもの、毎日毎日私の頭の中ではショスタコの交響曲のどれかが頭で鳴り続けている状態。昨日の朝なんて、第6番の重~い第1楽章が脳を支配していて、まったくもって友引にふさわしかった。なんとなく。

IMG_20170527_0004 (2)  タコの時代は果たしてくるのか?
 マーラー・ブームのあとはショスタコ・ブームが来る。そう言われたのはもう25年以上前のことだろうか?
 当時はショスタコのディスク点数がまだ決して多いとは言えなかったということもあったのか、その予言はスカに終わった。

 だが、増田良介氏が記事の中で書いているように、今度こそショスタコ・ブームが来るのかもしれない。
 人気曲はクラシックでも穏やかに変化しているし、いまの世の中の状況がショスタコが生きていたころのソヴィエトのように、なんだか不気味だからだ。

 そしてまた、マーラーの音楽-特にかつてはマーラーの交響曲のなかではいちばんポピュラーだった、昨日取り上げた第1番など-の人気がかつてほどではなくなってきているように感じるからだ。

IMG_20170527_0004 (3) まっ、果たしてどうなるかはわからないけど……

 そうそう、第15番の終楽章には、ハイドンの最後の交響曲、第104番の冒頭も力強く現われる
 これまた、何らかの意味が込められているのだろう。

 第15番が作曲された当時、私たちは給食ではなく弁当を持って中学校へ通っていた(1年生の時は、隣の席の女子が毎日私の弁当を覗き込むのが嫌だった。あるいは彼女は将来、私と結婚したくて、好みの料理の傾向を学ぼうとしていたのだろうか?)。

 牛乳は学校で用意されていたが、まだビンだった。飲んだ後はみんな競い合う必要もないのに、われ先にとビンを箱に返しに行った。

 ついでに言うと、このころの冬の暖房は、コークス(石炭を蒸し焼きにして炭素成分のみにしたもの)を燃やすストーブだった。

 ある日F君が朝早く来て、なぜか蒸発皿(というか洗面器)におしっこをし、湧き上がるにしたがって猛烈な刺激臭が教室中に充満したことがあった。すぐに臭いでわかったが、これが昼近くだったら牛乳を温めるためにビンを入れた人が被害に遭うところだった。

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 *) “レコード芸術”2017年5月号 記念特集:創刊800号-『レコード芸術』の過去・現在・未来