ありがちな駅広告の姿ではある
先日、JR東海道本線に乗っていて(金沢からの帰りだ)列車が大垣駅に停車したときに、私はホームの天井からぶら下がっている色あせた電飾の広告看板に目が釘付けになった。
電飾の広告看板ってどうも古臭くまどろっこしい言い方だが、なんて言っていいかよくわからないし、看板そのものが古臭いのは間違いない。
だけど精一杯説明すると、つまり直方体で中に蛍光灯が入っていて、内側から光る広告である。コルトンと言えばいいのだろうか?駅名表示板も屋根があるところにはよく使われている、あの方式のやつだ。
しかも私は“目が釘付け”になったとウソを書いてしまった。
ぼけぇ~と窓の外を眺めていたら、それが向こうから視野に入ってきたというだけの話だ。だいいち、目が釘づけになんてなったら痛いどころの騒ぎではなくなる。
その電飾看板は地元にあるハム会社のものだったが、書かれているキャッチフレーズが“味わいの交響楽”というものだった。
広告としては逆効果に違いない薄茶色に退色したハムの写真(元祖84ppmの方で先日掲載した写真の肉のサンプルと同じような色合い。そこであのショーケースの別な写真-特別にもっと近寄った写真)を、おさらいを兼ねて載せておこう)は、どの角度から見ても味わいという日本語からは縁遠いのだが、私が懐かしく感じたのは“交響楽”という言葉だった。
なぜ“曲”でなく“楽”だったのだろう?
もちろん交響楽団という言葉はしょっちゅう目にするし自分も使っているが、この看板に書かれた交響楽という語は交響曲という意味だ。
交響曲のことを交響楽と呼ぶ人に、私はいまだ出会ったことがないし、今後も出会いたくない。
交響楽という語がむかしは当たり前だったのかどうかは知らないが、大昔の映画の邦題に「未完成交響楽」っていうのがある。その影響で広まったのかもしれない。
「未完成交響楽」はシューベルトの未完成交響曲を題材にした映画らしいが、原題は「未完成交響曲」とは直接関係のないものだ。
さて、シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828 オーストリア)の「未完成交響曲」は長らく交響曲第8番のナンバーが与えられていた。私がクラシック音楽を聴き始めた20世紀には、まちがいなく第8番だった。
となると“第9”のジンクスをいやでも連想させられる。
それも9番を完成させることができなかったどころか、9番にたどり着く前の第8番の途中でシューベルトは死んじまったと。
ところが、シューベルトには交響曲第9番があって、それは完成させられている。「ザ・グレイト」というプロレスラーみたいなニックネームをもつハ長調の作品である。
なお、現在では「未完成」の方は第7番、ハ長調の方は第8番とナンバリングされている。
このようにシューベルトの交響曲の番号は変更があって紛らわしいこと甚だしいのだが(現在はこのようになっている)、それはともかく、じゃあ「未完成」は書いている途中でシューベルトが死んじゃったから完成されないまま終わった、っていうことでは全然ないわけで、“かわいそうなシューベルトさん”みたいな悲劇的な要素はない。
どっちにしろ未完成ということに深い意味はない?
なぜ交響曲第7(旧8)番ロ短調D.759(1822)が「未完成(Die Unvollendete)」に終わったのかはわからない。
第2楽章を書き終えた時点で続きを書くのに行き詰った(第3楽章はスケッチがほぼ出来上がっている)という“にっちもさっちもいかなくなった”説や、第2楽章までで十分に完成された作品で続きを書く必要はないと判断したという“自己満足”説、作曲を中断しているうちにその存在を忘れてしまったという“うっかりフランツ”説などがあるが、真相はわからない。
今日は良い意味でオーソドックスな名演というべきジュリーニ/シカゴ交響楽団の演奏で。
1978年録音。グラモフォン。
マーラーの完成した最後の交響曲である第9番とのカップリング。
かつてはこの「未完成交響曲」はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とともにクラシック音楽の入門曲とされていた。
LP時代はレコードのA面に「運命」、B面に「未完成」という組み合わせがひじょうに多かったそうだ。
が、「運命」はともかく、「未完成」が入門曲向きかというと、若いころの私は全然そうは思わなかった。
若者が聴くにはあまりにも渋くて地味。
「未完成」がいいなと私が思うようになったのは30歳を過ぎてからだ。やはり職場で上司に叱られたり、取引先に理不尽なことを言われたり、酔っぱらって転んでズボンが切り裂き状態になったりという試練をある程度経験して、初めてこの曲の味わいがわかるというものだ(個人的な見解です)。
CD時代になると、「運命」と「未完成」という組み合わせはほとんど見かけなくなった。
そういう意味では、いま「未完成」はむかしほど聴かれていないのかもしれない。