銭湯にはラーメンののぼりが立っていた
 堺町では、種本石材店も盃屋旅館も見当たらなかった(このどちらも、娘が私と同級生だった)。

 当時の名残をちょっとだけ残しているのは、川潟商店という店。
 この名前は記憶にあるが、利用した覚えはない。いや、昔は自転車屋じゃなかっただろうか?

 いつも行っていた銭湯の“まさご湯”はいまも繁栄しているように思えた。
 が、外観はまったく別物になっていた。
 どうやら食事もできるようになっているようだった。

 同級生だった製函業の家の息子、千葉君の家。
 そこは同じ場所にあったが、文房具か何かのショップになっていた。工場はやめたのだろうか?
 CHIBAという看板が上がっていた。彼が店主なのかどうかはわからない。
 “多崎つくる”のように、私はそこに近寄ることをためらい、実際前を通過した。

 よく通ったくじ引きができる駄菓子屋や、飼っていたうさぎのためにおからを買いに行った豆腐屋は跡形もなくなっていた。

 いや、そんなことは6年前にもう確認できていたのだ。
 が、見落としていたかもしれないともう一度行ってみたのだ。
 結局それは無意味な行為であり、かえって虚しさが残った。
 まあ、時の隔たりを考えると、ここは私にとって実質新たに訪れた町に等しいのだ。

  列車が来ない駅
 堺町からマチナカの方へ向かった。 

 浦河駅の前に行った。古くてしょぼい建物だ。まさか、自分が住んでいた時のものがそのままではないだろうが(少なくとも大学生のときに行ったときとは明らかに違っていた。だいいち駅名の看板(文字)が違う)、まるで体が小さくなってしまった老婆のように見えた。
 そして、中に入ったわけではないが、駅舎はひっそりしていた。

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 それもそのはず、もう1年以上ここには列車が来ていないのだ。

 厚賀という駅と大狩部という駅の間で線路が高波による被害を受け、復旧のめどがまったく立っていないのだ。いまは苫小牧⇔鵡川での運転で、あとはバス代行である。

 ゴジラ対キングコング”を見た大黒座はまだあるというが、見落としてしまった。
 というか、もう長居はしたくない気持ちだった。
 母が冷蔵庫やらカラーテレビを買った“三栄堂”はまだあった。当時はビクターの店だったのに、いまはSONYショップという看板が上がっていた。なんというか、すべてが面影や節操を捨てて様変わりしたのだ。
 
 浦河の町には正味20分もいなかっただろう。
 特別な用事でもない限り、ここに来ることはもうないに違いない。

 考えてみれば、妻の実家がある街も私が初めて行ったときからずいぶんと変わった。
 ことごとく商店が消滅した。
 が、何年も行かないということがないので、その変化についていける。

DeutschenMarsche この町に住むことになったのは父の転勤のためだったが、その父ももういないわけだし、とにかくLong long agoってもんだ。
 
 そんな思いで札幌方向に戻り、三石の宿にチェックインしたのであった。

 マイスナー(Georg Meisner 1873-1949 ドイツ)の行進曲「故郷を後に(Zum Stadtele hinaus)」。

 マイスナーの本業は税官吏だったそうで、この曲が唯一生き残っている彼の作品。
 完成度が高いと言われているようだが、あまりおもしろくない行進曲である。

 シュテファン大佐率いるドイツ連邦軍陸軍第6軍楽隊の演奏を。
 1958~60年の録音。フィリップス。

 幸い昼は脂っこくない正統派とも言えるラーメン。
 順調におなかもすいてきた。
 どれどれ、三石和牛を食べてみようではないか。