Dvorak7ekiska  使えないレンタルPC
 麻布茶房の担担麺に後ろ髪をひかれつつ、でも寿司とミニうどんのセットを食べてしまったからには、さらに担担麺を食べるなんてまるで食レポのために金沢に来てるようだし、何よりAランチの悲劇の再現になりかねないと、約束の時間が近づいたので、CDでここに来る前よりもちょっぴり肥えたかばんを持って取引先に打ち合わせに向かった。

 打ち合わせは友好的な雰囲気の中で行なわれ、終わったあといつものAPAホテルに一度チェックインした。

 フロントでレンタルPCを借りたが、それは比較的新しく、起動するといままで目にしたことのないデスクトップ画面であり(ウィンドウズ本来のものとは異なる)、IEとオンラインゲームとOfficeの互換ソフトのアイコンしかなかった。
 タスクバーにはウィンドウズ・メディア・プレイヤーのアイコンがあったので、私は買ったCDの音楽をウォークマンに転送しようとしたが、そういう“よそ者”は一切使えないようガードがかかっていて、つまりはふつうのホテルのレンタルパソコンよりもかなり制限が強く、しょうがないのでCD取り込みはあきらめた。

 では、ブログ記事の下書きでもしようかと思ったら、文章を書き“下書き保存”をしても、その一部がふっとんでしまっていて、せっかく書いた貴重な駄文が消えてしまう。

 どういう罠でこのようになるのかわからないが、とにかく使い物にならない。

 さらに、画面左下の“スタート”をクリックしても、“すべてのプログラム”は表示されないし、コントロールパネルもない。しょうがないから“メモ帳”で下書きしようにも、メモ帳が開けない。結局、これはUSBの“メモ帳”のファイルをいったん開くことで解決したが、“メモ帳”そのものに“すべてのプログラム”から行きつくことができなかった。

 このPCはネット・サーフィンかゲームをすることに特化しているのだろう。が、これじゃビジネスに使えない。
 私もビジネスで使おうとしたわけじゃないけど……

  超人気店は超混んでいたが……
 夜は池中さんの推薦する、というか池中さんが行きたかった金沢で超人気だという居酒屋に行った。
 前に池中さんが支社の若いモンに連れて行ってもらって、その味の良さに感激したんだそうだ。

 予約は入らなかったが、店に行くとたまたま1テーブルあいていて、すぐに座ることができた。って、電話で予約が入らなかったので1テーブルあいているって、急なキャンセルでもあったのだろう。

 土地柄、私の好きな傾向の料理はあまりなく、つまりは魚主体。豚肉料理もあったが、頼まなかった。
 店は騒然雑然とした雰囲気で、観光客なんかは逆にこの雰囲気が“らしく”感じられるのだろう。

 味は悪くはないが、私としてはびっくりするくらい美味しいとは思わなかった。

 そしてまた、これは池中さんがすまんかったのぅと言ってくれたが、ハイボールがない。ハイボールがないから嫌だってわけじゃないが、正直ただでさえ上がっていない私のテンションは下がる。

 食事を終え、コンビニで翌朝の食事を買った。
 おにぎり1個とミニのどん兵衛天ぷらそばだ。

  狐にやられた!
 が、翌朝私は腰が砕けるほど驚き、ひざまずきたいくらいの悲しみに襲われた。

 ミニのどん兵衛天ぷらそばが、なぜかミニのどん兵衛きつねうどんだったのだ。

 私の就寝中に変身してしまったのだろうか?
 だとしたら、ミニのどん兵衛きつねうどんに変わってしまったのが私自身ではなく、ミニのどん兵衛天ぷらそばでよかった。危うくグレゴール・ウードン・ザムザになるところだった。……って、結局酔っぱらっていて買い間違えただけの話なんだけど。でもね、ちゃんとお箸をもらうのは忘れなかったよ!

 ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928 チェコ)の歌劇「利口な女狐の物語(女狐ビストロウシュカの物語。Prihody lisky Bystrousky)」(1921-23)の組曲(ターリッヒ編)。

 ビストロウシュカは“利口な”からきた固有名詞だそう。
 歌劇は3幕9場からなるが、この組曲は序曲と第1幕の音楽からなる。

 あまり聴かれることのない曲だが、“ヤナーチェクがチェコの自然と生命を高らかに謳いあげた名曲”なのである。いかにもヤナーチェクらしい音楽だが、実に美しく、ときにお茶目でさえある。

 エリシュカ/札幌交響楽団の、これまた見事な演奏を。

 2009年ライヴ録音。pastier。

  池中さんは翌日言った。
 「昼の店も夜の店も、前より味が落ちた気がします」

 せっかく私たちを案内してくれたのに、味が落ちた(かもしれない)ことを申し訳なく思ったのだ。
 池中さんに罪はないのだが……
 もしかすると池中さん、前のときはドーパミンが分泌されすぎていたのかもしれない。

 こうして私たちはアサイチで別な取引先を訪問し、“しらさぎ”一筋で名古屋まで戻ったのであった。