IMGP0601  見た目も味も醤油とは思えなかったが……
 5月1日~2日にかけて妻の実家に出かけたことは、あのオオウバユリの葉脈脈々とした写真と併せてお伝えしたとおりである。

 実家に向かう途中、伊達市で昼食を食べた。
 なぜなら伊達市を通過するときに12時になろうとしていたからである。

 ラーメンかそばにしようということになり、妻がスマホで調べた結果、市の中心部から海寄りにある“鶴つる亭”というところが人気らしいということが明らかになり行ってみた。

 店は混んでいた。
 が、幸い私たちは待つことなくすぐに席に着くことができた。
 私は醤油ラーメン、妻は塩ラーメンを頼んだ。

 透明なスープ、つまり一般的な昔風のラーメン、ではない。
 私のは味噌ラーメンかと思ってしまったし(トッピングもチャーシューともやしとネギで味噌ラーメンぽかった)、妻のは豚骨かと思ってしまったほどだ。

 食べてみると味は悪くない。が、醤油ラーメンという味わいではない。
 湯気が出ないほどではないがスープの表面は油で覆われ、熱々。
 とてもツルツルと勢いよく食べることができない。このように慎重を期して食べたにもかかわらず、あとで舌がちょっとヒリヒリした。ごくごく軽度のやけどなんだろう。

 つまり、少なくとも私の抱く醤油ラーメンの味とは違っていた。
 美味しいことは美味しいのだが、私の好みではなかった。
 が、この味ははまる人にははまるのだろう。それはわかる気がした。
 あの独特な味は、あっさり系が好みじゃない人が食べに行ったら、きっとあっさり虜になるんだろう。

  あらためて美味さ実感
 ラーメンを食べたあと再び車を走らせ(歩かせるわけにはなかなかいかないのだ)、妻の実家に着くとまずはトイレに行ったのだが、かん水のせいで実に鮮やかなレモン色のおしっこが出て、それは妻の両親に報告するべき事項ではないと思われたので自分だけの秘密にし、そのあとあの野草の写真を撮りに行き、昼寝をし、夕食を食べ、翌日の朝を迎えた。

 翌日は朝食後ほどなくして出発し、中山峠で休憩しつつ羊蹄山の写真を撮り、そのあと昼に札幌市中央区の“鹿林”でそばを食べた。ここには去年も一度来ている
 この日は珍しくシンプルにざるそばを注文したが、美味しかった。失礼ながら、ここのそば、こんなに美味しかったっけ?と私は心の中でプチ感心をしていた。
 この店のもう1つの名物である三色団子を買ったが、家に帰って食べると、これまたうまかった!

  余計なプロセスで余分な不快感を味わう
 そばを食べた後、この際一気に用を済まそうと私の実家に立ち寄った。
 母の日のプレゼントを妻が用意していたので、それを置きに行ったのだ。

 ……ひどく不愉快な思いをした。
 これまで何度か書いているし、親子関係でそんなことがあるのかと信じない人もいるだろうが、私の母親は特殊すぎる性格の、人格の持ち主だ。
 
 寄るたびにわけのわからない理屈による理解しがたい話を持ち出し、ごり押ししようとする。

 当たり前だが、たった1人の母親である。が、こちらが心を鬼にしてシャットアウトしなければ自分の家庭が、暮らしがおかしくなる。
 ざるそばが消化不良を起こしそうなくらい、不愉快な思いで帰宅した。

 貴志祐介の“黒い家”に出てくる極悪女が頭に浮かんだほどだ。

 やれやれ……
 どっと疲れての帰宅。しかし、この日はもう1つ予定があった。

 というのも、母親の場合はまさに憎まれっ子世にはばかるというそのものだが、一方わが家ではなんの罪もない暖房ボイラーと給湯ボイラーがこのところ息苦しいような音をたてており、いつこの世に別れを告げるか予断を許さない状態に陥っているのだ。
 もう20年近く働き続けているのだから無理もないが、いよいよもってもう限界だと判断。この2つのボイラー交換の見積もりをお願いしていた数社のうちの1社と会う約束をしていたのである。

 夕方にその人は来て、当方から確認しておくべき事項について面談し、私はとても納得したのでこの会社に発注することにした。発注の際、握手とか抱擁の儀式はもちろんなかった。

 交換工事をすることが正式に決まると、気のせいではなく明らかに暖房ボイラーの燃焼音がさらに大きくなった。不思議なものだ。宗教家なら「万物に心アリ」と唱えるところだろう。

 5月3日。
 朝の開店前に電話に出るかどうか怪しいところだが、営業時間外の8:50に電話をすると電話に出た。
 行きつけの床屋の話である。

 「今日、午前中にカットの予約入りますか?」
 「今からOKです」

 そうだろう。朝いちばんである9:00からの予約が入ってなかったのだから、朝いちばんに切れるならそれに越したことはないと思っている私と、朝いちばんの予約がカラだと手持ちぶさたで、かつ、チャンスロスになる彼との間で利害が一致したわけだ。

 前回床屋に行ったのは1か月前で、そんなに髪が伸びた感じはないのだが(歳を重ねると髪の伸び方も緩慢になるようだ)、かといってここで行かないとまたいつ行けるかわからないので行ったのだった。

 そのあと車のタイヤをスタッドレスから夏タイヤに交換し、庭の雑草抜きをし、買ってきたバラを植え付け、腰がだるくなったので作業を中断したときには、もう3時になっていた。夜中ではなく午後の3時である。

 風が強い1日だったので、なんだか表皮から水分が抜け去った感じがした。

MahlerKlemperer  鶯が登場するのは、原詩が中国のものだから?
 妻の実家に行き、歩いて10分ほどのところから始まる農道を野草の写真を撮りに歩み進んだとき、盛んにウグイスが鳴いていた。私に求愛しているのかと勘違いするところだったほどだ。

 ナイチンゲール(サヨナキドリ。夜鳴きウグイスと言われることが多いが、墓場鳥とも呼ばれるそうだ)は西洋の鳥だが、ウグイスは東アジアに分布する鳥である。だからこそ花札にも描かれているのだ、ってことは関係ないか……

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。

 6つの楽章からなる歌曲でもあり交響曲でもあるこの作品の第5楽章。
 この楽章は「春に酔える者(Der Trunkene Fruhling)」。原詩は李白による。

 歌詞の内容は、酔いつぶれるまで飲んで朝目覚めると、ウグイスが鳴いている。私(その酔っぱらいのことだ)が「もう春が来たのか?」とウグイスに聞くと「もう春は来ました」と答えて、自慢の声でさえずる。しかし、春なんて関係ないさととばかり、私はまた酒を飲む、というものだ。

 果たして、マーラーがウグイスのホーホケキョという鳴き声を、いやウグイスという鳥そのものを知っていたのかどうかは知らない。
 いや、実はベートゲが独訳した詩では、Vogelとなっている。

 Vogelというのは“鳥”のことで、詩の内容からすればウグイスがふさわしいのだろうが、実はドイツ語詩では単に“鳥”なのである。

 和訳された詩でも、ここを“鳥”としているものもあるし“ウグイス”としているものもある。
 まぁ、飲んだくれにはどっちでもいいことなんだろうけど……

 今日はなかなか個性的なクレンペラー盤をご紹介。
 ここに書いたように、なんか怒ってます?って様相を呈した演奏である。

 独唱はルートヴィヒ(A)とヴァンダーリヒ(T)。管弦楽はニュー・フィルハーモニア管弦楽団。

 1964年録音。EMI。

 昨日は嵐状態とまではいかないが、風が強く雨も元気よく降ったりやんだりした。。
 庭の手入れはほとんどできなかったが、こんな天気の中、私がどう過ごしたかは明日の記事で書こう(中1日ですまない)。

 なお、昨夕このブログの訪問者数が100,000を超えた。
 誰か知らないが、おめでとうございます。
 お礼がわりに祝杯をあげさせていただきました(単なる日々の飲酒習慣だけど)。
 私が10万超えを確認したのは17:48のこと。そのときはすでにカウンターは100,003になっていたが、ということは100,003人目は私だということだ。

 えっ?載せた写真と記事の関連?
 ないです。
 小さく写っているこちらに尻を向けた鳥は、全然ウグイスじゃありません。