あのおばちゃんは私の指摘を忘れなかったようだ
先週の金曜日の昼は久々に“やよい軒”に行った。
点滅する歩行者信号を池中さんとともに精一杯ダッシュした甲斐あって、私たちはすぐに席に案内してもらうことができたが、そのあとは幼児が口から地面に落としてしまった飴に群がるアリのように客が集まって来た。
いつも以上に混んでいるように感じるのは、その少し前に地震があったこととはまったく関係ないだろうが、それはともかく注文するモニターに親子丼が表示されるように改善されていたことに私は大いに満足した。
微力ながらも私がこの改善に貢献できたことをうれしく感じ、それまでは肉野菜炒め定食を頼もうと思っていたのに、親子丼をオーダーしてしまった。あのときのおばちゃんがいたら同胞として固い握手を交わすところだったが、あのおばちゃんが誰だったかさっぱり思い出せなかったのがとても残念だ。
そのことはともかくとして、10日ほど前から村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(新潮文庫)を読み始め、昨日読了した。
この小説を読んだのはこれで3回目だろうか。それとも4回目だろうか。
なのに初めて読んだように新鮮で、物語にぐいぐい引き込まれる。
先を読むのが楽しみという、読書する喜びをおなかいっぱい感じることができる。
村上春樹の小説の吸引力ってやっぱりすごい(私が好きだから吸いこまれるに他ならないんだけど)。
そのせいで、すっかり不信感を抱いてしまった柴橋氏によるの伊福部本は、またまた遅延状態になってしまったのだった。
「世界の終り」を読み終えたので伊福部本に戻ろうとしているが、でもまた「ねじまき鳥クロニクル」を読もうかなぁ、読みたいなぁという思いが募っていて、柴橋氏にとって予断を許さない状況にある(って、そんなのカンケーないに違いないけど)。
ゆづちゃんの姿に影の姿を重ねてしまったようだ
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の“世界の終り”にいる“僕”は、ここに住んでいる他の人同様に、影を切り離されてしまう。
その影っていうのはどんなものなんだろうか?
ただ真っ黒なものじゃなさそうだ。表情があるし言葉も話すから。
そんなことを考えていたら、上下黒の練習着姿でリンクを滑っている羽生選手の姿がニュースで映し出されていた。
これだ!
“僕”の影ってきっとこんな感じに違いないと、妙にしっくりと納得した(もちろんスケートは滑らないけど)。
2人の作家が共にチェロを取り上げてるのは偶然のようだ
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でもクラシック音楽作品が出て来る。
“まるでフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮するのに使う象牙のタクトのような威圧感があった”という描写もある。
フルトヴェングラーが象牙のタクトを使っていたのかどうか知らないが、タクトに関して岩城宏之は“象牙や美しい買で細工したり、金とか真珠を飾りにつけた高価な棒もあるかもしれないが、専門の指揮者が使っているとは考えられない”と書いている(「フィルハーモニーの風景」:岩波新書)。
小説の中の現実の世界(ハードボイルド・ワンダーランド)にいる“私”は今の仕事を引退したあと、
私は十分な金を貯め、それと年金とをあわせてのんびりと暮し、ギリシャ語とチェロを習うのだ。
と考えている。
そういえば浅田次郎の「天国までの百マイル」にもチェロが出てきた。
なぜ2人そろってチェロなのだろう?
偶然だわな……
この小説の終盤で出て来る「ブランデンブルク協奏曲」とブルックナーについては過去記事←をご覧いただくとして、このビヤホール(“私”は中ジョッキを頼み、カキを食べた)でブルックナーの交響曲の次に流れたのはラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「ボレロ(Bolero)」(1928)である。
私は二杯めのビールを注文してから便所に行ってまた小便をした。小便はいつまでたっても終らなかった。どうしてそんなに沢山の量の小便が出るのか自分でもよくわからなかったが、とくに急ぎの用事があるわけでもなかったので私はゆっくりと小便をつづけた。その小便を終えるのに二分くらいの時間がかかったと思う。そのあいだ背後では「ボレロ」が聴こえていた。ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら小便をするというのは何かしら不思議なものだった。永久に小便が出つづけるような気分になってしまうのだ。
わかるなぁ……
あらためて書くと、「ボレロ」は当時世界的に有名だったバレリーナのイダ・ルビンシテインの依頼により作曲されたバレエ音楽。
しかし、現在では演奏会用作品として演奏される機会が圧倒的に多い。
舞台の場面はスペインの酒場。客たちが酒を飲んでいる奥には円形のステージがあり、1人の踊り手が足慣らしをしていたがやがて本格的に踊りはじめ、その踊りを観ていた客たちも興奮し最後は熱狂的に踊り出す、というもの。
ここに出て来るテーマはたったの2つ。
それが楽器を替えながら執拗に繰り返され。最後の最後に転調されて終わる。
それなのにまったく弛緩せず聴く者を飽きさせないところが、さすがオーケストラの魔術師・ラヴェルの巧みな技である。
今日は、それこそいつまでもダラダラと尿が出続けてしまったらどうしましょうというスロー・テンポ(というのはちょいと誇張気味)のチェリビダッケの演奏を。遅いのに“聴かせる”演奏だ。
オーケストラはミュンヘン・フィル。
ラヴェルのオーケストレーションのすごさが楽しめるムソルグスキーの「展覧会の絵」とのカップリングである。
1994年ライヴ録音。EMI。聴衆は大興奮の喝采である。
でもこの小説、土曜日の陽が落ちていく時間帯に部屋で一人読んでいると、寂しくなるというかすっごく切ない気分になる。
少しは気分転換できるように、近所で咲いていた昨日の桜でも……
激しく同意していただきとてもうれしいです。全国のユヅ君ファンから非難を浴びたらどうしようかと思っていました。
確かにもう心はねじまき鳥再読に大きく傾いています。