IMGP0289  咲いてたのは10日前のことでしたので……
 建国記念の日に名古屋城に行ってみた。

 いえいえ、建国記念の日が実は名古屋城に重大な意味を持つという意味ではない。
 休みなので出かけてきた。ただそれだけのことだ。

 ちょうど梅が咲いていて、私も多くの一般庶民と同様の行動にでた。

 つまり嬉々として写真に収めたのである。

 こういうのって撮ったところであとで感慨深く見返すってことはほぼ皆無なんだけど、なぜ撮りたくなるんだろう?
 で、しかも紅梅の方はもう終わりかけだったし……

  私が名古屋城を訪れるのは初めて。
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 本丸御殿に入るとまず驚くのが、やたら係員がいること。
 リュックはロッカーに預けろだの(100円玉はあとから戻ってくることを強調していた)、廊下の真ん中を歩けだの、足元に十分注意せよだの、やたらにしつこい。

 しかし、これは見学者の身を案じているのではない。大切なのは建造物。壁や障子の破損を回避するために細かに注意するのだ。

 やれやれ。
 事情はわかるが、もう少し控えめにできないのだろうか。美術館の係員のように……。どうせうるさく言ったところで、あちらの国の観光客のみなさまには通じないんだろうし。

 そしてまた、話には聞いていたが城そのものは現代建築。妻は大阪城と一緒でこれじゃあねぇと言っていた。戦災に遭ってもいるし、姫路城とかと比較してはいけないんだろうけどね。

 ところで名古屋城に行くのには地下鉄の市役所前で降りるのが最寄だが、ご存知の方も多いと思うが、ここに建つ市役所と県庁がすでに城である。知事の城とか、市長のキャッスルとかいう意味ではなく、外観が城……

 こうまでしたい気持ちはわからないではないが、このデザインが採択された事情はやや理解できない。

IMGP0284 初めてここを訪れて、これが名古屋城だと勘違いする人も、きっと150人に1人ぐらいはいるんじゃないだろうか?

 「パパはお城に勤めているの。お殿様のお気に入りだって母君が言ってたわ」って気の毒な勘違いをしている職員の子供も165人に1人ぐらいはいると思う。
 そしてそれは高学年になるにつれ減少すると推測される。

 おや、空を見上げるとスクールジャージが?

 いや、2本線の飛行機雲が。

 なかなか美しい光景だったが、カメラを空に向けてシャッターを押す私を、太った中国系外国人が八丁味噌ソフトクリームをなめながら怪訝そうに見ていた。

IMGP0318 ほっといてくれ!

  名駅へ
 城見学もほどほどに名古屋駅周辺へ。

 名古屋の人は“めいえき”と呼ぶ。最初耳にしたときは、なんの免疫かと思ってしまった。
 実際、名駅という住所地名もある。

 JRタカシマヤはひっどい人だった。
 が、店内も駅のコンコースも大阪のように無秩序ではなく、過密は過密でも東京ほどではない。ミャアミャアという声も聞こえてこない。
 この混んだタカシマヤの中にある、7階の東急ハンズでカーテンレールフック8個入り180円を買った。
 なんだか自分の行ないにむなしさを感じた。

 名鉄百貨店はほどよい混み方。あまりきちんと見なかったが、こちらのほうがタカシマヤよりも面白そうだ。もっとも百貨店に用があることなどほとんど私にはないが。

 名古屋駅と栄地区の商業施設の対比関係は、札幌駅と大通公園のそれに似ている。もちろん札幌の方がコンパクトだが……

Bruckner 6 DRDavies  貴族なみに歓迎?
 この日の夜は、やはりこちらの支社に転勤してくる疎茄課長が名古屋入りするというので、同僚の池中さんとともに彼・Mr.SONAの夕食の相手をしてあげることにした。

 歓迎のために手羽攻めにしようと思ったが、あいにくの祝日休業。
 そこで前回下見済みの“鳥貴族”にお連れ申した。

 前回も書いたが、この店が名前にふさわしくなく高貴な雰囲気ではないのは、その大衆価格ゆえの客層のせいもあると思う。
 この日はデニス・ラッセル・デイヴィスみたいな人が焼き鳥を串から引きちぎるように食べていたのを目撃した。

 そんなわけで、今日はここにも書いているように、この指揮者の顔に似合わないけっこう落ち着いてどっしりした演奏のブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第6番イ長調WAB.106を紹介しておこう。

 テンポが遅めなのが特徴の演奏だが、それがプラスに働いてスケールの大きいものになっている。
 個人的にはけっこうお薦めしたい。

 オーケストラはリンツ・ブルックナー管弦楽団。第1稿(1879-81)ノヴァーク版による演奏。

 2008年ライヴ録音。アルテノヴァ。

 ところで疎茄さんは北海道のそれも北の方からやって来たのだが、今回の移動では吹雪で交通障害に遭ってひどかったなどと嘆いていたが、私たちには「それはたいへんだったね」と“まなかな”のように声をそろえて応えてあげる以外言葉はなかった。