まずは春樹説を
しかし1960年代に入ってマーラーの音楽の劇的なまでのリバイバルがあり、今ではその音楽はコンサートに欠かせない重要な演目となっています。人々は好んで彼のシンフォニーに耳を傾けます。それはスリリングで、精神を揺さぶる音楽として我々の心に強く響きます。つまり現代に生きる我々が時代を超えて、彼のオリジナリティーを掘り起こしたということになるかもしれません。
この文は村上春樹の「職業としての小説家」(スイッチ・パブリッシング)にある一節である。
「巨人」という名前が嫌だった
私が初めて聴いたマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の曲は、交響曲第1番ニ長調「巨人(Titan)」(1884?-88/'93-96改訂)。
そのころたまたまNHK-FMで、確か尾高忠明の指揮だと思うが、この曲のライヴが放送された。
しかしそれを私は聴いていない。マーラーという作曲家も知らなかった。
当時毎号買っていた雑誌“FM-fan”(この雑誌には悲しい思い出がある)に載っていた番組表に「巨人」という文字を見て、怪物を描いた曲なんだろうかとキワモノっぽさを感じたからだ。
しかし、その少し後にレコードショップでRCAの廉価盤を発見。
ものは試しと購入し恐る恐る聴いてみた。
やられた!
それは、私好みの音の連続。
一夜にしてマーラー・ファンになったのだった。
このできごとについては、ここに書いているので物好きな方は読んでいただきたい。
その演奏はラインスドルフ指揮ボストン交響楽団によるのもの。
録音は1962年で、まさに村上春樹の書いている、リバイバル期のものである。
ラインスドルフ盤が新譜で発売されたときどのような評判だったかしらないが、この曲の録音ではその4年後の66年に行なわれたバーンスタイン/ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏は長らく(いまでも?)名演として上位にランキングされていた。
ちなみに、これまた名演の誉れ高いワルター/コロンビア交響楽団の演奏は1961年の録音である。
曲そのものについてはこちらの記事を読んでいただきたいが、当初は5楽章からなる交響詩として書かれ、のちに“花の章”を取り除き4楽章構成の交響曲とした。
したがって、交響曲になってからのものを「巨人」と呼ぶには、少々無理がなくもない。
ラインスドルフの演奏は、ここに書いたように第4楽章のトランペットのアクセントが独特で、その後他の演奏を聴くと違和感を覚えたものだが、いまとなってはラインスドルフ盤の方がきわめて異質ということに納得している。
かといって、ヘンテコな演奏では全然ない。
日本ではラインスドルフの人気は全然高くないが、個人的な思い出を差し引いても、十分立派な演奏だ。
なお、この演奏について過去に取り上げた記事で、録音年を1966年と書いてしまっている。
間違いである。
いや、偉ぶっているのではない。
他者にのり移られ客観的な立場で事実を述べている。
ごめんなさい。