20150425Nuppuku  魚は金色でなかった
 土曜日は天気が良かったので、どこか花でも咲いてないかなと、郊外まで出かけてみた。

 行ったのは帯広市大正のヌップクガーデン。
 去年紹介したように、立派な庭園を無料で見ることができる。

 サクラが咲いているかなと期待したが、確かに私の背丈ほどの高さの細いサクラの木が1本、花をつけていたが、そもそもここには他にサクラの木がなかった。
 フクジュソウは終わり、園内で花を見つけることはほとんどできなかった。まだ早いのだ。
 それでも野草も含め、いろいろな植物の芽があちこちで新緑を誇っていたのは、モウロクした私の目を楽しませてくれた。

 それと、池のなかで金魚や錦鯉ではなく、黒っぽい魚がうようよしていた。すっごく元気だった。
 これはただの鯉だったのだろうか?それとも同じ敷地内にあるニジマスの釣り堀からやってきたものなのだろうか?
 サカナのことはよくわからないワタシ……

  こちらの魚は金色
 ドビュッシー(Claude-Achille Debussy 1862-1918 フランス)の「映像(Images)」。

 ドビュッシーは「映像」というタイトルの曲を第3集まで書いている。それぞれはいずれも3曲からなる。
 第1集と第2集はピアノ独奏のための作品(作曲年は第1集が1905。第2集が1907)。第3集は管弦楽のための作品である(1909-12/1905-08/1905-09)。
 ただしもう1曲「映像」という作品がある。1894年に作曲されたピアノ曲で、出版されずに他に流用された。

 ご存知のようにドビュッシーは印象主義音楽(impressionism)の開拓者。その彼が「Images」という名の曲集を3つも残しているのは、印象主義を象徴しているように思える。
 ただしドビュッシー自身は自分の音楽を「印象主義」と呼ばれることを気に入ってなかったという。

 ハロルド・C・ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、こう書いている。

DebussyImagesAimard 彼は「印象主義」という言葉に対して腹を立てていた。それは、彼より三世代前のシューマンが「ロマン主義」という言葉に対して腹を立てたのと同じであった。『映像』を作曲したとき、彼は自分の理論を説明しようと試みた。 - 「私が作り出そうとしているものは、何か違ったもの - 実在から受ける感銘である。それなのに、一部の愚か者は、これを印象主義と呼んでいる。この言葉は通常、間違って使われている。特に批評家の誤りは甚だしく、彼らは美術の世界で最大の神秘的効果を作り上げたターナーに、これを平気で適用する」
 だが、結局のところは意味論上の問題に帰着する。印象主義、超現実主義など、どのように呼ばれようと、ドビュッシーは偉大な詩人や画家がそうしたように、音による新しい世界像を描いて実在を高めたのだった。

 ショーンバーグはまた、ドビュッシーのことを、“印象派音楽家の最大の人物であるが、象徴派と呼ぶ方がもっと当を得ているかもしれない”とも書いている。

 今日は第1集と第2集を。

 第1集は、

 1. 水に映る影(Reflets dans l'eau)
 2. ラモーをたたえて(Hommage a Rameau)
 3. 運動(Mouvement)

 第2集は、

 1. 葉末を渡る鐘の音(Cloches a travers les feuilles)
 2. そして月は荒れた寺院に落ちる(Et la lune descend sur le temple qui fut)
 3. 金色の魚(Poissons d'or)

 第2集の第1曲はA.シャルパンティエ、第2曲はL.ラロワ、第3曲はR.ヴィニェスに献呈されている。

 なお、「金色の魚」は、祭りのときでもなかなかすくうことができないいわゆる“金魚”のことではなく、錦鯉を金粉で描いた日本の絵に霊感を得て書かれたという。

 「練習曲」でも取り上げたエマールの演奏を
 知的で技巧的。なのに鋭い感受性で聴いていて夢心地にさせられる。すばらしい演奏だ。

 2002年録音。ワーナークラシックス。

  やばいところに足を踏み入れた感はあったものの……
 帰りはやはり市郊外のレストランで昼食を食べた。
 建物は古く、中は薄暗く、あまり掃除が行き届いていない、そしてメニューにはラーメンもある自称“レストラン”である。
 私はカツ丼を食べた。が、予想以上に美味しかった。

 そういえば金色に輝く人面魚はその後どうしているのだろう?