新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2023/04

むかしの札響公演パンフを画像データ化してご紹介♪1986年「カルメン」

 ※ このシリーズを始めたきっかけについてはこちらをお読みください。

  セイコーマートなんぶとこの公演の関係は?
 今日ご紹介するのは、コンサートというよりは舞台。
 オーケストラは札幌交響楽団だが、札響は主催者ではない。
 オペラ「カルメン」の公演である。
 おそらく職場の誰かからチケットをもらったんだと思う。
 2夜公演のうち、私は初日の17日に行った。
 演奏がどうだったかはあまり記憶にないが、舞台はおもしく、興味深いものがあった。
 私がオペラの公演を観たのは、いまのところ、後にも先にもこれ一回きりである。おそらく、この先もないだろう。

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 数年間検討を重ねた結果の呼称が『たびたび』って……

BizetCarmen

ヤマトが朝刊を投函しに来てくれた?♪リャードフ/8つのロシア民謡

  ありえない時刻。つまり書き手は愉快犯か?
 一週間ほど前のことだと思うが、ヤマト運輸が宅急便の配達日数や指定時間帯について、これまで配達日が翌日だった区間でも一部で翌々日になると発表した、という報道があった。
 6月からで、東京から西日本の方の話のようだ。というのも、関東から北海道はすでにもう1日遅れになっているらしい。その理由はドライバー不足だという。

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 そりゃそうだろう。
 こんな早朝から走り回っているんだから、もう限界だ。

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 って、こっちは迷惑メール。一応念のためお断りしておこう。
 こんな時間に来るわけない。このメールを送りつけたヤツは、きっと送りつけられた人に嘲笑されたかったんだろう。そうとしか思えない。

 そして今日のこの記事。悪乗りで早朝すぎる時間に投稿してみた。
 って、こんな時間に私が起きているわけがない(絶対無いこともないが)。
 予約投稿である。

 リャードフ(Anatol Konstantinovich Liadov 1855-1914 ロシア)の「遅歌(Plaintive Song)」。
  「8つのロシア民謡(8 Russian Folksongs)」Op.58(1906)の第3曲。

 この「遅歌」という訳は、井上和男編「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)に書かれているもの。
 日本楽譜出版社のスコアでは「愁いの歌」となっている。

Liadov

「街とその不確かな壁」への不確かな理解と感想(1)♪DSch/Sym6

MurakamiMachito  混沌、錯綜、面白いのかどうかも判然としなくなる第一部
 4月13日に発売され、その日のうちに買った村上春樹の新作長編「街とその不確かな壁」。
 4月23日に読み終えたが、自宅にいるときだけ(重いので通勤時に持ち歩くのはやめた。電子書籍にしようと思ったが、そのときはまだ BookLive にはなかった)、さらに毎晩の飲酒後はほとんど読み進まなかったので(読んでも細かなところを忘れてしまうので)、限られた時間の中、私としては早く読み終わった方だと思う。

 前回の長編「騎士団長殺し」のときは、なかなか読み進めなかった。読みたいという気持ちが駆り立てられなくて、読むのが苦痛でさえあった。

 今回の原点となる未出版の封印小説が、のちに私が好きな氏の作品の一つである「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』に書き直されたという情報は事前にマスメディアから得ていたが、それをさらにもう一度よみがえらせた小説(つまり最初の小説「街と、その不確かな壁」の再々書き直しということになる)ということで、むかしほどは新刊を待ち望む気持ちの高ぶりはなかったものの、それでも楽しみにしていた(だから、結果的にではあるが、刊行日に購入することになった)。
 そして、上に書いたように、村上春樹の新作としては久しぶりに先へ読み進みたいという気持ちにさせられ(「一人称単数」、「猫を棄てる」、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、「騎士団長殺し」のときよりは、ということだが)、早く読み終えることになった。

 だが、頭のなかが整理できない内容も多々あった。
 以下、小説の内容がわかるような記述もあるので、「それは困る!余計なことするな」という人は、この余計な文章を読まない方がいいかもしれない。
 また、きちんと内容を把握・理解していないせいで間違った捉え方をしているところもあるはずだ。それはいずれ再読し、大いなる勘違いに気づいたら、またあらためて感想を書きたいと思う。

 「街とその不確かな壁」は三部構成。
 第二部が最も長く、次いで第一部が長い。第三部は短い。
 このアンバランスが良いとか悪いとかそんなことは何の不都合にも私にはならないが、ショスタコーヴィチが自作の交響曲第10番の第2楽章について「この楽章は、特に第1と第3と第4がかなり長いことを考えるとあまりに短すぎるようだ。こうして全曲の構造に若干のはたんがおこった」と述べていた言葉を、私はふと思い出した(全音スコアの解説に書かれている)。
 村上春樹自身は3つの部の長短のバランスに何も思っていない(あるいは逆に計算づく)だろうし、もちろん破綻も起こってない(と思う)。
 ショスタコといえば、この小説の第二部では、「M**」という名の少年が図書館で『ドミトリ・ショスタコビッチの書簡集』を読んでいるという箇所がある。

 さて、第一部だが、現実の世界(17歳の ’ぼく' と16歳の ’本当ではないきみ' がいる世界)と壁に囲まれた街(’夢読みになった私' と 図書館に勤めている ’本当のきみ' がいる街=世界の終り)の2つの世界の話が交互に進む。とはいえ、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のように一章ごとに規則正しく交互に語られるわけではない。

 壁に囲まれた街は、現実の世界のぼくと、自分で ’私は本当の自分ではない’ と言っている16歳の女の子とで作り上げたと、はっきりと書かれている(この女の子はその後、突如音信不通になる)。ということで、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の『世界の終り』の成り立ちの経緯についてのガイドブック的物語。ただ、ガイドといっても『教科書ガイド』のように正しとされる解釈が書かれているわけではない。実に詐欺的なガイドブックなのだ。

 どのようにして ’私' が壁に囲まれた街に行くことができたのかなど、あいかわらず不明(16歳の女の子曰く、行きたいと強く望めば行けるらしい)。

 ということは、その壁に囲まれた街は ´ぼく’ の心の中にある想像上の架空の街と考えるのが、そして16歳の女の子はかなり思いこみの激しい夢想家と考えるのが合理的なんだろうが、そう割り切らせてくれないのが村上春樹の病的ワールド。だんだん壁に囲まれた街と現実の世界がいったいどんな関係なんだかワケがわからなくなってくる。「いまの話は、ぼくが空想してた世界と暮らしぶりなんだ」って明るく教えてくれないから、’ぼく’ は。
 さらに、壁に囲まれた街の ’私’ は “壁に囲まれた街と壁の外の世界(現実の街)の、どちらの世界に属するべきなのだろう?私はそれを決めかねている” なんてってワケのわかんないことを言い出す始末だ(151ページ)。
 そう、作者はていねいに状況を説明しているようでいて、実はどんどん私を混乱の世界へ追いやり放置し始めるのだ。いままでの春樹ワールドの不可思議さに輪をかけたあげく、不親切さも加味されているような感じさえする。

 第一部は以下のように終わる。

 現実の世界の ’ぼく’ は、大学を卒業し、書籍の取次をする会社に就職し、さらに45歳になり、出し抜けにすとんと穴に落ち、その後意識が戻ったときに穴の中にいる ’ぼく’ に声をかけたのは門衛だった。門衛は ’ぼく’ が横たわっていたのは、死んだ獣たちを放り込んで、油をかけて焼くための穴だ、と明るい声で言うところで終わる(第23章)。
 つまり死んだ単角獣を焼く穴だが、その穴は壁に囲まれた街の外にある。だから ’ぼく’ は壁に囲まれた街の中には入りこんでないわけだが、でも現実の世界でもないだろう。
 やれやれ、もう私の頭はウニ状態。
 このとき、『夢読み』の ’私’ は、壁の中にいるのか?
 時制もよくわからない。ま、壁に囲まれた街にある時計塔には針がないわけだから、時制なんて考えちゃいけないのかもしれない。

 一方、壁に囲まれた街の ’私’ は、影とともにその世界から外の世界へ出て行こうとするが、結局は居残ることにし、影だけが地下で外につながる『南の溜まり』に飛び込んで脱出を図る、という話で終わる(第26章。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のストーリーと矛盾がない)。

 当初は第一部だけで、この小説は完結するつもりだったそうだが、この第一部だけじゃ「はぁ?これで終わり?勘弁してよぉ~」ってことになったに違いない。

 ってことで、感想を書くほど全然よくわかっていないくせに-強いて言えば「よく理解できていません」というのが感想-さらなる続きはまた今度。

 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第6番ロ短調Op.54(1939)。
 このシンフォニーもバランスが悪い。3楽章構成だが、第1楽章が約20分。しかし第2楽章は約6分、第3楽章は約8分だ。つまり全曲の半分が第1楽章。しかもこの第1楽章、ひどく暗い……
 ショスタコは第10交響曲であんなことを言って反省しているが、反省しているふりで、別に楽章間の長さのバランスなんてもともと考える気はいつもなかったんだろう。


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めん助はめん子の兄なのか?♪クープラン/双生児

  見事な着眼点
 昨日のこのブログの記事を見た氷山さんからメールが来た。

 それは “西山ラーメンのキャラクターと、満龍の初代めん子は同じ作者ですかね?脚の感じなどそっくりですね。めん子については2代目がいるとは知りませんでした。” というもの。

 さすが氷山さん
 めん子の存在をとっくに知っていたのだ。

 そして、西山ラーメンのキャラクター「めん助」と「初代めん子」の知られざる関係の可能性を指摘してきた。これには私も気づいていなかった。

 これがめん助。

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 これが初代めん子(と、さすがの氷山さんもまだ知らなかった二代目めん子)。

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 まったくもって、めん助と初代めん子は下半身が双子だ。兄と妹、あるいは父と娘と思えるほどだ。

 私は「きっと同じ作者なんだと思います」と、鋭い指摘に畏敬の念をもって返信したのだった。

 クープラン(Francois Couperin 1668-1733 フランス)の「双生児(Les jumeles)」。
  8曲からなる「第12組曲(Ordre No.12)」(1717刊)の第1曲である。

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 で、この日の昼食も2玉のうち残っていた1玉をゆでて、家ラー。
 今回のスープはマルちゃんの芳醇醤油にした。
 このスープもおいしかった。

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 なお、お伴にしたおにぎりの海苔は国産だった

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2回セットになるのはタマタマが2個あるから♪GM/Sym3

  『家ラー』の定義とは
 先週の土曜日は、今月に入って5回目の『家ラー』をした。なお、今日は私たち夫婦の36回目の結婚記念日である。たいしたものだ(?)。

 『家飲み』は自宅でお酒を飲むこと。ということは、つまり『家ラー』は自宅でラー油をなめること、ではなく、自宅でラーメンを作って食べることである。私の場合は、インスタント麺はカップ麺はもちろんのこと、袋麺も『家ラー』の定義に含めない。出前のラーメンも含めない、って、このあたりでラーメンを出前してくれるようなラーメン店はない。そもそも近くにラーメン店はない。いちばん近いラーメン店は江別駅横の『えべつみらいビル』1階の「半畳」、あるいは「八里九里家」(このリンク先の記事のときは休んでいたが、いまは元気に(?)営業中だ)になるのだと思う。コンビニやスーパーで売っている、レンジアップして食べるタイプのラーメンも『家ラー』には含めない。
 要するに、生ラーメンとスープを買って来て(スープ付きラーメンでも構わない)自分で作ったラーメンを食べること。それが『家ラー』なり、ってコロ助か?(ここでこんなタイトルで書いているが、今回定義を変えることにしたのだ)

 今月最初の家ラーは、いきなり1日に。そのことはここで報告した
 第2回目の家ラーについては、ここに報告している

 第3回目は4月12日、第4回目は4月15日だ。

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 第4回目は、ほぼほぼ『かけラーメン』である。

 このように奇数回と偶数回の間隔が狭いのは、生ラーメンが2個入りのものを買っているためにほかならない。

 このあいだの土曜日、つまり第5回は、麺はいつものものだが、スープはいつもの西山のもののほかに、菊水とマルちゃんのものも買ってきた。

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 菊水ブランドのスープは西山ブランドと同じく和弘食品で作っている。すごいな、和弘食品



 マルちゃんのスープも、和弘食品と同じく小樽市銭函で作られているが、この住所にあるのは東洋水産の石狩工場だった。



 今回は菊水ブランドのスープを使って作ってみた。

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 いつも食べる西山のスープとは、これまた微妙にコクが異なるおいしさだった。この味も好き!
 やっぱりすごいな、和弘食品

 ラーメンを食べたあとは、「街とその不確かな壁」を読み(ただいま第2部の半ば)、昼寝をし、久しぶりに大曲(’おおまがり’ではなく’たいきょく’)を、ながら聴きながらも通しで聴いた。
 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)で、ギーレン/ベルリン放送響のライヴ音源である。
 年を重ねていく数少ないメリットのひとつは、このような100分近い曲も、若い頃よりは短く感じる(その分、途中でいやになる頻度が減る)ということである。

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あれから1カ月。『身長』が半分くらいに♪ペーツェル/5声の吹奏楽

  青汁ではありません
 ここ一週間で何度かこのブログのタイトルの背景写真をかえてみた。
 記事の本文の内容が希薄なので、せめてタイトルの背景写真で読者をおびき寄せようと考えたのだ。

 しかし、背景写真によってはうるさくなったり、あるいは暗いイメージになったりしてけっこう難しい。そしてまたそれに応じてタイトル文字の色も変えてみるのだが、これまたなかなかしっくりいく色に決められず、だんだんどーでもいい気持になっていった。
 って、ことで、このように ↑ したが(2023年4月22日現在)、まあ、妥協の産物だと思っていただきたい。
 この間、みなさんには「あれまた変わった。落ち着かないな」と不愉快な気分にさせてしまったかもしれないような気がしないでもないことをお詫び申し上げる(それにまったく気づかなかったと言われたら、私は不愉快な気分になるような気がしないでもない)。

 そんな金曜日は(?)、昼に弁菜亭(札幌駅立売商会)の「知床とりめし」を食べた。
 1カ月ぶりだったが、やっぱりおいしかった。

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 お伴にしたのは、新発売のセブンイレブンの『あおさ』のカップみそ汁。
 アオミドロ池のような色をしているが、これはかきまぜる前のため。かきまぜるとちゃんとみそ汁色になった。

 この日の帰りの電車は731系で、立ちんぼしたので、森林公園駅に停車したときにドアのガラス越しに写真を撮った(窓がくもっていても、ドアのガラスはほとんどくもっていない)。
 解体中の百年記念塔である。
 あれから1カ月余り。すっかり短くなった。

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 以上、1カ月ぶりの記念塔の状態ととりめしの味の報告といたしたい。

 ペーツェル(Johann Christoph Pezel 1639-94 ドイツ)の「5声の吹奏楽(Funffstimmigte blasende Music)」(全76曲。1685刊)。
 ペーツェルはライプツィヒとバウツェンで市のトランペット奏者を務めた人物。
 この曲は、2本のツィンクと3本のトロンボーンの編成で、時報として塔の上から吹奏された曲(Turmsonate)である(76曲すべてが塔の音楽かどうかは私にはわからない)。

 廃盤 ↓

Pezel













1000食限定!あなたは間に合うか?♪WAM/pソナタ9

  たまちゃんはいつだって微笑んでいる
 今週の火曜日は、アサイチで札幌大通り方面に用事があった。だからアサイチで札幌大通り方面に行って来た。用事は30分ほどで終わった。

 すっごく暖かかったわけではないけど、久しぶりに地上を、駅前通りを歩いてサツエキ方向に戻った。
 久しぶりに見る『たまちゃん』は開店前のガラス戸の中で穏やかな笑みをたたえていた。

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 昼の弁当を買って帰ろうと思ったが10時前なのでデパートもまだ開いてないし、でも今日はコンビニ弁当の気分でもないので、「The Smoke Shop」のこの弁当を買って帰ろうと、札幌駅の東コンコースに向かった。
 が、その手前の「弁菜亭」(先日閉店した Kiosk 東コンコース中央店の隣)をやや離れたところから見てみると、新たな弁当の貼り紙が。

 限定販売の「さっぽろおにぎり弁当」というのが売られていた。
 4月1日から1,000食限定での販売で、駅弁の日の制定から30周年を記念しての駅弁なんだそう。750円。私としてはこれを見逃すわけにはいかない。私は店に近づき、勇気をふるって「札幌おにぎり弁当を!」と宣誓した。

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 “気分が盛り上がる”というアイテム「駅弁カード」付き。

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 ふたを開けると、鮭いくらおにぎりと豚角煮おにぎり、鶏の唐揚げ、玉子焼き、炊き合わせ、シューマイ、ごま和え、ミニトマトというラインナップ。

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 弁菜亭の各種弁当の良いとこどりといった内容だ。
 見た目よりもボリュームもあったが、男の子の私にはちょっとご飯が足りないって感じだった。

 翌日は、同じおにぎりでも311円という価格を貫き続けている日糧の「おにぎりおかずセット」を購入。
 しばらく買っていなかったうちに、焼きそばがスパゲティに替わっていた

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 もちろんこれで足りるわけがなく(“濃厚スープがおにぎりに合う”すみれのワンタンスープをお伴にしてもなお)、別なおにぎりも1個食べたことを私は白状する。

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のピアノ・ソナタ第9番ニ長調K.311(K6.284c)(1777)。

 この曲はマンハイムで作曲されたが、同じくマンハイムで同年に書かれた第7番ハ長調K.309(284b)とパリで1778年に作曲された第8番イ短調K.301(300d)のピアノ・ソナタと合わせた3曲がOp.4として1782年にパリで出版された。

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おひとりさまでもくつろいで過ごせるFC♪ブクステフーデ/BuxWV.182

20230323Manryu1  外でのひとり飯が苦手なワケは
 先月のことだが、マイカーの6カ月点検のためにィーラーに行った。
 13時からの予約だったが30分ほど早めに行って車を預け、私は歩いてイオンモール札幌苗穂に向かった。昼ご飯を食べるためだ。

 昼のピーク時間も過ぎているし(12:50だった)、平日だ。そんなに混んでないだろう。

 確か1階にそば屋があったはずだ。そう思っていくと、店はそれほど広くないうえに、ほぼ席がうまっている状況。私が一人で食事をするには耐えられるような環境ではない。心理的に安心・安全に食事ができない。

 ラーメン店が2階にあるようだ
 行ってみると、すすきのにある「満龍」ではないか。満龍のラーメンを私は食べたことはないが、少なくともススキノの店の評判はむかしから良い。
 そして店の前にいって、私は小躍りしたい気分になった。
 そこはフードコートだったからだ。

 一人で外で食事をするときに、私はとにかく店の中で居心地の悪さを感じ、ひどいときには食欲が急激に落ちる。
 去年の帯広の「鳥せい」のときも、このあいだの「菅家」のときもそうだった。

 店の人が私に注目しているわけではもちろんないが、カウンターで至近距離で対面する形になることが、妙なプレッシャーになる。カウンター席で両隣に先客がいるそのすき間に座らされることに閉所恐怖症的な思いに襲われる。テーブル席では相席のリスクに常にさらされる。
 料理が運ばれてきたら早く食べなきゃという急き立てられる感じもつらい。それこそ、料理の味がしないほどだ。いや、しないのではなく、まずく感じるようになってしまう。

  FCならリラックスして食事ができる
 でも、フードコート-つまり今日のタイトルの『FC』はフライドチキンではなくフードコートのことなのだ-ならよほどのことがない限り、相席になることはないし、とにかく空いている自分の好きな席を使うことができる。広くない店内で待っているときや食べているときに至近距離にいる店の人の存在は、フードコートならないし、どこに視線を向けて過ごすか悩まなくて済む。ただただ、ぼーっとしてりゃいいのだ。フードコートにいる人たちは私をじろっと見たりはしない。そもそも私のことなど視野に入っていないのだ。

 ふつうならフードコートはがやがやして落ち着かない場所だろうし実際物理的にはそうだ。誰かと一緒なら私もフードコートを選択することはあまりないかもしれない。しかし、自分一人で食事をするときにはフードコートほどリラックスできる『店』はない。早く食べなきゃという急き立てられる感じもない。

 そう思って思い起こしてみると、出張が多かったころに新千歳空港でよく利用していた「ちとせラーメン」(現在は別な店にかわっている)は、味もどストライクの私好みだったが、フードコートの店だった。意識していなかったが、だから私は心置きなくラーメンを味わえたのだ(新千歳空港の「弟子屈」もときおり利用したが、ここは昼どきを外せば適度な混み方で、店も広めで店員とも適度な距離感があり、「菅家」で感じるような圧迫感を感じないで済む)。

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 すっかり心が軽やかになった私は、おすすめのメニューらしい『極』のなかからではなく、ベーシックかつ王道的に『ふつう』のしょうゆラーメン(830円)を頼んだ。小ライスを頼むか迷ったが、そしてかなり食べたかったが、帰りの運転中におなかがごろごろしては非安全運転になると考え、しょうゆラーメン単品にした。

 ブルブル端末をもらい、周囲2メートルは他の客がいない過疎地帯の席を選ぶ。
 優雅に水を紙コップに注ぎに行き、あとは出来上がりのブルブルを待つだけだ。視線をどこにやればいいのかとか、どんなスタンスで座っていればよいのかとか、とにかく(誰も見てないのはわかっているが)人目を気にしないで気を遣わないで過ごせるのが、この上なく幸せである。
 台車で西山製麺の麺を納入しに来たお姉さんの姿も、ほほえましい気持ちで眺めることができる。

 「満龍」を利用するのが初めてなので知らなかったのは当たり前だが、ここは『麺恋処』であり、イメージキャラクターの名前は「めん子」で(ま〇子でなくてよかった)、初代と二代目がいる。二代目がいるが、レシートに印刷されていたのは初代めん子だった。

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  姿も良ければ、味も良し!
 ほどなくして私に預けられた端末が光り、震える。
 ラーメンを取りに行き、その素朴ながらも美しい眺めにうっとりする。
 
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 こうなると「坊主憎けりゃ、袈裟まで」じゃないが、菅家での、もう1時半過ぎにもかかわらず空いているテーブル席を使うのはダメで、客と客の間のカウンター席に詰め込まれたという恨みから、あそこのラーメンのトッピングまでもがむかしと違ってしょぼくなったと、満龍のラーメンの姿と比べてしまう。

 食べると……うまい!
 うまい!これが「満龍」の味なのか!いやいや、ホールインワン的に私好みの味だ。
 この店が近くにあるなら東苗穂に引っ越したくなるほどだ。
 食べ進んでスープの水位が下がると『満龍』の文字が誇らしげに表れるのも感動的だ。

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 ご、ご、ご、ごちそうさまぁ~!
 食器を下げるときに厨房のお兄さんと目が合ったので「ごちそうさまでした!」というと、「ありがとうございました!」という感じの良い返事が。
 このくらいの接触度合いがちょうどいい。

 なお、車の点検結果は異状なし。
 事前にわかっていた後ろのナンバー灯の電球が1つ切れていたのを交換してもらい、その代金143円を払って帰ってきた(点検パックに加入しているので、点検代はかからない)。

 ブクステフーデ(Dietrich Buxtehude 1637頃-1707)のコラール前奏曲「かくも喜びに満てる日(Der Tag, der ist so freudenreich)」H.4-3-3,BuxWV.182を。

 廃盤 ↓

BuxtehudeOrgan 代わりといってはなんですが、こんなんあります(私は未聴)。












 






ツイッターとその不確かな連携機能♪ハイドン/Sym45「告別」

  気まぐれな鳥
 ブログの記事を更新したときに、更新したことをみなさんに知らせるメッセージをツイッターで同時に投稿するように設定しているのだが、先週の半ばあたりからそれがつぶやかれなくなった。

 ツイッターで私のつぶやきに『いいね』をくださる少数派の人たちの中には、このブログ更新のつぶやきにも『いいね』をしてくれる人がいるので、この同時投稿が機能しないと、ますます私が『いいね』してもらえる数が減ってしまう。

 なぜ連携しなくなったのだろう?

 と、2月に livedoor Blog の管理ページの『お知らせ』に、こんな記事があったのを思い出した。

TW1

TW2

 このお知らせから2カ月。
 おそらく、ついに『予告なく』livedoor Blog でもこの機能が利用できなくなったということだろう(よくわかってないが、API とかが、つまり同時投稿というツイッターとの連携が出来なくなったということとイコールと考えていいのだろう)。同時投稿機能とのお別れだ。

 ツイッターを初めてもう何年も経つが、ツイッターに関していまだに慣れない。わからないことも多い。
 慣れないのに、画面や仕様の変更など、さらに私の慣れを阻害するようなことを平気でやってくれる。なので、世捨て人のようにツイッターそのものをそのうちやめるようになるかもしれない(なお、私はフェイスブックやインスタグラムは利用していない)。

 と、ここまで書いたのが15日(土曜日)の夕方のこと。
 ところが、日曜日の朝は-本館とこの新館の両方の記事をアップしたのだが-なにごともなかったように、ツイッターに同時投稿がなされていた。なので、この記事は本当は17日(月曜日)に投稿する予定だったが、連携状況がどうなるのか様子を見るために待ってみることにしたのだった。

 そして、おとといの月曜日も同時投稿されていた。
 でも、火曜日は同時投稿されていなかった。
 ワケ、わかんない。
 この先、いったいどうなるのだろう?

 ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の交響曲第45番嬰ヘ短調Hob.I-45告別(Abschied)」(1772)。

 廃盤 ↓

HaydnSymCompDorati ※20日6:30追記
  本日は同時投稿機能、働いていた。












股間を触っているのは私ではありません!♪ラヴェル/左手のためのp協

  昼は豚&鶏、夜は牛&豚
 先週の金曜日、14日は、午前中に歯科医院に行った。
 3カ月ごとの定期検診である(前回から4カ月経ってしまっていたが)。
 今回も歯ぐきのクリーニングをしてくれる衛生士さんが、こまめに「楽にしてください」と口を閉じるチャンスを与えてくれたおかげで、まったくオエッとなることなく、ということは涙目になることもなく診療を終えることができた。

 この日は社に戻る前に東急百貨店の地下に寄った。もちろん昼食の弁当を買うためである。
 実はこの日の夜は、4月に新しく赴任してきた支社長の歓迎会が予定されていた。焼肉である。
 なので、魚系の弁当にしようと考えていた。
 魚系といっても、海老やイカが入った天丼は、うん、やめておくべきだろう。
 そうだ!穴子押し寿司にしよう!それがいい、それがいい!

 しかし、売り場に行くと今や価格は1,000円オーバー。
 今日はそこまで昼に気合をいれられないな。と、右斜め方向を見ると「玉藤」が。
 結局、「玉藤」の「特製弁当」にした。全然、肉々しいじゃん。何やってんだか……

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 この特製弁当、内容は ESTA の玉藤のものと、もちろん同じ。
 値段が601円(税抜き価格556円)となっているが、実際の会計では600円である。
 なお、「まい泉」のあとに出店してまだ2カ月半ということで、箸袋には「東急店」の記載はまだない。

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 こうして肉々しい弁当を食べたが、夜の焼肉もおいしくいただけた。

 江別に着いたあとセイコーマートに寄って、この日発売の「財界さっぽろ」を買おうと思ったが、置いてなかった。なんてこった。まだ入荷してないのか……
 
 翌日。
 セコマに行くと、ちゃんと置いてあった。
 そこで私は気づいた。「財さつ」の発売日は15日だったってことを。14日はデジタル版の発売日だった。おバカな私だ。前日、店員さんを問い詰めなくてよかった。

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 買って来た「財さつ」を開くと、いきなり2ページ目にこんな写真が!
 『つぶやき』にもこの写真を投稿したが、知事選に敗れた池田真紀氏が、失意のあまり男性の股間に手を伸ばし触っているではないか!

202305ZaiSatsu

 って、よく見たら立憲議員の逢坂氏自身の手だった。
 もう、まぎらわしいんだからぁ~

 ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)」ニ長調(1929-30)を、ブロックによるピアノ独奏で。

DebussyGiulini

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