一昨日も取り上げた、その三浦綾子の「塩狩峠」。
信夫が移住するために札幌駅に着き、幼なじみの吉川と対面したときの会話。
「宿屋もずいぶんあるんだねえ」
「うん、山形屋だの、丸惣だの、けっこう大きな旅館があるよ」
「北海道というと、ただ山か野のように思っていたが、どうも認識不足だったね」
二人は駅前の広い通りを歩いて行った。
「野幌だったか、汽車の窓から煉瓦工場が見えたよ。アマ会社やビール工場なども、札幌にはあるんだものなあ。想像もしなかったよ」
この小説を読んでいて、ストーリーとは別にプラスアルファとして私が楽しめたのは、丸惣とかマルイ呉服店とか北辰病院といった実在したむかしの施設の名前が出てくるところである。
私はそのホテルのレストランで人生で初めてバイキングを体験したのだった(まさか勘違いしていないと思うが、初・略奪とかではなく初・食べ放題である)。
「もしや」と思って調べてみると、あったあった!
交通公社の時刻表1975年3月号。巻末のホテルや旅館のリストにその名を見つけた。
江別市はレンガの産地だが、現在でも野幌駅近くにはレンガの旧ヒダ工場が残っている。信夫が見たのがその工場だったかどうかはわからないが、旧ヒダ工場は現在『EBRI』というアンテナショップになっている。
また、信夫は札幌にアマ工場があると言っているが-もちろん尼ではなく亜麻だ-、これは現在のサッポロビール園(当時はビール工場)の近くにあった『帝国製麻紡績工場』のことだ(ちなみに江別市大麻の地名は、むかし麻畑があったことに由来すると言われている)。
東京→札幌の旅で野幌を通ったって?
ところでここで大いなる疑問。
東京から札幌に来るのに、信夫はなぜ札幌よりも北側にある野幌を通ってきたのか?
「札幌から一路帯広へ」と言いながら「途中に気になる場所があったので、そこでしばし休憩」と、なぜかいきなりニセコでソフトクリームを食べるみたいなテレビの旅番組のごとく、三浦綾子は信夫にルートを外れさせてまで野幌のレンガを紹介したかったのだろうか?
信夫が吉川の家に着くと、彼の母親はこう話す。
「ほんとうによくおいでくださいましたねえ。お疲れになったでしょう。室蘭から岩見沢回りでいらっしゃったんですってねえ。私たちは函館から小樽まで船で来たんですけれど、わたしは船に弱くて酔いましてねえ。函館から室蘭までの船は揺れませんでしたか」
吉川のお母さんは、実に親切だ。信夫がどういうルートをたどってやって来たのかを、私たち読者にこのようにきちんと説明してくれているのだから。
信夫は上野で妹の夫の岸本に見送られている。だから、間違いなく上野から汽車で青森に行ったはずだ。そして、“次第に近づいてくる函館山の、むっくりした姿”を連絡船から眺めた。
しかし、この連絡船も私たちが頭に思い浮かべるものとは違うのだ。
というのも、青函連絡船が運航を始めたのは1908年になってからだからだ。
明治10年(1877年)生まれの信夫が23歳になったこの年は1900年。だから、信夫が乗ったのは別の“連絡船”ということになる。
そして吉川ママの説明によると、信夫はさらに函館から室蘭までの船に乗り換え、汽車で室蘭から岩見沢に向かった。つまり室蘭本線を下ったわけだ。
函館駅ができたのは1902年で、函館⇔札幌の直通列車が運行されるようになったのは1906年のことだというから、函館港に降り立っても陸路では、少なくともすんなりとは札幌まで移動できなかったのだ。
また、いまの千歳線(旧:札幌線)ができたのは1926年のこと。したがって室蘭本線(室蘭→苫小牧→追分→岩見沢)を使うしかなかったのである。
いや、当時はこの路線が基幹路線だったのだ。なんせ『本線』なのだ。石炭輸送の重要なルートだったのである。
掲載した路線図はずっとあとの昭和23(1948)年のものではあるが、信夫のたどったルートに黄色い線を引いてみた。
つまり、以上のことを一言でいうと、三浦綾子はテレビの旅番組のようなウソはついていない、ということだ。
1900年はシベリウス(Jean Sibelius 1865-1957 フィンランド)の有名な作品、交響詩「フィンランディア(Finlandia)」Op.26の改訂版が完成し初演された年である。そしてまた、今日9月20日はシベリウスの命日である。
いや、それが「塩狩峠」と何か関係があるかというと何もない。
そういうことで、ヤンソンス/オスロ・フィルの演奏を。
1990年録音。ワーナー(旧EMI)。
1978年10月号の時刻表を見ると、夕張→追分→岩見沢→札幌と走る普通列車が乗っている。
この追分→岩見沢→札幌の部分こそが、信夫が通ったものと重なるのである。




































