新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2018/01

天敵を飲むのは嫌だけど……♪イベール/バッカナール

201801Amazake  もう境界から完全に離れた?
 今月の中旬に札幌に出張したとき、定例の採血&お薬頂戴のため病院に行った。

 当日のうちに結果がわかるヘモグロビンA1cの値は5.6。基準範囲は4.6~6.2だから、この点に限って言えば境界型糖尿病どころか完全健常者。
 このため私の身体で甘いのは、フェースだけってことになってしまった。

 最近ブームになっているようだが、そしてそのせいで私もブームに乗ったのだが、『飲む点滴』と呼ばれている甘酒。甘酒はとにかく体に良いらしい。

  えっ?ウチにもあるの?
 1月の13日、土曜日。
 毎週夕方HBC(TBS系)で放送されている北海道ローカルの『あぐり王国北海道NEXT』を観ていた。

 この日はJAあさひかわの『ゆめぴりか甘酒』が取り上げられていた。

 実は私は甘酒が苦手だ。
 あの甘酒臭さが何よりウッと来る。日本酒を飲むことができるのに何言ってんだと言われそうだが、ウッと来るものは来るのだ。それに日本酒だって、ちょっと飲みすぎたらウッとどころかオエッと来るではないか。

 番組では、JAあさひかわの甘酒は麹から作ると言っていた。
 甘酒が苦手だというちびっこレポーター(あぐりっこ隊)が「おいしい!」と素直な気持ちを吐露していた。

 知らなかったが、甘酒には酒粕から作るものと麹から作るものがあるそうだ。
 TVで得た知識を、もともと甘酒が好きな妻に教えると、いまさらこの人なにを言ってるの?って顔をされたうえ、「冷蔵庫に入っている」と、「風呂は沸いている」みたいな感じで逆に教えられた。

 冷蔵庫の扉を開けてみると、あ~ら、JAあさひかわのものではないが、『国菊』というところの米麹から作った『本格甘酒』なるものが入っていた。あんなに冷蔵庫を開け閉めしていた私だが、ちっとも気づかなかった。視野狭窄も進んでいるのだろうか?

  嫌味のない良いとこどりの味
 そしてそれを飲んでみると、そりゃけっこう甘いが、それまで私が抱いていた甘酒の概念がガラガラと崩れてしまった。

 うまい!

 あの独特のクセ、嫌味がない。

 まじでうまい!

 子どものころ家で飲まされていた甘酒は酒粕から作ったものだった。
 私が甘酒を苦手にしていたのは、酒粕のせいだったのだ(ちなみに、米麹製のものはアルコール分を含んでいないが、酒粕製は若干アルコールを含む)。

IbertSado イベール(Jacques Ibert 1890-1962 フランス)の「バッカナール(Bacchanale)」(1956)。

 バッカナールは古代ギリシアの酒の神バッコスをまつる祭りのこと。
 イベールのこの曲は、野蛮ともいえる、飲んだくれたちの騒ぎのよう。
 甘酒じゃ、もちろんこうはならない。

 佐渡裕/ラムルー管弦楽団の演奏を。

 1996年録音。ナクソス。

  おいしい習慣だから続けられそう
 名古屋に戻ってスーパーに行ってみると、同じ『国菊甘酒 900ml』が売っていた。
 それからというもの、毎日少しずつではあるが甘酒を飲んでいる。

 なんせ『飲む点滴』なのだ。
 どうしましょ、血液検査の数値がことごとく劇的改善してしまったら……

 あっ!
 勘違いしてるでしょ?

 今回、私が血液検査を受けたのは「あぐり王国」を観た前の日のこと。
 それまでは何十年にもわたり甘酒をまったく口にしたことはなかった。
 つまり、ヘモグロビンA1cの好成績は甘酒とは関係ない。

 だからこそ、この次はもしかするともしかするぐらいの効果があらわれる可能性を秘めているのである。

格&格の迫力♪黛/曼荼羅交響曲

Mandara  安易な着想です
 黛敏郎(Mayuzumi,Toshiro 1929-97 神奈川)の「曼荼羅(まんだら)交響曲」(1960)。

  この曲は過去、ここで取り上げているが、今日取り上げたのは、街で見かけた看板にインスピレーションを得たから。

 って、なにがインスピレーションだか。ただ、思い浮かんだだけだ。

 作品については、その過去記事をご参照いただきたい。

MayuzumiMandara  痛いものなんですか?
 ところで、私はこういう店に世話になったことがないのでさっぱりわからないが、本格骨格調整となると、なんだかひどくいじめられそうな気がする。

 『格』の文字による二重攻撃を目にしただけで骨がキシキシ痛むほどだ。

 そしてまた、美容整体っていうのはどういうものなのだろう?
 姿勢がよくなるのだろうか?

 で、なぜ『まんだら』なんだろう?

 「曼荼羅交響曲」は岩城宏之/NHK交響楽団の演奏で。

 1965年録音。DENON。

ゆく年、くる年、もういい歳♪LvB/Sym9

  髪も顔も乱れに乱れ……
 昨年12月。
 
 たまたまテレビを観ていたら、(言っちゃ悪いが)ひっどく見苦しいオバサンが映っていた。

FujiyoshiKaiken

 獲物を逃したイボイノシシのようだが、よく見るとそれは藤吉久美子だった。太川陽介の妻である。
 週刊文春に不倫疑惑を掲載され、涙なみだの釈明会見。私が目にしたのはそれだった。

  特別演奏会の独特な雰囲気
 学生の頃は、毎年12月になると恒例行事のように札響の「第九」演奏会に行っていた。
 大晦日あたりに放映されるN響の第九も欠かさず観ていた(紅白の結果も見届け、「ゆく年くる年」がおごそかに始まるころに寝ていた。若いころの方が、私は爺くさい風習を大切にしていたようだ)。

 ところで「第九」の場合、定期演奏会とは客層が多少異なる。だから雰囲気もどこか違う。
 ふだんはコンサートに足を運ばないが、年に1度の年末の「第九」は聴きたい。そういう人もいるだろう。

 だが、単に世の中の風潮に乗って来ている人もいるようだ。
 あるいは合唱で出演する人の知人・友人も少なからずいる。

 それが悪いなんて全然言わない。客が入ることはオーケストラにとってもありがたいことだ。
 聴く方にとっても、スカスカのホールで「歓び」を感じることはできない。

 けど、なかには音楽を聴くのが目的じゃないのが強く伝わってくるような人もいて、どちらかというと私は「第九」の会場の雰囲気は好きではなかった。

  あ、あ、あなたをいただきたい……
 それはそうと、「札響感動史」を書くに当たって過去のプログラムノーツを見ていたら、「第九」のものも何冊か出てきた。

 そのなかの、1986年12月19日に行なわれた「第九の夕べ」(ちなみに指揮は山田一雄)。
 プログラムノーツの裏表紙の広告に写っているのは藤吉久美子。

19861219DaikuFujiyoshib

 いやぁ、なんて清楚でかわいいのだろう!(ちょいと時代を感じさせはするが)
 若いころの藤吉久美子は、本当にかわいかった。
 なのにすっかり歳をとってしまった。

 いや、これまでだって、太ったりはしたが上品さとかわいらしさを残していた。
 が、あの顔はひどすぎる。

 この号泣おばさんを目にしたとき、「これが藤吉久美子?」ってもんで、すぐには顔と名前を一致させられなかった。そもそも彼女、不倫なんてものとは無縁な感じだし。

 まぁ、真実はよくわからないし(彼女が言っていることは、でも、まったくもってウソくさい)、夫・太川陽介の『神対応』が讃えられもしたが、別な見方もあるようで……

BeethovenSymSolti ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱付き(Choral)」。

 中学、高校時代に私がもっぱら聴いていたのはショルティ/シカゴ交響楽団、同合唱団の演奏。
 ソリストはローレンガー(S)、ミントン(Ms)、タルヴェラ(T)、バローズ(Bs)。

 去年も取り上げたわけで、またまたでスマン。

 1972年録音。デッカ。

 このあいだ届いたスパムメールの中に、『NTR妻』という言葉があった。

 NTRってなんぞや?と思い、調べてみたら『寝取られ』のことなんだそうだ。

 ルイルイ陽介は(自分の妻が)寝取られるのが好きらしいなんてことがネットに書かれていたが、そんな人いるの?それって、ヘ・ン・タ・イじゃないの?

叔父は何も言ってないと申しております♪WAM/ノットゥルノK.436

MozartNotturniBrill  危険な道
 木曜日と金曜日は名古屋でも雪が降り、日中でも陽があまり当たらないところはアイスバーンのままだった。

 まっ、北海道人からしてみればホントに冬のはじめのチョロ降りのようなものなのだが、けど夏靴、夏タイヤだとこんなものなんて言ってられない。
 大いに危険である。

 そんななか、私は千葉課長や古代課長たちと、かなり体育会系のトップが経営するある取引先に行った。

 そこに行く途中、道路がアイスバーンのところがあり、自転車に乗っていた20歳過ぎくらいの男性がスリップ、転倒した。

 私たちはそれぞれの頭のなかで、気の毒にとか危ないなとか思った(んだろう)が、声を発するとか嘲笑するなんてことはもちろんしなかった。

  危険な男
 ところがである。
 その後私たちが取引先のビルへと歩いていると、後ろからその男が自転車に乗って私たちの方にやって来て、こちらをにらみ、そして私に向かってぼそっと言った。

 「おまえの親戚に言われる筋合いなんてないんだョっ!」

 意味不明だ。
 私の周りに、亡くなって久しい叔父や叔母が降りて来てるのかと思ってしまった。

 そもそもなんで私に向かって言うのか?千葉課長に向かって言えばいいではないか!
 あいつは、私がこう見えても、毒物劇物取扱責任者の資格を持っていることを知らないらしい。

 その男は方向転換して去った。

 だが、それで終わらなかった。

 再び後方から自転車に乗ってゆっくりとやって来て、追い抜きざまに「▽#@◆&Д§」と、よく聞き取れなかったが明らかに敵意をもった表情で、ぼそっとこう言って去った。

 またも私に向かってだ。古代課長に言えばいいのに、なぜ私なのか不思議だ。
 あいつは、私がこう見えても、管理職なのを知らないらしい。

 取引先のビルの前に着いたとき、またあの不気味で変なやつが来たら、体育会軍団に応援を頼みボコボコにしてもらおうと思ったが、3度目の接近はなかった。

 にしても、あれ、自分1人だったら相当不気味。
 なんだかわからんが、怖い世の中だ。
 自分が転んだのに、どういう思考回路で、私たちのせいになるのだろう?

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のノットゥルノ「いまや恐ろしい時が来た(Ecco quel fiero istante)」K.436(1787?)。

 2人のソプラノとバスの三重唱曲で、器楽は3本のバセットホルン。
 歌詞はP.メタスタージオによる。

 私が持っているCDは、2ソプラノとバスではなくソプラノとアルトとバス、また3バセットホルンではなく2クラリネットとバセットホルンという組み合わせのもの。

 ソプラノはVries、アルトがSholte、バスがRamselaar。クラリネットはGraafとRijsewijk、バセットホルンはJansen。

 2001年録音。ブリリアントクラシックス。

特選盤?そりゃそうでしょう♪エリシュカ/SSOのブラ1

  充実極致のエリシュカ/SSOの記録
 今日はSOS(氷山係長はこれを「しばらく おやすみ しちゃうよ」の略と推理している)ではなくSSOの話。SAPPORO SYMPHONY ORCHESTRAである。

 でも、「感動史」ではない。

 『レコード芸術』の2月号の新譜月評。

 エリシュカ/札幌交響楽団による第597回定期演奏会(2017年3月10,11日)のライヴCDが取り上げられていた。

 演目は、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」シューベルトの交響曲第5番ブラームスの交響曲第1番

 これが、チャイ5に続き、またまた特選盤!

RECOGEI201802SSO

 もっともこれが特選盤(2人の評者がともに推薦)じゃなかったら、誰のどのフィンガルシュベゴブライチが特選になるんじゃいと文句の1つも言いたくなるわけで、想定通りもの。

 それでも、自分がすばらしいと感じた札響の演奏が専門家にも認められたことはうれしい。

  あのころは薄々だったんです
 シュヴァルツ時代のプログラムはドイツ物が中心。

 私が札響を聴き始めた1970年代は、しかし、ドイツ物をやるには札響の響きはおよび腰ではないが弱腰。いやいや、つまり響きに厚みがなさすぎた。

 それがいまや、ブラームスの1番で特選をもらえるほどになったとは、札響当事者じゃないにもかかわらず、私は感慨無量である。

 シュヴァルツのあとを継いだ岩城が、ドイツ物に偏った札響のレパートリーを一挙に拡大した、その功績がいまの結果的にドイツ物の充実にもつながっているのだろう。

Brahms1EliskaSSO

 

憩ったあとに焼きそば。でも健康になれるパラダイス♪ブロッホ/ソロモン

20171202Hazaemon   健康は毎日の運動から
 魅惑的な言葉をごちゃまぜにして訴えてくる店である。

 『健康一番』はわかるが、その下に『毎日の運動』。
 それが何に関連付けられているかというと、実は看板のいちばん上に書かれた『歌って踊って』である。

 うっかりすると、同じ毛筆体文字の『歌って踊って健康一番』で完結していると考えがちだが、実は『歌って踊って』は下の丸ゴシック体の『毎日の健康』にもかかっているわけだ。秘技・二重目的格である。
 さりげなく『一曲100円』とダブル攻撃しているところも見逃せない。

  同じ数がダブル。人はそれをゾロ目と言う
 さらに店主がダブル好きだろうということがにじみ出ているのがゾロ目。
 「ゾロ目出たら1曲サービス」ってやつだ。いったい何のゾロ目なのかはっきり書かれていないところが、また客の好奇心をいやがおうにも高めている。

 『憩いの場』に目を奪われているうちに、かんじんの健康のことが頭から抜けてしまいがちだ。
 そこで印象を決定的にするのが『健康道場』である。

 憩えるが、あくまで目的は健康。
 足腰を無理なく鍛えるために立ち飲みにしているところも、もちろん計算ずくだろう。

 ところでここには謎の食べ物が書かれている。

 ドラえもんやホリエモンのことは知っている。南大門は帯広の焼肉屋だし、赤門は(ホリエモンとも関連する)大樹町にあるラーメン屋だ。
 だが、ハザエモンって何だ?何者だ?

 500円ってリーズナブルだけど……

MorkCello  ソロモンはユダヤの象徴
 ブロッホ(Ernest Bloch 1880-1959 スイス→アメリカ)の「ヘブライ狂詩曲『ソロモン』(Rhapsodie hebraique 'Schelomo')」(1915-16)。
 独奏チェロとオーケストラのための作品。

 ソロモンは古代ユダヤ王国の最盛の時代の王。ヘブライ語の発音に従って綴るとソロモンの名はシェロモとなる。そのためこの曲も「シェロモ」と呼ばれることもある。

 ブロッホはユダヤ民族主義の作曲家。
 この曲は彼の主義を強く示したもので、「ソロモン」をユダヤの象徴として音楽にした。つまり標題音楽ではない。

 モルクのチェロ、P.ヤルヴィ/フランス国立放送フィルの演奏を。

 2003年録音。エラート。

 ところで、この店の写真を撮ったのは土曜日の朝。
 当然ひと気はない。入口は籐細工的板と金網によるバリケードされている。

 だが、のれんはかかっているし、営業中の札も。

 そのずぼらさがちょいと気にかかる……

空虚で無駄ではなく、孤独と思われぬよう努める時間♪グラス/SQ2

20180120SOS  座りはしないが壁の人にはなる私
 岩城宏之の「棒ふりの休日」(文春文庫)。このエッセイ集のなかの「パーティ狂騒曲」。

 日本の人間は、世界に冠たるパーティ下手、またはパーティおんちであって、みんながみんな無愛想な顔をして、会場の壁にへばりついて立っている。運良く椅子が置いてあれば、ペタリと座りこんで、中央には大きな空間ができ、シラケのかたまりみたいな真ん中のテーブルに、どこに行っても同じような伊勢えびとかローストビーフが並んでいて、取りに行く気はさらさらなく、パーティには何の関係もないような銀座のオネエチャンたちが着物でシャナリシャナリやって来て、うすい水割りを渡してくれる。
 しばらくの間、こちらも壁の花になっていて、誰かの長いスピーチの間に、戸口近くの人に、さも用事があるような意味ありげなすり足を見せ、そのままスルリと逃げてくれば、もう自由の身なのだ。
 このような日本的典型のパーティは、実はパーティとは言い難く、あれは何だろう。セレモニーの一種ではあるのだが。……


  みな場馴れしているように見えるが……
 実は昨日、ある大きな取引先の懇親会があった。
 こういう場はもちろん初めてではないが、何十年経っても私も苦手だ。
 あるいは参加している人たちも、ごく一部の人を除き、苦手だと思う。

 それでもこの取引先の方々はけっこう気さくでパーティーの席でもけっこう長く話し相手になってくれる。

 が、よくわからない取引先の場合は、ほとんど孤立状態。
 まずは先方のお偉いさんたちに挨拶する列に並び、ようやく自分の番が来て、かといってこれといった気の利いたことを言えるわけでもなく、「今後ともよろしくお願いします」とかなんとか会話した後は、再び私は常連さんばかりの焼き鳥屋(それも巨大な)に迷い込んだような気分になるのである。
 もう誰にもSOSすら発信できない。
 でも、それはきっと他の人も大なり小なり一緒なのだろう。

  飲み食いに徹するすごい人もいる
 すごいと思うのは、そんな取引先との挨拶なんて関係ないとばかり、黙々飲み、食べ続ける人がこういう場に必ずいることである。
 会費を払っているのだから全然かまわないが、私なんて食欲もわきません。小心者でスイマセン。
 でも、なんであんなにがっついてんだろ?ふだん、ちゃんと食べてないのか?1人でローストビーフと寿司を大量に持っていくな!まっ、小心+(こういう場では)小食だから、私は構わないけど。

 昨日の場合は、さらに伏草課長や開元さんなど、わが社の参加メンバーが私1人でなかったのが大いなる救いであった。
 でもこうなると、おのずと自分たちだけが寄り添いあう。
 となるとなんだか意味があるのかどうかわからなくなるが、そんな中、1人でポツンとしている人たち-あっちもこっちもポツンがたくさんだ-を見ると、痛いほど気持ちがわかる。僕たち、幸せそうにしててごめんね。

GlassSQNAXOS グラス(Philip Glass 1937-  アメリカ)の弦楽四重奏曲第2番仲間(Company)」(1983)。

 立食パーティーの悲哀を描いているのではもちろんなく、S.ベケットの小説「仲間」を描いたものである。

 カードゥッチ弦楽四重奏団の演奏で。

 2008年録音。ナクソス。

 しかし、冬休み長くないか?
 SOSって、何かのメッセージか?

 そもそもここ、何の店なんだろう?

私の札響感動史(19)♪日比谷の翌年、札幌でも鳴り響いたゴジラ

   道新の粋な企画
 さて、この2つの定期の前の84年6月に、北海道新聞社などの主催による、ある特別演奏会を札響は行なっている。

 指揮は石井眞木(そのときの表記は石井真木)。
 司会は伊武雅刀と、ぜいたくにもおしりを洗って欲しがっていた戸川純。さらにゲストは井上誠。

 司会にゲスト?

 そうなのである。
 『シンフォニック・ファンタジア」。

19840618SF1

 伊福部昭の交響ファンタジー3曲と「ロンド・イン・ブーレスク」。前年、日比谷公会堂で行なわれた『伊福部昭 SF特撮映画音楽の夕べ』が札幌でも実現したのだ。

 北海道新聞社とそのグループによる主催だが、開催に当たっての企画・制作は勇崎企画。

 伊福部ファンならピンと来ただろうが、伊福部昭夫人の旧姓は勇崎。その勇崎家の人々(関係までは知らない)が運営している会社がプロモートした(当日のプログラムノーツに広告も出稿している)。

19840618SF3b

 第1部は東宝特撮映画ハイライトシーン(予告編)メドレー上映と、司会とゲストによるトークタイム。テーマは『ぼくたちは、なぜ、伊福部音楽にこだわるのだろう』。
 で、なぜだったかのか話し合いの結果は覚えてない。

19840618SF2

  大喝采ってわけではなかったのは客層のズレ?
 メドレー上映も魅力的だが、な、な、なんといっても、純然たる伊福部音楽のファンである私のお目当ては4曲の生演奏を聴くこと(伊武雅刀や戸川純見たさに来ている人も多かったのではないかと思われる)。

 石井眞木といえば、まったくもって『第1部』になかなか縁のない私だが、このときは第1部なんてなくてもいいのにと思ったものだ。

 もちろん演奏-いやこの曲が生で響いていること-が、私を興奮と陶酔のブラジャー丼状態にしたのは言うまでもない(ただ、札響の演奏が良くなければ、いくら生演奏だからとはいえ、そうはならない)。

IfukubeCyu 幸せな一夜だった。

 この4曲(SF交響ファンタジー第1~3番と「ロンド・イン・ブーレスク」)の録音は、広上淳一/日本フィルハーモニー交響楽団がある(1995録音。ファイアバード)。

 また、この広上の演奏を含む限定販売BOXには、汐澤安彦指揮による初演時ライヴのディスクも収録されている(はずだ)。

 以上、本日の札響の定期ではなく特別演奏会の感動話を終えることとする。


旧い息子と新しい父。あるいは和装でPC操作の話♪WAM/K.45a

MozartHarnoncourtEarlySyms  父と子で新旧
 モーツァルトには「ランバッハ」という呼ばれる交響曲が2つある。

 1つは「旧ランバッハ(Alte Lambacher)」、そしてもう1曲は「新ランバッハ(Neue Lambacher)」。

 「ふむふむ。ランバッハってなんのことか知らないけど、先に書かれたものと、それより後になって書かれたものがあるってことね」と思いがちだが、ちと違う(どうでもいいが、私のこれまでの人生で、実際に「ふむふむ」と言う人に出会ったことはない)。

 モーツァルトはモーツァルトでも、父と子の2人のモーツァルトがそれぞれ書いた交響曲。それが2つの「ランバッハ」交響曲である。

 ランバッハというのは北オーストリアにある村の名前だそうで、モーツァルト一家は旅の途中でこの村の修道院に立ち寄り宿泊した。1767年10月のことである。

MozartReisen あっ、この地図にはランバッハは載ってません。まぎらわしいことしでかして、すいません。
 ランバッハ村はザルツブルクから80kmほどのところにあるっていうことです。

 このときにレオポルトとヴォルフガングのモーツァルト父子は、お礼としてこの修道院にそれぞれの自作の交響曲の写譜(つまり、すでに出来上がっていた曲の楽譜)を贈ったと考えられている。
 
  旧の方に息子の署名あり
 20世紀に入り修道院からこの2曲の楽譜が発見された。

 「旧ランバッハ」の楽譜の表紙にはヴォルフガング(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の名前が記されており、とすれば当然「新」の方は父親であるレオポルト(Leopold Mozart 1719-87 オーストリア)の作に間違いないということになった。
 なお「旧」と「新」がつけられたのは、発見された順だという。

 そして、A.アインシュタイン(モーツァルト研究家のアルフレートで、ベロを出しているアルベルトではない)は「旧ランバッハ」にK6.45aという番号を付与した。

 一件落着、めでたしめでたし、である。

 と思いきや、これに異論を唱えた女性がいた。

  アンナさんのコペルニクス的転回
 1964年にアンナさん(アンナ・アマリエ・アーベルト)という人が、「いや、違うのよ!『新』の方が息子の作なの。何があったのか知らないけどきっと写譜屋が間違えて表紙を入れ替えてしまったのよ!」という説を唱えた。

 もちろん思いつきで叫んだのではない。
 彼女は作風や構成を入念に調べ、この結論に到達したのであった。

 そして、これを受け「新ランバッハ」がヴォルフガングの作、「旧ランバッハ」が父レオポルトの作と、2つの交響曲の作曲者はそれまでとはまったく逆に位置づけられるようになった。 
 
 が、2度あることは3度ある。

 音楽学者でモーツァルト研究の第一人者とされるN.ザスローが、「やっぱり『旧ランバッハ』がヴォルフガングの作品である」と提唱したのだ。

 その根拠はウィキペディアなどをご覧いただきたいが、「新」と「旧」は再び元に戻ったのである。

 「旧」の方が「新」よりも魅力に劣るという思いは私にもあるが、そのことも「旧」は神童ではなく、才能は息子よりも劣る父親の作品であるというアーベルト説に説得力を添えたのだろう。。
 だが、父にだって万人に受け入れられている「おもちゃの交響曲」という、硬いこと言わずに聴いてみなしゃんせってな傑作もあるのだ(もっとも、この曲の原曲は現在ではアンゲラーの作とされているが)。

 ということで、W.A.モーツァルトの交響曲ト長調K.Anh.221(K6.45a)旧ランバッハ」(1766)と、L.モーツァルトのシンフォニア ト長調新ランバッハ交響曲」(1766)。

 「旧ランバッハ」の方は、今日のところはアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏を。

 1999-2000年録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

 「新ランバッハ」の方は、私は1枚しかCDを持っていないので、そのジークハルト/リンツ・ブルックナー管弦楽団の演奏(1997年録音。アルテノヴァ)をお薦めしたい、いやそれしかお薦めできない、お薦めせざるを得ないのだが、恐れていたとおり廃盤。

 このディスクに収められていた、息子の交響曲第25番はすごく良い演奏だったんだけどなぁ(←「新ランバッハ」じゃないのかい!)

  伝統と革新の教室での融合
 ところで、散歩中に見かけた看板。

20171202Kimono

 新と旧、技術と伝統のコラボって感じ(パソコンだってもう「新」じゃないが)。

 母と子でやってるのでしょうか?

 関係ないが、今日は大阪に出張してくる。

協力かつ代理なので名前も同じ?♪ラヴェル/ラ・ヴァルス

MaMere  真剣に洒落だと思った純な頃
 ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「ラ・ヴァルス(La Valse)」(1919-20)。

 ここでも「ダジャレみたい」なんて書いてしまったが(作品についてもこの記事をご覧いただきたい)、私がこの作品名を初めて目にしたときには、「ラヴェルの『ラ・ヴァルス』って、もしかして作曲者の音による自画像かなんか?」と、真剣に思ったものだ。

 無知とは怖い。
 そのときには、ラははなっから何だかは知らないが、ヴァルスがワルツのことだなんてちっとも知らなかったのだ。

 なになに?「La Valse っていう綴りをみれば Ravel とは全然違うって気が付くだろ」って?
 FM放送のエアチェックじゃ、そんなことわかるわけないんでしたのよ!

 まっ、とにかく「ラ・ヴァルス」ってのはラヴェルの名前とはまったく関係ないってことだ。

  バトンテクニックのほかに姑息なテクも
 今日はこの曲を『音の魔術師』の異名を持つデュトワの指揮で(ちなみに、ラヴェルは『管弦楽の魔術師』と言われる)。

 あるときは車の中で、またあるときは控え室などでエロエロしてきたと、セクハラ疑惑が昨年末に沸き起こったデュトワ。
 『舞台裏のエロ師』として、すっかりイメージダウン。

 『エロ爺につき、氏の録音は販売禁止となります』ってことにはならないと思うが、念のために早めに聴いておいた方がいいかも。別にどうでもいいって?あっ、そっ!

 オーケストラはモントリオール交響楽団。

 1981年録音。デッカ。

  風船おじさんはどこに行ってしまったんだろう?
 こんなお店を発見!

20180108e

 世古とセコムは、ラヴェルとラ・ヴァルス同様まったく関係ないのか?
 それとも奥深い事情、狙いなどがあるのか?

 いくら考えても謎は解決しない。

 ただ、1つ言いたいことがある。

 風船を持って浮いているクマかなんだかわからない獣。
 2個ぐらいで浮くわけない、なんて野暮なことは言わない。
 けど、風船のひもがたるんでいるのはおかしくないか?

 ごめんね、おっさんはうるさくて……

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