新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2017/11

久々にうまい豚の竜田揚げ、を完食できず♪メシアン/トゥーランガリラsym

Messiaen  そのまま食べたいくらいの完成度
 先週の月曜日は振替休をいただいたわけだが、昼はスープカレーのCHUTTA江別店に行った。

 妻はこれ以外注文したことがない“チュッタチキン ライスオン”。
 私はたまには別なものをと、妻の勧めにそむき、“豚竜田 ライスオン”を注文した。

 この豚の竜田揚げが実にうまい!大当たりだ!
 これだけでもご飯のおかずにぴったり。酒の肴にばっちり。
 だが、すっごくおいしいのだが、ばら肉を使っているので1枚1枚の半分が脂。
 これは筋力と粘液が不足しているわが胃壁にはかなりこたえる。
 結局脂身部分はほとんど食べなかったが、食べなかった量は全体の半分に及んだ(1枚ごとの積算と計算は合う)。
 そしてまた、私はスープカレーよりもルゥカレーの方が好きである。

  年賀状の内容にちょっぴり偽りあり
 火曜日の夕方に屈辱的な転倒をしたのは報告したとおり。

 ようやく美しいカーブを描く色白のわがおケツから痛みが消えつつある。
 だが、これから出す年賀状には『臀部がまだ痛む』と書いてしまった。痛いときに文を考えたのだからしょうがない。って、実はまだ印刷はかけていないのだが、直すのがおっくうだし、臀部が痛いという方が新年早々気にかけてもらえそうだからそのままにしておくことにした。

  星がたくさん
 この週はスバルにも行ってきた。

 地球から443光年離れたM45ことプレアデス星団に行けるわけがなく(行けたとしても瞬時にわが身は燃え尽きてしまうだろう)、SUBARUである。

 目的はオイル交換だったが、ついでにずっと放置していた(というよりも、行く機会が作れなかった)助手席のエアバッグのリコール対象の作業もしてもらった。

 このリコールについて最初にDMを受け取ったときの内容は、代替のエアバッグがまだ準備できていないため現在装備されている問題のあるエアバッグの機能を停止させるというものだった。そのあと(この時点でめどは立っていなかったが)代替品が準備でき次第、新しいエアバッグに交換するのである。

 DMが届いたあのとき、自宅にいる間に済ませなくてはとすぐに電話したが、すでに予約がマンパイで断念せざるを得なかった。

 そして、今回。
 予想通りすでに落ち着いていて(ウチの車には関係ないが、検査がらみの別なリコールで大変だろうが)、オイル交換のついでに機能を停止させてもらえることになった。

 すでに順次新しいエアバッグと交換しているという。だから、私はそのまま新しいものに交換してくれるのではと淡い期待を抱いたが、先に機能停止処置をした人から順に交換しているそうで、淡い期待は濃くならなかった。私だって横入りのようなことはしたくない。喜んで、今さらながら問題あるエアバッグの息の根を止めるという作業だけでがまんすることにした。

 作業を待っている間、ショールームの女性がコーヒーを持ってきてくれた。

201711SUBARU1 おぉ!カップもソーサーもSUBARU!なんだかカッコいい。
 そして何より、このスプーン!
 欲しい……(洗いにくそうだけど)。
 でも、自宅じゃ使わないな、やっぱり……

 メシアン(Olivier Messiaen 1908-92 フランス)の「トゥーランガリラ交響曲(Turangalila-symphonie)」(1946-48)。

 ここで書いているように、全10楽章の長大な-といってもCD1枚に収まるが-作品。

 このなかでもダントツで私が好きなのは第5楽章「星の血の喜び(Joie du sang des etoiles)」。

 チョン・ミュンフン/パリ・バスティーユ管弦楽団、Y.ロリオのピアノ、J.ロリオのオンド・マルトゥノの演奏が、私はいちばん好きだ。
 演奏も録音も文句のつけようがない。

 1990年録音。グラモフォン。

  果たして妻は変化に気づくだろうか?
 作業は30分ほどで終わった。サービスで洗車もしてくれたが、朝方に降った雪がちょうど解け始めていて、家に着くころには洗車前よりも汚れてしまう始末。

201711SUBARU2 そしてまた途中運転しているときには気づかなかったが、帰着して降りようとすると左上の方にいままでになかった黄色いものがあるのが視野に入ってきた。

 巨大なハチではなかった。
 ご丁寧にもこんなシールが張られていたのだ。

 妻にこのことを教えるのを忘れたが、果たしてこのシールに気づくだろうか。

  で、竜田揚げの思い出
 豚の竜田揚げは、実は私の隠れた好物である。

 大学生のとき、学食では日替わりのA定食(300円)のメニューに豚の竜田揚げがしばしば登場した。

 ある日、昼食はゼミ室で弁当を食べたのだが、2時くらいに帰るときに学食に立ち寄るとその日のA定食は豚肉の竜田揚げ。
 おなかはそこそこいっぱいだったが、この日を逃すと次に出会えるのはいつになるかわからない。
 私は貪欲な豚になった気分で豚の竜田揚げを頼んだ。

 竜田揚げの味は私を満足させるものだったが-いまあれを食べてみたら、きっとそうたいした味のもんじゃないと思うが-非常に苦しい思いをして食べた。

 そのあと、帰りの地下鉄の中で吐きそうになった。
 なんとか持ちこたえたが……

 だから豚の竜田揚げは好きなんだけど、そのつらさがよみがえるので、“隠れた”好物の位置づけなのである。

漂白剤?たまに酸素系のを使いますけど……♪シルヴェストロフ/PS

20171124DoshinSilve  “ 悠然と漂泊”なんて思いもつかない
 11月24日の北海道新聞朝刊に、音楽評論家の青澤隆明氏が、9日に武蔵野市民文化会館で行なわれた《シルヴェストロフ80歳記念ガラ・コンサート》について書いていた。

 氏はこう書いている。

 シルヴェストロフの音楽の時空はきわめて独特だ。広漠たる静寂から枝分かれするように響きが紡がれ、口ずさめる旋律を浮かべながら、悠然と漂泊していく。-(中略)-曲そのものが遠大な記憶の流れのようで、新しく想起されるたびに、過去も未来もなく、生まれたての郷愁とでもいうべき不思議な親密さを運ぶ。このたび演奏された「ポストリュード」、「ポスト・スクリプトゥム」、「モーメンツ・オヴ・メモリーⅡ」などの題名も示すとおり、音楽の記憶と想起が主題をなす。……

 まさにシルヴェストロフの音楽の特徴をズバリ言い表している文章だ。
 こういう文を自分も書けたらなぁ……
 そう思うと、なんだか悲しくなっちゃう……

 この日のがらコンサートは3時間にわたったそうだが、青澤氏は“その音楽は慣例的な時空を逸脱しているから、悠久とも一瞬とも言える”と書いている。

 これまた上手い!
 私だったら、「長ったらしいと感じたが、終わってみるとあっという間だった」ってな書き方にしかならない。

Silvestrov  じゃあ浮いてみろよ!って自分を突っ込みたくなる
 そのシルヴェストロフ(Valentin Silvestrov 1937-  ロシア)のヴァイオリンとピアノのためのソナタ「ポスト・スクリプトゥム(Post scriptum)」(1990/91)。

 どんな音楽かって?
 上で紹介した文に書かれている通りの音楽です。

 以前シルヴェストロフを取り上げた記事で、じゃあ私は彼の曲についてどう書いているのか?

 とにかくフワフワとした音楽。浮遊感絶頂!

 あぁ、情けなっ!やれやれ。

 私が聴いているのは、クレーメルのヴァイオリン、サハロフのピアノによる演奏(1995年録音。apex(原盤:TELDEC))。

 だが、このディスクは廃盤となっているので、ここではトロスティナンスキのヴァイオリン、ガラ・コンサートにも出演したというリュビモフのピアノによる演奏を(私は未聴)。2005年録音。ECM。

「クラシック迷宮図書館 片山杜秀の本(3)」の《序にかえて 音楽は読むことと見つけたり》の冒頭で、片山氏はこう書いている。

 音楽は音でしか語れないから音楽で、言葉でうんぬんしてもしょせんは隔靴掻痒(かつかそうよう)だ。しかし、では音楽は音だけでわかるかというと、そうでもない。音楽を作る音の言語もいろいろで、なかには聴き方を言語で説明しないとチンプンカンプンというのもある。また、音楽に意味をみいだそうとすれば、そこに言葉が生まれる。だからやはり音楽には、どうしても一歩か半歩遅れて言葉がついてまわる。……

 まったくそのとおりだと思う。

 でも、片山センセ。なぜ私は、感想においてさえ気の利いた言葉を用いることがずっとずっとできないままなんでしょうか?

 ガラ・コンサートの評が新聞に載っていた24日は、いろいろ報告すべきできごとがあった。
 それについてはまた日をあらためて。

冬初めてのカッコウをして♪ディーリアス/春初めてのカッコウを聞いて

DeliusCookoo  マチナカとは思えない危険な街中
 先週のある日の夕方。

 私はある用事があって、その会場へと向かうところだった。
 場所は“東京ドームホテル札幌”の近くである。

 先々週末に名古屋から札幌へ移動。
 もちろん冬道対応の底の靴を履いて来たが、まだこの時季。昨シーズンにも履いた靴でも大丈夫だろうと、スリップサインが出てきそうなくらいに底のギザギザが減ったのをあえて選んで旅に出た私。というのも、ひどくギザギザしたものは、名古屋ではミスマッチだし、せっかくの新品の底も減りそうだからだ。

 ところがすでに報告したとおり、日曜日になると、あらまあ、外はすっかり冬。
 月曜、火曜とで積もった雪は減っていったが、札幌市内の歩道はロードヒーティングがあるところ以外はガチガチの氷道になったままだったのである。

 西4丁目で地下から地上へ。
 4プラ前の出口である。
 こんなマチナカなのに歩道のあちこちは手入れが行き届いていないスケートリンクのようだ。
 豆まきのように砂をまきながら歩きたいくらいだ。

 この靴では危ない!いや、新品の靴でも要警戒なほどだ。
 私は応急的な滑り止めを買って装着することを決意した。

Suberidome  「厳粛に、葬列の歩みのようにゆっくりと」みたいな
 東急ハンズまで、私は異様な遅さの歩みで歩いた。
 こんなに注意して歩いたのは、生まれて初めて立ち上がったとき以来じゃないだろうか。
 そのおかげで東急ハンズまではなんとか無事にたどり着いた。

 どの滑り止めにしようか?
 とりあえずは今日をしのげればいいわけで、あんまり高価なものを買うのも馬鹿らしい。
 金属製スパイクが仕込まれたものにだいぶ心動かされたが、それまた仰々しいかなと思いとどまり、結局ゴム製のものにした。800円くらいだったろうか。

 このゴムスパイクを装着して歩くと、う~ん、なんだか不思議な感触。
 だがそんなことを味わっている場合ではない。
 私は目的地へ向かった。《ゆっくりと、しかし先ほどよりやや速く、慎重さを失わないで着実に》と、マーラーが自作の交響曲スコアに書き込んだ速度指示のように。

  伊藤みどり顔負けのスッテンコロリン
 西に進むほど、氷は厚くツルツル度も増してゆく。でも、あとほんの少しで到着だ。
 そのときである。後ろからカッカッカッとなかなか軽快な足音が。
 気をとられたその直後、私は悪魔に足をすくわれたように氷上に横たわっていた。

 臀部(でんぶ)をしこたま打った。

 横たわったまま呆然としているわが姿は、金満色欲おやじに押し倒され斜め寝姿勢になった若き芸子のよう。
 買ったばかりの滑り止めは効かず、私は早くもこの冬初めての滑降をしてしまったのだった(平地だけど)。

 そしてまた、その直後に「あっ、MUUSAN!大丈夫ですか?」と叫ぶ声。
 頭を打つことは回避したと思ったが、幻聴が起こるとはやはり頭にもダメージを受けたのか?

 かと、思いきやその声は同じ目的地に向かう三奏さんだった。
 彼は偶然にもこの氷上パフォーマンスを至近距離から目にすることができたのだが、私を案ずるこの声が逆に、“あっ、いま崩れ落ちたのはMUUSANという名の人なのだ”と、辺りにいた数人の札幌市民に知らしめてしまった。

 そしてまた、私を“煽った”人物は、そのままいなくなってしまった(って、彼には何の罪もない。ただ私の後ろを歩いていただけだ。むしろ私の転倒に巻き込まなくてよかった)。
 滑り止めがいくらだったか記憶からぶっとでしまったのも、瞬倒のショックのせいだ。

  春が待ち遠しいという意味も込めて
 ディーリアス(Frederick Dekius 1862-1934 イギリス)の「春初めてのカッコウを聞いて(On hearing the first cuckoo in spring)」(1911)。「小管弦楽のための2つの小品(2 pieces for small orchestra)」(1911-12)の第1曲である。

 これから本格的な冬が到来ってときにこういう曲を取り上げるなんて、真夏でもよれよれのコートを着込んでいる浮浪者なみに季節感がないが、そこは話の流れによるものだから許していただきたい。

 この曲はこれまでも何度も何度も取り上げている(ここなどのように)。
 それぐらい好きな曲なのだ。高級饅頭のようなしっとり感がたまらない。

 「あぁ、春の到来だ!」と叫びたいところを、じっくりとその歓びを噛みしめているところがまたすばらしい。だからムンクの『叫び』が好きな人とは相容れないかもしれない。

 そしてまた、この曲の演奏ではやっぱりデル・マー/ボーンマス・シンフォニエッタが好きだ。

 1977年録音。シャンドス。

 余計な個人的考えだが、ウィキペディアでは「春初めてのカッコウを聴いて」と表記されている。
 だが、Listenではなくhearなので、「聴」ではなく「聞」の方が原意に近いように思っている。

 それにしても、まだ臀部が痛む。

入ったのは彼が先。でも見かけたのは僕が先♪オルフ/カルミナ・ブラーナ

Shisennenn  つまり、覚えてないってことでしょ?
 もう先々週のことだが、午後の昼下がり-午後が昼下がりなのは当たり前だ-に喫煙コーナーに行くと、節電のために光を与えられていない薄暗いその場所に先客がいた。
 千葉課長である。

 隠花植物のようにひっそりとたたずんでいた千葉課長は、私に向かってぼそっと言った。
 彼はいつだって陽気なテノール歌手のように、頭蓋骨を響かせて甲高いを発するようなことはないのだ。いや、私だってそうだ。

 「このあいだ、夕飯を食べるのにふと目についた中華料理店に入ったんです。すいてたけど、なかなかおいしかったですよ」

 すいてた、というのは、おなかがすいていたという意味ではなく、店は閑散としていたという意味である。たぶん。

 私は問う。「何を食べたの」
 「なんか……」

 この発言は、千葉課長が私に対して意地悪しているのではない。
 千葉課長が言いたかったのは、麻婆豆腐とか青椒肉絲とか回鍋肉とかの著名料理ではない、はっきり言えば料理名を覚えていないものを頼んだということだ。実際、「そこには定食がなくて、単品を頼んだんです」と言っていた。

 だから彼は、麻婆豆腐定食とか青椒肉絲定食とか回鍋肉定食とか干焼蝦仁定食とか、いざとなればクックドゥのラインナップを想像すれば思い出せるようなものではなく、一般的ではない“何かの料理”を頼んだというわけだ。だから答えは「なんか」なのだ。

 そんな会話をしているうちに、「その店に行ってみよう」ということになった。

 私たちはさらに牛坂課長を巻き込み、千葉課長の案内で地下鉄に乗り、その店を目指した。

 その店は、あそこだった!

  まさか行く機会に恵まれるとは!
 その店は、あそこだった!(って、しつこい)

P1180018 そう、私が“はじめてのおつかい”ばりにちょっと遠くにお散歩したときに見かけた店。
 サルが狂喜乱舞している店、その名も“四川園”であった。

 店に入る。

 先客はいない。誰も。
 サルもネコもいない。サルが餃子を運んでくれることをちょっぴり期待していたのに残念だ。
 壁にはいかにも中華料理店らしい地味という言葉とは対極にある絵が飾られている。

 いやがおうにも中華気分が高まる。
 私はいまにもニワトリを絞め殺しそうな、笑顔の坊やに笑い返し、そのあとビールを頼んだ。

 千葉課長の「なんか」の意味が分かった。
 メニューが実に豊富で、けっこう一般的ではないのだ。特に“今月のおすすめ”は、何とかと何とかの炒め物とか、あれとこれの四川風煮込みといったメニューで、確かに記憶に残しにくい。

 私だってその日食べた料理で覚えているのは、麻婆豆腐と汁なし担担麺、チャーハンだけだ。
 そしてまた、どの料理もおいしかった。特に、麻婆豆腐と汁なし担担麺はなかなか秀逸。なぜこのとき私は、ふだん頼まない“汁なし”にしたのだったろう?いろいろな意味で汁は好きなはずなのに。あっ、酒のつまみには汁のない方がいいと判断したのだろう。よく覚えてないけど。

OrffCarminaTakaseki  ええ、男なんです
 オルフ(Carl Orff 1895-1982 ドイツ)の「カルミナ・ブラーナ(Carmina Burana)」(1936)。

 この作品の第12曲「昔は湖に住まっていた」は、独唱テノールと男性合唱で歌われるが、昔は湖に住んでいたのに、いまや焼き鳥にされようとしているのを嘆く白鳥の歌。

 この曲を初めて、何も教えられず耳にしたら、テノールの声は女性が歌っていると思うんじゃないだろうか?それぐらい高音である。

 高橋淳が独唱テノールを務めた、札幌交響楽団の第520回定期の演奏ここここもご覧あれ)がすばらしい!
 全曲を通じても、数ある「カルミナ・ブラーナ」の録音のなかでもトップクラスの名演だと私は思っている。

 指揮は高関健、合唱は札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、HBC少年少女合唱団。
 独唱は、針生美智子(S)、高橋淳(T)、堀内康雄(Br)。

 2009年ライヴ録音。ALM。

 この店の豊富なメニュー。私たちは「こんどはまた別なメニューも頼んでみようね。汁も未体験だし」と将来を誓い合ったのであった。
 そしてまた、帰るときには、店の中はほぼ席がうまるほどお客さんが入っていた。実は人気店なのかもしれない。

あぁ、なんとなくサイエンス♪ブルックナー/Sym7

BrucknerBoxJochum  あなたは斜めってません

 世の中、いろんなことを研究している人がいるものである。


 夏ワナー夏ワナー夏ワナー夏ワナー
 夏ワナー夏ワナー夏ワナー夏ワナー


 もう冬になるというときに“夏”というのは季節感ゼロだが、それはともかく、これって『文字列傾斜錯視』というんだそうだ。
 文字が斜めって見えるでしょ?

 新井仁之、新井しのぶ両氏の作である。


 えっ、文字列が傾斜して見えない?

 斜めに見えなきゃおかしい。もちろん文字列はまっすぐだけど。

 あるいはあなた、相当頑固なあまのじゃくとか?


 こういうのもある。


 十一月同窓会十一月同窓会十一月同窓会十一月同窓会
 十一月同窓会十一月同窓会十一月同窓会十一月同窓会


 まさに今月のことだ。季節感回復ぅ~っ!

 これは図ではないが、若い女性と老婆の2通りに見える絵なんかを見たことがあると思う。これを錯視図というが、学問的には心理学の世界。
 う~ん、サイエンスだ。


  なにか科学的なものを感じません?

 ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第7番ホ長調WAB.107(1881-83)。

 ブルックナーといえば、その音楽はなかなか先に進まないというか、『365歩のマーチ』のように3歩進んで2歩下がるという進んでんだか進んでないんだかとってもじれったく、そしてまたそんなもんだから必然的に曲は長くなる。
 この、良く言えば「大河のような」音楽は、悪く言えば「上流と下流がわからない流れがよどんでいる川」のようでもあり、ブルックナー嫌いの人にとっては、ここが耐えがたいところ。

 そうではあるが、この第7番の第3楽章は、なんだか未来的、先進的、科学的。
 私にはまるで試験管の中で盛んに化学反応が起こっているようなイメージを抱いてしまう。「おっ、水素イオンが水酸イオンにとって換わられた」みたいな。
 ……すいません、想像力が豊か過ぎて。でも、サイエンスっぽさを感じるのだ、私は。

 あるいは、第3番ニ短調WAB.103(1872-73,第2稿76-77,第3稿88-89)の冒頭。
 キュルルル、キュルルル、キュルルルという開始は、なんだか宇宙的。

 宇宙をイメージする音楽といえば、私にとっては『ウルトラセブン』の主題歌なのだが、それとはまた違った高速で入り乱れる小惑星の姿をイメージしてしまう。小惑星が入り乱れているってことはないんだろうけど。

 もっとも、ブルックナーにとっては化学反応も宇宙も頭になんかなくって、大好きな少女-彼はロリコンだったという-のことでいつも頭がいっぱいだったのかもしれないけど。

 おっ、そう考えると7番の第3楽章や3番の終楽章は、キャピキャピした美少女のイメージと思えなくもない。


 ヨッフム/シュターツカペレ・ドレスデンの演奏を。


 第7番は1976年、第3番は1977年の録音。


 そうそう、大学生のときに教養科目の1つに私は心理学を選択していた。
 試験の前に出題予告があり、教授は新しい錯視図を着想し描いた者には満点をやるといっていた。

 で、ある奴が、当時新聞のテレビ番組欄の下の方にしょっちゅう載っていた蓄膿症の薬の広告の、鼻を境に顔が白と黒とで半々に塗り分けられた女の人のイラストをそのまま真似て描いたら、満点だった。

 新聞とってなかったのかね。あのセンセイ。


明日?予約入れてませんけど♪吉松/忘れっぽい天使

YoshimatsuForgetful  完璧なる時間計算
 先週のことである。

 9:30に予約を入れていた歯科に私が到着したのは9:23。
 仕事を抜け出して通院しているということの是非は別として-直接も間接にも関係ないが、政治家がしばしば使う「是々非々」って言葉は、ふつうの人は使わない。もっと一般的な言葉をお使いなさいと申し上げたい-絶妙に見事な到着時間である。

 9:31。「MUUSAN、どうぞ」と衛生士さんのお迎え。

 治療用椅子に座り、いろいろと処置を施され、最後に医師が言った。

 「今日はこのへんで。明日またお待ちしています」
 「明日?……ですか?」

 明日も来いということか?明日の仕事の予定はどうなっていたっけ?8MBぐらいまで記憶力が乏しくなっている私にとって、手帳が手元にないとこの医師と約束することはできない。

  えっ、では本日は?
 が、医師はたたみかけるように言う。

 「ええ、予約入ってますよね?」
 「えっ?」

 私は、そんなことは信じたくないが、口にしてみた。

 「ということは……」
 「ええ、今日は予約は入ってませんでした」

 なんてこった。

 私は予約していた“明日”を今日のことと思い、当たり前の権利のように受付し、呼ばれるのが当たり前のように待合室に鎮座し、治療してもらうのが当然というように口を開けたのだった。

  あとからジワジワと強くなる羞恥心
 だったら受付に診察券を出したときに「今日は予約は入ってませんよ」と優しく行ってほしかったものだ。たまたま予約の空きがあったのだろう。だから受付の彼女は何もおかしなところはございません。きちんと地球は自転していますとばかり、私の診察券を受け付けたのだ。

 が、最後の最後になってこのように真実を伝えられるのは、あなたが思うよりも私にとって恥ずかしいことだった。
 いままでこんなことなかったのに……

 そんなわけで2日連チャンで私は口の中をいじくってもらったのであった。

 吉松隆(Yoshimatsu,Takashi 1953-  東京)の「忘れっぽい天使(Forgetful Angel)」。

 ⅠからⅢ集まである。

 Ⅰはハーモニカとピアノのための作品で、1978年作曲(Op.6)。
 Ⅱはハーモニカとギターのために書かれており、1979年作曲(Op.8)。
 そしてⅢは、ハーモニカとアコーディオンのための作品で、1985年の作(Op.24)である。

 崎元譲のハーモニカ、白石光隆のピアノ、芳志戸幹雄のギター、御喜美江のアコーディオンで。

 録音はⅠが1998年、Ⅱが1985年、Ⅲが1986年ライヴ。

 カメラータ。

 つまり、天使だって忘れっぽくなるのだ。

 準天使とも言うべき私が忘れ、いや、勘違いしたって地球の公転に影響はない。

愛と憎しみ……反ハルキスト宣言の書♪ゼンフル/外出欲求妻

  読み込んだからゆえに突っ込めること
 11月12日の北海道新聞に載っていた書評。
 これは読んでみなきゃと思い、買った。

 平山瑞穂氏の「愛ゆえの反ハルキスト宣言」(皓星社)である。

HirayamaHarukist

 書評(東京報道 上田貴子さんによる)から内容を書くと、

 ・ 著者は「風の歌を聴け」をきっかけに文学に目覚めた。
 ・ そのなかでも村上春樹は別格だった。
 ・ しかし「雑音が気になって」憧れは続かなくなった。
 ・ 「雑音」の1つは「やれやれ」の多用。
 ・ 純真なようで性に奔放な主人公たちの振る舞いにもイライラする。
 ・ ほかにも、超現実的な妊娠、都合のいい“年上の人妻ガールフレンド”など、突っ込みどころを列挙。


  ハルキストなら誹謗なんてしないはず
 著者は「序にかえて-村上春樹と僕」で、こう書いている。

 結局僕は、村上春樹という作家から離れられないさだめのもとにあるようだ。そのときどきのやむをえない事情はあれど、窮極には「無視できない」のひとことに尽きるのだろう。ただ単に嫌いなだけなら、あるいはなんら評価していないのなら、無視していればいいだけの話だ。実際、そういう形で一顧だにせずに見過ごしている作家だって(誰とは言わないが)何人もいる。作品がどれだけ売れていようが関係ない。肯定的に評価できる点が何もなければ、僕にとってその作家は存在しないのも同じだからだ。
 村上春樹については、そうはいかない。どれだけ無視を貫徹しようと努めても、いずれかのタイミングで必ず視野に入ってきてしまう。そして、なにごとかを言及せずにはいられなくなる。たとえそれが否定的な、あるいは批判的な内容であったとしても、「言わずにはいられない」という時点で、僕にとってこの作家はなにがしかの重要な意味を持ちつづけているということなのだ。

 村上春樹の小説はおもしろい。いや、おもしろかったというべきか?
 そう思って「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」から村上ワールドにはまった私だが、このところの作品には「やれやれ」とあと味の悪い思いをすることが多い。

 平山氏とは異なり、私は一読者に過ぎないが、ここに書かれている氏の思いはよく理解できる。

 同じ「序にかえて」のなかで、氏は、

 このような本を出す以上、僕はさまざまな批判を免れないだろう。とりわけネットでは批判どころではなく、ありとあらゆる誹謗中傷、罵詈雑言、根拠のない言いがかり、「だからそれは違うってちゃんと本文の中でも断ってるよね」と言いかえしたくなるであろう条件反射的な揶揄や悪罵にさらされることになるのが必定だと思っているし、その覚悟もできている(覚悟ができているかどうかと、実際にあれこれ言われても腹が立たないかどうかは別問題だとしても)。
 それに僕は、たとえ多数派ではなくても、僕が述べたことに「そのとおり」と深くうなずいてくれる人が一定数は存在することを確信している。だからこそ僕は、それを述べずにはいられない(述べないわけにはいかない)のだ。


 本書を読み、私は概ね氏の主張、指摘に「まったくだ」と思っている。
 村上春樹作品のなかの異様なまでの性行為への執着やら、「これ、みんな読んでてすっきりしてるのかな」という曖昧模糊な展開や終わり方など、読んでいてイライラしたりすっきりしないところを、きちんと洗い出してくれている。

 ファンだからといって目くじらを立てるのではなく-私だって、かなりトーンダウンしているが村上春樹のファンだ-、冷静に氏の作品を見つめなおすには参考になる本だ。

 揚げ足をとって悪いけど、218pの後ろから6行目。

 “〈ね〉の〈僕〉は”は、“〈ダ〉の〈僕〉は”の誤りである。

Virture and Vice  昔からそういう妻はいたようです
 つい最近も取り上げた、ルネサンス期ドイツ音楽の最大の作曲家ゼンフル(Ludwig Senfl 1486頃-1543 スイス)のリートを今日もまた1曲。

 「昔、外出したがる妻がいた(Heth sold ein meisken garn om win)」。

 つまり、そういうことです。

 ズヴェン・ベリエル(ベルガー)/アンサンブル・ヴィラネッラの演奏で。

 1994年録音。ナクソス。

  まっ、こんな会い方しててバレないなんてありえないだろうに……

2番か4番か……混乱してます♪リスト/ハンガリー狂詩曲2(orch版)

Enescu  いまから70年前の作品!

 そのリスト(Liszt,Franz 1811-86 ハンガリー)の「ハンガリー狂詩曲第2番(Ungarische Rhapsodie Nr.2)」嬰ハ短調S.244(1847)をはじめとする、「ハンガリー狂詩曲集」S.244(1846-85)。


 全19曲-つまり第1番から第19番まである-のピアノ曲だが、そのなかでも第2番がもっとも有名である。


 私はこの曲を初めて聴いたのは、クラシック音楽に溺れるずっとずっと前、アポロ11号が月面着陸に成功したころのこと。「トムとジェリー」の「ピアノ・コンサート」を観てである。この「ピアノ・コンサート」、1947年にアカデミー賞を受賞したというから、私が観たときには制作から20年近く経っていたということになる。すごい国だよUSA。


 さて、このアニメではトムがピアニストを務め、オーケストラの演奏をバックにこの曲を弾く。

 つまり、オーケストラ編曲版である(ただし、独奏ピアノとオーケストラのための編曲版というのは、このアニメ以外では聴いたことがない。つまりアニメのための再編曲版だと思われる)。


 そこで今日は、くどくどと前置きが長くなったが、「ハンガリー狂詩曲」の管弦楽編曲版。

 全19曲のうち、6曲をリストは弟子のドップラーの協力のもとオーケストラ編曲している(S.359)。


  で、なんでわざわざ変えたワケ?

 ただし、管弦楽版のナンバリングとオリジナルのピアノ版の番号が異なっているものもあるため、ややこしいことになっている。


 オーケストラ版と原曲の関係は次の通り。


 ・第1番 ヘ短調 S.359/1  ← 原曲第14番へ短調
 ・第2番 ニ短調 S.359/2  ← 原曲第12番嬰ハ短調
 ・第3番 ニ長調 S.359/3  ← 原曲第6番変ニ長調
 ・第4番 ニ短調 S.359/4  ← 原曲第2番嬰ハ短調
 ・第5番 ホ短調 S.359/5  ← 原曲第5番ホ短調「悲しい英雄物語」
 ・第6番 ニ長調 S.359/6  ← 原曲第9番変ホ長調「ペシュトの謝肉祭」


 なら、あの有名な第2番はオーケストラ版なら第4番なのね、と言ってしまっていいのかというと、そうでないところがイライラのタネだ。


 というのは、オリジナルの第2番がオーケストラ版で第4番になっているのはリスト&ドップラー編の場合で、ミュラー=ベルクハウスによる編曲(ハ短調)ではオリジナルとオーケストラ版がともに第2番なのである。さらに、ドップラー単独による編曲版というのもあるらしく(ニ短調)、こちらも原曲と同じ第2番となっている。


 私が聴いているドラティ/ロンドン交響楽団の演奏は、第2番でオリジナルの第2番と同じ音楽、つまり両者の番号が一致しているのだが、編曲者はマッティになっている(ウィキペディアでは、しかしこの演奏は明らかにミュラー=ベルクハウス版(ドップラーの手によるものと異なり編成にハープが加わっている)だと指摘されている)。


 こうなってくると、私はこう考える。「めんどくさ。もうどうでもいいや」って。


 そのドラティの演奏を。管弦楽版の全6曲が収録されており、ハンガリーの民族楽器であるツィンバロンが用いられている曲もあり、第2番以外でも魅力発見の可能性が大である(あなたにとって)。


 1960年録音。マーキュリー。


  そりゃ、痛そうではあったけど……

 「トムとジェリー」では多くのクラシック音楽作品が絶妙に使われていて、幼いお子さまにとっても自然と名曲に親しむ絶好の機会だったと思う。

 それが内容が暴力的すぎるということで再放送されなくなって久しいのは残念だ。教育上好ましくないといって放送内容にうるさくなっているいまの方がずっと凶悪犯罪が増えていると思うのだが。


保守的で変化を好まない私を狐が招く♪ヤナーチェク/利口な女狐

Dvorak7ekiska  新型では機能不全
 先日、あるところで新しいノートPCを触る機会があった。
 新しいが、個人的には欲しい機種でもメーカーでもない。
 それはともかくとして、OSはWindows10 Enterpriseで、IE(Internet Explorer)のヴァージョンは11.0.43。

 ちょいとばかり、試しに自分のブログの投稿画面を開いてみた。

 ところがである。

 投稿用の画像や絵文字が呼び込めず表示されない。文字色の変更ができない。マーカーも引けない。
 これらのアイコンをクリックしても無視するように何も起こらないのだ。

 また、投稿設定で予約の日時も指定できない。

 ちょこちょこと原稿をいじってしまったが、まさに余計なことをしてしまった。書きかけで保存してあったその文に変なことが起きなきゃいいがと、そのまま「下書き保存」のアイコンをクリックすると、画面下にこんなメッセージが。

blog error

 同時に別ウインドウが開いたが-これがedit~らしい-ずーっと、ずーっと、永遠に続くように-放っておけば続くに違いない-真っ白いまま。これじゃエラーメッセージでも出てくれたほうがまだ救われる。

 『ファイルを開く』や『保存』をクリックしても、何やら堂々巡り。

 いや、そもそもlivedoor.blogcms.jpってなんじゃい?
 そんなの呼び寄せた記憶はない。私はくしゃみもあくびもしていない。勝手に来るな。

  初めてIE以外でログインしてみた
 なんだか気持ち悪いので、投稿画面からログアウトし、グーグル・クロームでログインし確認。
 クロームでログインしてみたのは、私にとってこのときが初めて。

 私は保守的で、最初に使ったもの-このケースだと、インターネット・エクスプローラー-を忠実に使い続けるタイプなのだ。ふだんグーグル・クロームを使う場面といえば、アフィリエイトのバリューコマースで『My Linkコード』を取得するときだけ。このコードもIEでは作成できず、エラーが出るためだ。

 初体験の“クロームでのログイン”だと、いつも通り。つまり家で使っているWindows7、IE11での投稿画面と一緒だ。
 違いは文字の形(書体)。これは好みの問題(あるいは慣れの問題)。
 この写真の上がIE、下がグロール、違った、グーグル・クロームである。編集画面の1行あたりの文字数も異なっている。

IEScreen

ChromeScreen

 つまり、家で使っているものもIE11だが、このちょっと触った新しいPCでは編集画面が機能不全でヘンテコ極まる原因は、Windows10にあるってことになる。

 だが、北海道の自宅のPCもWindows10(IEのバージョンは11.0.47)。だが、このように一部(いや大半)の機能が停止してしまうってことはない。

 考えられるのは、IE11のなかでもバージョン11.0.43が不適、もしくは、Windows10でもEnterpriseってのに問題がありそうだ。

  定評ある低評な事象らしい
 ただ、Internet Exprolerで投稿画面が正しく動作しない問題は、間違いなく起こってる。
 というのも、livedoor blogのヘルプページに載っているからだ。

 Internet Explorerをお使いの場合、「記事を書く」ページで正常に動作しない場合があります。
 
 主な現象
 •画像の挿入や文字サイズの変更、絵文字の挿入ができない
 •Javascriptエラーが表示される

 正しく動作しない場合、以下をお試しください。

 その他アドオンの無効化

 Internet Explorerにインストールしたアドオンが不具合の原因になっている可能性が考えられます。アドオンを無効化してお試しください。

 アドオンを無効化にする方法
 •メニューバーの[ツール] > [アドオンの管理]選択
 •表示されるアドオンを選択して「無効にする」をクリック

 まだ問題が解決しない場合、以下の情報を問い合わせフォームよりお送りください。ご協力のほどお願いいたします。

 1.使用しているアドオンを可能な限り教えてください
 アドオンの調べ方:
 [ツール] > [アドオンの管理]を開いて、そこに表示されるアドオン名を教えて下さい
 2.最初に不具合に気づいた前後で行ったパソコンの設定変更などがあれば教えてください 
 例:パソコンを買い替えた
 例:ウィルスソフトをインストールした
 例:ブラウザソフト(Internet Explorer)をアップデートした
 例:ブラウザソフトの設定を変更した(ブラウザのセキュリティレベルを変更した)


blog IE error

 はい、他人の新しいパソコンで試してみました。私の場合。

 このヘルプページでは、IEではなくグーグル・クロームやファイヤーフォックスを使うことを推奨している(ような)記述がみられる。

 しかし、グーグル・クロームはどうも反応が遅くじれったい。

 そこでファイヤーフォックスをダウンロードして使ってみた。

 ……なんかいい感じ……

 編集画面の文字はクロームと同じだが-こっちの方が好きになってきたけど-、反応がいい。サクサクしている。

 アタシ、乗り換えちゃうかも……

 ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928 チェコ)の歌劇「女狐ビストロウシュカの物語(利口な女狐の物語)(Prihody lisky Bystrousky)」(1921-23)の組曲(ターリッヒ編)。

 ここでも取り上げたエリシュカ/札響盤を。

 2009年ライヴ録音。pastier。

 そうそう、IEを使って原稿を書いているときは、文頭でスペースを入力すると、なぜかカーソルが1行下の2文字目に飛ぶという珍現象が頻発する。
 しかし、クロームでもファイヤーフォックスでもそういうことは起こらない。起こってはいけないことが当たり前に起こらないことが、こんなに精神衛生上良いとは!

 原稿を書くときはFoxちゃんにしちゃおうかしら……
 ねえねえ、そこのlivedoor blogを利用している皆さん!どのブラウザを使っているんですか?教えて!Muu……

 ※ 実は-ってほどのことじゃないが-昨日の記事は最初の1文字から最後の1文字まで FireFoxを使って書いて投稿してみた。

キリギリスの汚名返上。雪に埋もれたバラを救う!♪ネッケ/クシコスポスト

GrovesPO  雪の中、雪防止の冬囲い
 今度の日曜日は仕事である。

 昨日の月曜日、つまり外一面が-家の中一面だったら大ごとだ-がすっかり雪景色になった翌日、幸い天気が良かったので私は冬囲いを強行した。

 なぜ月曜日なのに仕事もしないで庭仕事をしているのか?

 つまり今度の日曜日は仕事なので、この日はその振替休日だったのである。

 ここまで周到に言い訳しなくてはならないのだろうか?いや、大切なことだろう。

 バラたちの株の周囲の雪をどけ、冬囲い。
 例年ならばそれぞれの株で支柱を3本使い三角すいのように囲うのだが、今回はそれは一部。
 というのも、今年はいつも使っている竹材がHomacに入荷していなかったことで、支柱不足という危機に見舞われたからだ。
 そこで支柱2本で対処。しかも晴れていたとはいえこんな状況だから突貫作業。

 だが、みごとな集中力と手抜きで、午前中のうちに庭はこのように本格的な冬にすっかり備えることができた。

IMGP2038

IMGP2039

  同情?激励?非難?嘲笑?
 作業している最中に、近所のおばさんが通りかかって「すっかり積もりましたね」と私の至らなさをやんわりと指摘。郵便配達のお兄さんは「いっきに冬になりましたね」と私の準備不足を遠回しに非難した。というふうに、ねじ曲がった捉え方をしまうほど、今回は切羽詰まっていた。

 急いで作業を進めたので何本かの指にトゲを刺してしまい、そのため白いロープがピンク色に染ったりして、まさに虎の穴の死闘状態。
 しかし23日には気温が10度くらいまであがるからそれまで作業は延ばしのばしにしようと堕落した考えをもっていたわが心に鞭を打ち、一気に終えることができ、すっかり解放状態。
 バブを投げ込んだ風呂-もちろん『ホワイトローズの香り』だ-に入り、幸せを感じた私であった。

  ってことは、クシコス=馬車?
 勤勉な郵便配達のお兄さんに敬意を表し、今日はネッケ(Hermann Necke 1850-1912 ドイツ)の非常に有名な通俗曲「郵便馬車(Csikos post)」(作曲年不明)。
 通称「クシコスの郵便馬車」と呼ばれるが「クシコスポスト」という言葉そのものが「郵便馬車」という意味らしく、ゆえに「クシコスの郵便馬車」というのは誤訳である。と、井上和男氏は「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)で断言している。
 どうやらクシコスというのは『馬に乗る人』ということらしい。

 この曲は小学校の運動会なんかでなぜか流されることが多いが、活気がある反面、ちょっぴりほの暗さもあって、運動嫌いの私にしてみれば負の面ではあるが運動会にふさわしい曲だった。

 ピアノ版もあって(もともとはピアノ曲?)、ウチの次男が幼稚園児の頃、通っていたピアノ教室の発表会でこの曲を演奏。
 馬が暴走しだしたかの如く、どんどんテンポアップし、自分でテンポを速めているのに指がついていかなくなり、演奏し終わった後は「やってらんない」と自分のせいなのに文句をたれていた。
 なお、そのすぐあとに彼はピアノ教室をやめた。

 クシコスポストの中間部分は、リストのこれまた有名な「ハンガリー狂詩曲第2番」によく似た箇所がある。「チャカチャカチャカチャカ、チャカチャカチャカチャカ、チャリラリラリララ、チャリラリラリラー」というところだが、こう書いてもだれも私の伝えていことなんて理解しちゃくれないだろう。

  AとFの差って……
 それはともかく、似た箇所があるものの全音ピアノピースでは、リストのハンガリー狂詩曲第2番の難易度は F。一方で、クシコスポストは A、つまりいちばん易しいのである。だからこそ、幼稚園児が弾けたわけだ。

 私が持っているCDはグローヴズ/フィルハーモニア管弦楽団の演奏によるもの。管弦楽名曲集の中に収められている。
 写真の、つまり私が持っているCDは廃盤だが、同一音源の別CDが入手できる。

 1988年録音。DENON。

 今日はちゃんと仕事に行きます。
 本社で打ち合わせです。

激励のお気持ち承り所
最近寄せられたコメント
私の浮き沈み状況

これまでの御来訪者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

メッセージ

名前
メール
本文
本日もようこそ!
ご来訪いただき、まことにありがとうございます。

PVアクセスランキング にほんブログ村
サイト内検索
楽天市場 MUUSAN 出張所(広告)





カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
タグ絞り込み検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
QRコード
QRコード
ささやかなお願い
 当ブログの記事へのリンクはフリーです。 なお、当ブログの記事の一部を別のブログで引用する場合には出典元を記していただくようお願いいたします。 また、MUUSANの許可なく記事内のコンテンツ(写真・本文)を転載・複製することはかたくお断り申し上げます。

 © 2014 「新・読後充実度 84ppm のお話」
  • ライブドアブログ