CDの売上が伸びる予感?
眞子さまの婚約内定が明らかになった。
これでしばらくの間はヘンデルの出番が多くなるだろう。
実際、木曜日の朝のニュースでは、早くも眞子さまの映像とともにヘンデルの曲が祝祭的に流れていた(ニュースなのに!)。
たいてい使われているのは「水上の音楽」だが、この日も御多分に洩れず「水上の音楽」だった。
ヘンデル(Georg Friedrich Handel 1685-1759 ドイツ→イギリス)の「水上の音楽(Water Music)」HMV.348-350(1717)。
なぜヘンデルの、それも「水上の音楽」が皇室関連の映像のバックに使われるのか、少なくとも私の中ではこのときと変わらずいまだに定かではないが、おそらくはヘンデルがイギリスの王室と密な関係にあったこと(考えすぎ?)、そしてまた、音楽そのものが祝祭的で上品な響きをもっているからだと思う。
それに、とりわけベートーヴェン以降、つまり古典派以降の音楽となると、曲の中で強弱の差がありすぎたり、突然不協和音が現われたりするので、ちょいと向かない。
では、同じバロックでもなぜバッハじゃだめなのか?
バッハはヘンデルと違ってずっと教会で働いていて王室とはあまり関係なかったことと(考えすぎ?)、音楽そのものがヘンデルより男性的で骨っぽい。
となると、ヘンデルの音楽の方が邪魔にならず、みごとなあんばいな音楽ってことになる。
気になるのはヘンデルが芸術に身を捧げるというよりは興行主だったことと、一生独身で子どももいなかったことだが……
よくできたもっともらしい伝説
そしてまた、ヘンデルの数ある作品のなかでも「水上の音楽」が多く使われる理由はなんなのか?
この曲はイギリス王ジョージ1世の舟遊びの際に演奏するよう書かれた曲である。
王室と皇室は違うが、品の良い祝祭音楽なのだ
「水上の音楽」にはご存じかもしれないが、有名な逸話がある。
ヘンデルはドイツのハノーバー選帝侯の宮廷楽長だったのに、命令に従わずイギリスに渡ったきり帰国しなかった。魅惑の地、イギリスで成功を収めたからだ。
そのいきさつについて、ショーンバーグがこう書いている*)。
1710年、ヘンデルはイタリアからハノーバーに戻り、選帝侯つきの宮廷音楽家となった。同年末、休暇で英国に渡ったが、そこではイタリア・オペラが音楽的催し物の中で最大の流行となり、「カストラート」歌手が、その声と力と輝きとで人々を驚倒させていた。ヘンデルはここで英国民の求めに応じ、オペラ『リナルド』を作曲した。1711年作曲のこのオペラは、大成功を収めた。彼はハノーバーに帰ったが、眠気を誘うようなちっぽけな宮廷があるだけで、活躍の場も小さいハノーバーと、富と名声を得る機会の多い大都市ロンドンとを比べて見れば、彼がどんなことを考え始めていたかは容易に推察できよう。翌1712年、ヘンデルは「適当な時期に戻る」との条件つきで、再度英国に渡る許可を得た。しかし、実際には「適当な時期」は生涯到来しなかった。
再度のロンドン入りを果たすとすぐ、ヘンデルはオペラ『忠実な羊飼い』を作曲、その直後に、ユトレヒトの戦勝を記念する、雄大な公式行事用の作品『ユトレヒトのテ・デウム』を作った。彼はまた、アン女王の誕生日を祝う曲を作り、200ポンドの年金を下賜された。それから2年、ヘンデルは無断で、ハノーバーの宮廷へは全然帰らなかった。彼に帰る気があったのかどうか、それはわからない。
ところが1714年に、なんと雇い主であるハノーファー選帝侯がジョージ1世として迎えられることになった。
ヘンデルが焦らないわけがない。命令を聞かずにほったらかしにしていた相手が、イギリスの王としてやって来るのである。
やばい……
ショーンバーグは続ける。
しかし1714年にアン女王が逝去すると、事態は彼のままにはならなくなった。雇用主のハノーバー選帝侯がジョージ1世として、英国王の座に就いたからである。ヘンデルはその頃、自身の身に何が起るかと、さぞ不安な日々を過ごしたに違いない。
何とか許してもらいたい。関係を修復したい。そう画策してヘンデルがご機嫌取りのために作曲したのが「水上の音楽」。1715年に王がテムズ川で舟遊びしたときに演奏し、みごと王との和解に成功したのである。
と、言われてきたが、これは作り話だと考えられている。
記録では、1715年ではなく、1717年に行なわれた舟遊びでこの曲が演奏されたようだ。
このことについて、ショーンバーグさらに続ける。
しかし、何事も置きはしなかった。日ならずしてヘンデルは、ジョージ1世の寵愛を取り戻し、年金も倍増した。ヘンデルは『水上の音楽』によって国王の信頼を回復した、との面白い説があったが、今日では疑問視されている。この説では、ジョージ1世は1717年、テームズ川で船遊びを楽しみ、その際演奏された『水上の音楽』を褒め讃え、その場でヘンデルと仲直りした、となっている。船遊びは事実であり、また船中でヘンデルの組曲が演奏されたことも記録に残っている。1717年7月19日の「デイリー・クータント」紙は「国王はこの曲が大いにお気に召され、行き帰り併せて3回以上も演奏を命ぜられた」と書いている。だが、この結構な伝説にとっては不幸なことに、両者は1717年以前にすでに和解を遂げていた、と思われる。
えっ、だからって「水上の音楽」が皇室もので多く使われる理由になっていないって?
ごもっとも。
音源が多いという単純な理由?
以下は私の勝手で無責任な想像。 ヘンデルの作品の録音ってあまり多いとはいえない。日本では“音楽の母”、とまで呼ばれているのにである。LPレコード時代ならなおさらだ。
そんななかでも音源が比較的多かった「水上の音楽」が利用しやすかった。って、ことなんじゃないかなと思う。
やはり有名な「ハレルヤコーラス」ってわけにいかないだろうし……
と考えると、「水上の音楽」と同じくらい有名な「王宮の花火の音楽」が、やはり皇室番組でときどき使われていることにも通じるものがある。
マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー室内管弦楽団)による、1988年録音盤を。
実はこの組み合わせの演奏では、モダン演奏ながらもけっこう攻撃的で刺激的な1993年録音のもの(レーベルはヘンスラー)の方が私は好きなのだが、もし皇室の映像に使うとしたらこちらのソフトなほうが合っている。
使用楽譜はレートリヒ版で、全22曲(第1組曲10曲,第2組曲5曲,第3組曲7曲),20トラック。
EMI。
「水上の音楽」のオリジナルの楽譜は失われたそうで、残されたパート譜やチェンバロ編曲版をもとに管弦楽版が復元された。
その復元されたものはレートリヒ版など複数存在し、版によって収録されている曲数は異なる。
*) ハロルド.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」(亀井旭/玉木裕 共訳:共同通信社 1977年)