新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2017/01

禁断のつまみをひねってみたんです。そしたら…♪忠実な馬あぶ

PC250445  説得力あるお言葉
 トーン・コントロール・ステージの働きは、周波数に対する増幅度、つまり周波数特性を人為的に変化させることにある。こうすることによって音色の変化を造り出すわけだが、この結果、当然波形の変化もきたすことになる。しかしこれによる波形の変化の目的は、このステージに至るまでに不測の変化を起こしているものを、もとにもどすことが主眼である。あるいはスピーカーの特性が高音不足気味であれば、それをここで補うこともできるということもある。
 しかし、波形を変えるという事実から、一元的にこれを毛嫌いする人もいるが、所詮受身一方のステレオ・ファンの立場としては、本当のもとの音の波形は知るよしもないのであるから、トーン・コントロールによって自分として納得のゆく音色を得ようとすることは決して間違っていないと思う。

 §
 ……トーン・コントロールなんて忠実度の高い再生には無用の長物、のみならず有害である、という風潮が過去に幅をきかした時代もあるし、また現在でもその思想は多少なりとも生きている。特に自称マニアという人々の中には確たる根拠もなしに、やたらトーン・コントロールを目の仇にする人もいるようだ。そこでこの間の事情をまず述べておくことにしよう。
 一昔前、つまり回路技術が今ほど進歩していなかった時代のトーン・コントロールは確かにひどいものがあり、ひずみ発生回路というか、不自然音質調整回路というものが大半をしめていた。しかし同時に当時といえどもよいものもあったし、反面現在でもひどいものが全然無くなったわけでもないから、クソミソごったに毛嫌いするのは偏見というものだ。
 次なる理由は入ってきた信号を全く変えずに出力する高忠実度再生の思想からいえば、信号が通過するステージは少ない方がよりよいという正しい根拠によるもので、直接物を見るのとどんなに透明なガラスでも、それを通して見る場合との違いをいっているわけだ。
 しかし、ガラスを通すとすべて悪く見えるわけでもない。
 悪く見えようが、音を聞いて楽しくなかろうが、吾れ高忠実度に向う!ということになれば、筆者もトーン・コントロールなんて温存しようとは思わないが、ステレオを楽しみとするなら、イデオロギーをふりかざすのは自分一人だけに止めたいところである。
 結論としてよいものであることを前提として、ステレオの楽しみにとって有益無害な補助回路がトーン・コントロールである。しかしこれを有益に使うには若干の知識が必要なのはいうまでもない。

 §
 トーン・コントロールはこれをよく使っている人と、まるで使わない人の二種類に分かれるようだ。またよく使う人でも、もとになるプログラムにないのに低音をやたら上げたり、再生音全体の大小に無関係に廻している人も少なくない。また上げるばかりが能でもなく、低音成分の乏しいプログラムなどはむしろ低音を抑えると雑音も少なく美しい音になるし、またスピーカーとして低音が鳴り響かない置き方を敢てとったうえで、トーン・コントロールでやや低音を上げてやるなど、意外に疲れない音造りもできる。また再生音量が小さく距離が離れているときは、原則的に低高音は不足し勝ちであるからこれを補うことも大切である。
 さらに私見を述べれば、音楽にはその曲の種類や演奏、録音の形式によって、いかにもそれにふさわしい音色があると思う。相手かまわず、弦の松ヤニの音や、ティンパニーやドラムスのなかに首を突っ込んで聞く音を追っかけるのは、音楽のために当を得ているとは思えない。再生音に距離感を与え、大らかに漂う音、あるいはショッキングに生々しい音、それは音楽のために使用者が選んでやるべきだ。そうなるとトーン・コントロールのツマミこそ御ツマミ様と呼びたい程楽しいものになるし、販売店が喜ぶからというだけで、やたらドギツイ変化特性の、いわば使用者不在のトーン・コントロールなど、馬にけられて死んじまえ!ということになる。


 実に心強い考え方である。説得力もある。

ShostakoKirghiz  昭和50年頃に流行っていたギャグ?なわけないな……
 これは土屋赫(あきら)氏の「オーディオ エンサイクロペディア」(音楽之友社)のなかに書かれていることである。

 “御ツマミ様”とか“馬にけられて死んでしまえ!」など、寒冷前線が居座るような表現が時代を感じさせるが、第1刷発行は昭和50年3月20日なので、まさしく何世代も前の著書だ。

 私は将来自分がステレオ装置を持つことができるときを夢見て、生徒会活動にも参加せず、美化委員の手伝いもせず、こういう“大人”の本を読んでいたのだった。

 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「馬あぶ(The Gadfly,独:Die Hornisse)」Op.97(1955)。

 ここに書いたように映画音楽である。

 アトヴミヤンが1955年に12曲の組曲に仕上げたもの(Op.97a)を、今日はクチャル指揮ウクライナ国立交響楽団の演奏で。


 ブリリアント・クラシックス。録音年不明。


Vivaldip13Larrieu 今日はもう1曲。


 ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア。疑作:シェドヴィル(Nicolas Chedeville 1705-82 フランス)作)のソナタ集Op.13「忠実な羊飼い(Il pastor fido, sonates pour la musette, vielle,,flute, hautbois, violon, avec la bosse continue)」F.XVI-5~10(1737頃出版)。


 それこそこのエンサイクロペディアが発刊された時代に、平日の毎朝、NHK-FMで放送されていた“バロック音楽のたのしみ”のテーマ曲に使われていた作品。

 それゆえに私にとっても長~い付き合いがある作品。愛着もあって(特に放送のオープニングに使われていた第2番第1楽章)、ブログでもワントゥースリーフォーと4回取り上げている。

 是非ともランパル盤(1968年録音。エラート)を、と思うところだが悲しいことに廃盤。

 現役盤として入手しやすいラリューのフルートによる録音を、も一度紹介しておく(チェンバロはV=ラクロワ)。


 1974年録音。DENON。


PC170436  過去を忘れられない私……
 さて、後ろめたさを感じる必要なんかないのに、うしろの百太郎が後ろで自分を守ってくれていないような後ろめたさを感じ、そっとBASSのつまみを左に、つまみ、いや、つまり時計の反対回りに回してみる。低音を減衰させるのである。

 すると、時計の文字盤でいうなら11時くらいの位置でも、嫌なボワンとした低音が消える。
 さらに10時くらいまで回すと、かなり切れが良くなる。

 目いっぱい回すと、今度は音全体が脱肛を患っている体操選手のように情けなくなる。

 トーンコントロールをいじりたくない人たちは-今に至っても私もどちらかといえばこちらに仕分けされるのだが-いじることによって、減らしたくない、あるいは増やしたくない音の成分(周波数)まで影響を受けるのではないかと、消極的になるのだと思う。

 しかし、スピーカーのセッティングを変えたり、カーテンやらクッションやらスポンジやら何やらを使って音のコントロールを試みたとしても、ターゲットを絞って特定域だけを減衰したり増幅したりできないことは同じだろう。

 いま私はBASSのつまみを(TREBLEは中央のまま。つまりフラット状態)フラット位置~9時までの間で、CDによってちょこちょこいじりながら聴いている。

 私を疲れさせるようなしまりのない、サティの前奏曲の犬のような低音はかなり改善された。

 けどけどけど、ラインストレートスイッチをONにし、トーンコントロールツマミの位置もホームポジション(つまりフラット位置)に安置しておきたいという気持ちが、私の中にまだ根強く残っている。

 それほどトーンコントロール不要(あるいは邪悪)説は、若き日の私の心に深く刻み込まれたということでもある。

指先で優しくつまんでみてもいいですか?♪吉松/プレイアデス2

SegawaAudioABC  再配置は不可能
 腰を上げることにしたとはいえ、肉体労働はいやだ。

 すでにみなさんに訴えたように、スピーカーを大胆に動かしてみることは物理的に、つまり部屋の大きさからして無理である。

 かといって、タオックのインシュレーターで3点支持しているスピーカーを微妙に調整するのは大変だし-私は音楽ファンであって、そういうことに労をいとわないオーディオマニアではないのだ(と、自己の怠惰を正当化)-、そんなことをしているうちに小指とかを痛めてしまいそうだ。
 そもそも微妙なセッティング変更では低音が締まったり、上品になるとは思えない(今が下品な音という意味ではない。昨日は腐りかけたマグロなんて書いたが、実はけっこう良い音なのだ)。

 となると、スピーカーの位置をいじらないで、何らかの策を講じなくてはならない。

  貼り布厳禁
 低音を減衰させる1つの方法に、スピーカーの後ろにカーテンなどの布などを垂らすという手がある。
 が、壁に画鋲を打つことは禁じられている。ガムテープや強力両面テープで貼りつけることはもってのほかだ。

 つまり布を垂らす作戦は絶望的に不可能だ。

 垂らすのが無理なら、じゃあ立てればいいのか?
 病院の診察室で見かける金属フレームにヒダヒダの布が貼ってある目隠しのようなものを置けば……そんなスペースはない。
 仮にそれを置いたとして、万が一私の身に何かあったときに、やむなく部屋を訪れた人が、私の趣味がお医者さんごっこだったと勘違いされるのは不名誉なことだ。

  すでにソファの上に3つあるし……
 その代わりにスピーカーの後ろにクッションなどを置くという方法もある。

 が、男1人暮らしでわざわざクッションを買い増すのには抵抗がある。店でクッションマニアだと勘違いされるのも嫌だし、もし功を奏さなかった場合は、ただただクッションが増えて居住空間を圧迫するだけである。

  開放しておいてあげたい 
 第3の手としては、スピーカー背面のポート、つまりバスレフポートを、スポンジなどで完全に、もしくは半分くらい塞いでしまうというワザもある。

 ポートに詰めるため、100円ショップに行って食器洗い用のスポンジを買おうかと思ったが-何色が良いかまで考えたくらいだ-、しかし低音は出たがっているのにそれを塞ぐのはどうもなぁ、スピーカーのコーン紙にストレスがかからないかなぁ、などとスピーカーの身になって考えた結果、一度は音圧による空気を外に出させてあげたいと考えるに至った。

 じゃあ、バスレフポートを塞ぐのではなく、私の耳を綿か何かで塞げば低音がうるさくならないのではないかと一瞬発想の転換を行なってみたが、かえって音がこもってしまう、というかまともな音が聞こえなくなるし、綿が耳の穴の奥の方まで入り込んで自分では取れなくなって耳鼻科に駆け込むはめになり、女性医師(←勝手に医者は女性と想定)に、想像もつかないようなイケナイ遊びをしていた代償と誤解されるのも厄介だと思い、このくだらないがお茶目な考えは却下した。

 もちろんオーディオ専門の対策パーツはあるだろうが、あっても高価なことは容易に想像がつくし、それを導入して果たして効果があるかどうかはやってみなきゃわからない、いわば相当な賭けである。そんな投資はしたくない。

 となると、もはや方法は1つしかない。

 禁断の……トーンコントロールつまみを愛撫するように優しく触り、いじくり回すことである。

  使用するのを避けている私
 今のアンプにしてからというもの、“ライン・ストレート”スイッチを常にオンにして使ってきた。
 つまり、トーンコントロールや左右のバランス調整の回路を通さないようにしているのである。

 トーンコントロールを、むかしは私もそこそこ使っていた。
 が、以前使っていたONKYOのアンプではあまりその効果というか、メリットを感じなかった。

 あのときは低音が不足したので(スピーカーも今とは違う)補いたかったのだが、住んでたのが相当なボロ家でしかも和室だったので、アンプとかだけのせいじゃ全然ない。
 しかし、逆にアンプを換え、さらに洋室で聴くようになったときに、「環境が整ったのでこれからはライン・ストレートの直球勝負だぜ!」という意識改革が、私の中に起こったのだった。

 学生のころから、トーン・コントロールは決して邪悪なものではないという説をオーディオ関連の本でいくつも読んできた私だが、ただ世の中には「トーンコントロールのつまみに触るなんて、服の上からおなごの胸のポッチを触るよりも悪いことだ」ぐらい罪深いものだという風潮は強く、私もたいした根拠も体験もないまま、ここ20年ほどはトーンコントロールをいじることを避けてきた(ラウドネススイッチも)。

 そのくせリビングにあるミニコンポのトーンコントロールはいいだけ大幅に動かしたりしているんだから、困ったものだ(←私が)。

  消極から積極へ
 今回あらためて、手元にあるオーディオ関係の本(どれも過去帳のように黄ばんでしまっている)を読み直した。
 昨日取り上げた五味康祐の本も、そういういきさつで読み直したのだった。

 そのなかの1つにオーディオ評論家の瀬川冬樹氏が書いた「オーディオの楽しみ」(新潮文庫:1981年発行)がある。
 トーンコントロールについての瀬川氏の説はこうだ。

 トーンコントロールは積極的に活用すべきだ。これが筆者の主張である。……(中略)……ところが、オーディオ・ファンの間には妙な迷信がある。それは、トーンコントロールをあまり大幅に動かすのはよくない、とか、トーンコントロールで補整しなくては良い音にならないような装置はどこかに欠陥があるのだ、とか、ひどい人になると、トーンコントロールはツマミの中央-フラット-のところ以外に動かすのは間違いだ、などという。ともかく、トーンコントロールを動かすことに、おそろしく消極的な考えが一部にはある。

YoshimatsuPleiades1 よし。

 私は、このさい迷信を吹き飛ばし、控えめな人間から自己主張をする人間に変革することに(ちょっぴり)決めた。

 吉松隆(Yoshimatsu,Takashi 1953-  東京)の「プレイアデス舞曲第2集(Pleiades Dances Ⅱ)」Op.28(1987)。

 次の7曲からなる。


 1. 消極的な前奏曲
 2. 図式的なインヴェンション
 3. 線形のロマンス
 4. 鳥のいる間奏曲
 5. 断片的な舞曲
 6. 小さな乾いたフーガ
 7. 積極的なロンド


 吉松の「プレイアデス舞曲集」(全9集)に収められている曲は、どれもが優しく美しい輝きを放つもの。

 聴いた後に心に残らないという声もあるが、それでもいいのである。
 かかっているときは間違いなく心惹かれる音楽だから。低音がどうのこうの悩まなくて済む類(たぐい)の音楽だし……


 田部京子のピアノ演奏で聴くことができる。


 1996年録音。DENON。


 さぁ、果たして私はロンド・モードに突入できるだろうか?


1メーター?私の暮らし向きでは無理です♪コレルリ/trpソナタ

TrumpetConSC  低音がボンつくこの部屋
 私が使っているスピーカーは、インフィニティのKAPPA80という機種である。

 ここに、併せて先日名古屋の地下鉄桜通線車内で“Kaepa”と書かれたジャージを履いている青年を見かけたことを、ぜひとも報告しておきたい。

 低音を担うウーファーは20cmのものが2個。

 小難しい理屈はわからないが、20cmを2台駆動することによって、40cm口径のウーファーと同じ効果が得られるらしい。
 実際とても豊かな低音を出してくれる。

 このスピーカー、自宅、大阪のマンション、東京のマンション、帯広のマンションと使ってきて、今は名古屋のマンションで鳴ってくれている。

 上に書いたように低音が充実しているものの、一歩間違えると低音が出過ぎる。

 これまでだいたい半歩ぐらいの間違いを犯してきたのだが、そこは転勤族ゆえあまり改心する気もなく済ませてきた。
 それに、そもそも私は豊かな低音が好きな質(たち)なのだ(愚かなことに、学生のころは大音量で聴いて部屋にある家具か何かが共振すると、超低音が出ている証とばかりひそかに大きな喜びに浸ったものだ)。

 しかし、この名古屋ではそうも言ってられなくなった。
 これまでになく低音が出過ぎるのである。
 それも腐りかけたマグロの胴体のような締まりのなさだ。

 それでもちょっと聴く分には、なかなか低音が出ていていいじゃないかと思わせる。

 しかし長い時間、音量をそこそこ上げて音楽を聴いていると(とはいえ、マンションの一室という環境なのでボリュームのつまみを、時計の文字盤だと9時の位置より上げることはまずない)、いわゆる“ボンつく”低音が耳についてくる。

  低音で胎児が勢いずく?
 それにこの低音が、というか振動が、壁を伝ってほかの住人の部屋に到達し迷惑をかける恐れもある。

GomiAudio 音キチで知られた小説家の五味康祐ではないが、警察沙汰にでもなったら大変だ。

 五味は「オーディオ遍歴」(新潮文庫)でこう書いている。

 私がまだ石神井の都営住宅にいた頃、当時はグッドマンの12インチで聴いていたが、白昼さほど大きな音でなしに掛けていたのに、道路をへだてた三軒向う隣りの妊婦は、私の家で鳴らすスピーカーの低音部の共振で急に産気づき、大騒ぎになったことがあった。大型トラックがゆっくり通れる道路幅をへだてていて、低音は地面をつたい彼女の住居の畳を振動させ産気づかせたらしいのである。
 また、西大泉の家に移ってから、コンクリート・ホーンで低音の性能の万全を期したわがリスニング・ルーム(20畳)で一夜聴いていたら、隣家から文句がきた。この時も大して大きな音ではなかったと思う。しかしこちらはツンボだからと、ややボリュームを絞って聴きつづけていたら、こんどはパト・カーが来た。これには驚いた。隣家から110番へ電話したわけなのだが、事情をきくと、隣家の雨戸を閉ざしガラス戸を閉めカーテンを掛けてある室内で、その部屋の障子が怪しくガタガタふるえたという。
 (p.105)

 コンクリート・ホーンともなると、今の世の中で考えると狂気の沙汰って感じもしないでもないが、それぐらい低音をモノにするのが難しく、みんないろいろなことを試していたのだろう。

 また、早産を促したというグッドマンのスピーカーは12インチというから、cmに換算すると約30cmになる。わがKAPPAよりも口径だけでいうと小さい。となると、私が妊婦だったら音楽を聴いている最中に産気づいてしまう恐れもある。♂でよかった……

 KAPPA80の、メーカーが推奨する設置方法は、背面の壁から1m、横の壁からも1m離すというもの。

KAPPA80Setting
 
 しかしこんなことしたら、聴く場所がなくなってしまう。
 メーカーの指示を忠実に守ったら、部屋の中央付近に2本のスピーカーをくっつけて並べて置くってことになりかねない。となると、今度はスピーカー間の2~3メートルという指示に反し、すてきな贅沢なモノラル風の再生になってしまう。

 現在の設置状況は、背面の壁から30cm、横の壁から20cm。
 それが限界だ。

PC170429

PC170430


 今よりも多少は距離がとれていたとはいえ、自宅でも他の転勤先の住まいでも、これと大差ないセッティングだった(じゃなければ、やはり生活するスペースがなくなってしまう)。

 なのに、この名古屋のマンションではどうしてこんなに低音がボンつくのだろう?

 壁材や壁の内側の構造の違いによって起こっているのかもしれない。
 さらに、CDプレーヤーやスピーカーコードを換えたり、アンプの置き方を変えたことで-全体的に音は明らかに良くなったが-低音がさらに出るようになってしまったのかもしれない。

 では、この鳴りすぎる低音をどうするか?
 私は重い腰を上げることにした。

  低音関連……
 コレルリ(Arcangelo Corelli 1653-1713 イタリア)の「トランペットと2つのヴァイオリン,通奏低音のためのソナタ ニ長調」WoO.4。

 コレルリ(またはコレッリ、あるいはコレリ)は、後期バロック期のイタリアにおける合奏音楽の代表的な作曲家でありヴァイオリニスト。
 ボローニャ楽派に属し、コンチェルト・グロッソ合奏協奏曲)の創始者として大きな役割を果たした。時代的にはバロック音楽の頂点の作曲家であるドイツのJ.S.バッハよりも30歳以上、年上ということになる。

 1666年にボローニャに出てヴァイオリンを学び、そのあとローマに行きこの町に住んでいた元スウェーデン女王クリスティーナの保護を受け音楽活動を行なった。

 今日取り上げたソナタは出版されずに終わった作品で、“ナポリ音楽院所蔵の手稿に基づき、H.J.マルクスがソナタの形に構成した曲”(井上和男編「クラシック音楽作品名辞典」:三省堂)である。

 ハンガーのトランペット、シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏を。

 録音が古く、さすがに音は苦しくなっているが……

 1966年録音。ソニークラシカル。

 皆川達夫氏は「バロック音楽」(講談社現代新書)のなかで、

 コレルリの音楽には、激情の表情とか巨匠技の誇示といったものがいっさい避けられ、むしろ彼独自の気品と格調とによって貫かれており、他の作曲家と聞き誤ることは決してない。 (p.119)
 
と書いているが、私には実にのほほんとした音楽に聴こえる。

 メロディーにひどく引きつけられるかと言われると、私は答える。「ビミョー」と。
 おととい練った粉わさびのように、刺激がなさすぎる。

 私は低音を改善する決意をしたものの、だが、とはいっても迷いを打ち消せない優柔不断で消極的な気持ちに通じるものがある。

 にしても、“聞き誤ることは決してない”ってのは、言い過ぎのような気が……

鍋を欲するこの頃。そんな爺くさい年頃になった私♪レスピーギ/魔法の鍋

RespighiPrelude  16:30 喫煙室にて
 「なんとなく寒いね」
 「足が冷えますね」
 「あったかいもの食べたいね」
 「鍋なんかいいですね」
 「そうだね」
 「鍋食べに行こうか」
 「鍋は食えないけど、鍋料理なら食べに行きたいな」


 夕方の喫煙室。

 私と千葉課長の会話である。


 千葉課長がスマホでこの辺りで鍋料理を出す店を探す。

 なんとなく人気がありそうな店を発見したが、4名様より予約を承りますとかわがままなことが書かれているそうだ。

 そこで助っ人探し。
 上原課長と牛坂課長に声をかけてみたら、驚いたことに2人とも予定が入ってなくて、短時間のうちに和解が成立した。
 それにしてもモロボシ・ダン(ウルトラセブン)の助っ人だったカプセル怪獣たちは、なんであんなに弱っちかったんだろう?

  18:30 店にて

 鍋料理はおいしかった。

 鍋以外に頼んだイカリングフライも美味しかった。

 私はときおりイカリングフライが食べたくなるのだが、意外とメニューにある店は少ないし、スーパーの総菜にもありそうでない。うれしさのあまり、一緒に持って来てくれたトマトケチャップをつけるのを忘れて食べてしまった。が、イカリングにトマトケチャップというのは私には初めての組み合わせだった。


 さらに、ここでもまた銀杏(ぎんなん)を頼んだ
 銀杏には免疫力を高める効果があると知ってから、銀杏に興味を持ってしまったのである。
 さらに夜尿症の改善にも効果があるのだそうだ。私とは直接的にも間接的にも関係ないが、なんとなくうれしい効果ではないか!(ただし効果は子どもの夜尿症に対してだという。って、子どもじゃない人の夜尿症ってあるのだろうか?)

 しかし、銀杏を食べ過ぎるとビタミンB6欠乏となり、下手すりゃけいれんを起こしたりするらしい。
 また、アレルギーを起こし、下痢や腹痛を招くこともあるという。

 帰宅したあと、なんとなくおなかが痛い気がしたのは、もしかしたら気のせいではなかったのかもしれない。

 レスピーギ(Ottorino Respighi 1879-1936 イタリア)のバレエ「魔法の鍋(La pentola magica)」P.129(1920)。

 前にこの曲の下のCDを取り上げたときに、私はこう書いている。


 ……バレエの筋については、私は知らない。……


 あれから5年半。

 この間に、私はバレエの筋についてちょっぴり知ってしまった。
 ネットに書いてあったのを見つけたに過ぎないんだけど……


 物語は、

 わがままなロシアの姫がいるが、あるとき魔法の鍋だという鍋を1人の農民が持って来て、その周りを姫の前で踊る。姫はその鍋がどうしても欲しくなるが、農民は「欲しけりゃ俺とやら、いや、キスしてくれ」と交換条件を出す。
 わがままではあるが、いやよいやよのぶって姫ではないこの姫は、あんたとキスしなきゃならないぐらいならこんな鍋なんていらない!と、この要求を拒否。
 すると、農民の正体は実はうっとりするような素敵な王子であることを告げる。
 素敵な王子をモノにできなかったわがまま姫は大泣きする。


って感じのものらしい。


 このように、残念ながら、チチンプイプイと唱えると鍋の中からボルシチやらピロシキやらビーフストロガノフやらマトリョーシカが次々と出てくるっていう話じゃないようだ。

 再びノセダ指揮BBCフィルハーモニックの演奏を。

 2002年録音。シャンドス。


  20:30 マンションにて
 イカリングと銀杏と鍋の中の白菜や肉をおなかに収めて帰宅したとき、郵便受けに電気料金の通知が入っていた。
 12月中旬から1か月までの分である。


 それを見て驚いた。
 けいれんを起こしそうになった。
 アレルギーのショック症状が出るところだった。
 大泣きしそうになった。


 いつもの月の2倍以上の9,800円だったのだ。

 この1か月の間、出張や正月休みで10日ちょっとは留守にした。
 なのに、この異常な高さの電気代。

 確かに部屋にいるときはエアコンを入れている。それもこの1か月は寒さが増したので、設定温度を高くしている。
 だから料金が増すのは当然だ。
 当然だが設定温度にはるかに及ばず部屋は暖まらないまま。電気ばかり食うこのエアコンが憎い。

 私は中部電力の家庭向けWEB会員サービスであるカテエネ(どうしても、カエテネと読んでしまう)にログインし詳細を調べてみた。

  翌日8:20 オフィスにて

 翌朝もおなかが少し痛かった(朝から味の素の冷凍チャーハンをガッツリ食べてしまったせいだろうか?)。

 氷山係長にこのことを話した。おなかが痛いことや朝からチャーハンを食べたことではなく、電気代のことを。


 私もですよと、彼もけいれんを起こしそうになったことを白状した。

 ずっと留守にせずにひきこもり状態だったせいか、でも部屋はやはり寒々とした状態から改善しなかったのにもかかわらず12,000円。通常月のやはり倍以上だったという。

 氷山係長と競い合うつもりはないが、私も30日間に換算したらこれぐらいになるのだろう。


 さてカテエネで調べたところ、今回はここに住んでからダントツな使用量だったことが判明した。
 これまでいちばん使っていたのは昨年3月だが、その約2倍。

Kateene1

 去年の2月も寒いことは寒かっただろうに(けど梅が咲いていたな)、それほど使っていない。
 ここ1か月、確かにエアコンをフル稼働させているとはいえ、こんなに突出しているのは不思議といえば不思議(ただ、マッチ売りの少女のような状態に耐えきれず、電気ストーブのスイッチをときおり押してしまったことがあった)。

 にしても、電気代の割に全然暖まらないこの費用対効果の悪さ(火鉢でも置きたいぐらいだ)。
 しかも節電をせずにひどく環境に悪いことをしているような思いにも襲われる。
 ほら、202kgも二酸化炭素を排出してしまっているではないか!

Kateene2


 でも、類似家庭の他のお客さまと比較するとエコという評価をいただいた。

Kateene3

 ちょっぴり安心したニャ。

 っていうか、他の月が電気使わなさすぎなのかも……

私は社長兼社員……?ブリス/来るべき世界~行進曲

40Marches  かつての勢いは……
 私が登録しているSNSはTwitterだけで、それもブログを更新すると同時に、更新のメッセージが投稿されるという使い方だけである。はっきり言いたくないが、はっきり言うとあまり意味のある使い方ではない。

 Twitterが業績不振であえいでいると言われて久しいが、それはなぜかというと、知りたい人はネット記事を読めばよいと思うが、なかなか深刻そうである。


 利用者の伸び悩みによって広告収入も減っているためだろう。

 ここ半年ぐらいでTwitterから頻繁にメールが来る。

 それもつぶやき程度なんかじゃない、本格的なセールスである。

 最近来たのがこれ(〇〇は私のアカウント)。


 〇〇さん、フォロワーの存在は御社のビジネスにとってメリットとなります。

 こんにちは @〇〇 
 
 調査によると、Twitterフォロワーは、御社からの情報に大きく反応してくれる価値ある人々です。たとえば、フォロワーの70%は、リツイートによって企業の情報を拡散しています。またフォロワーの43%は、フォローしている企業から商品やサービスを継続的に購入しようと考えています。* フォロワーキャンペーンを使って、御社フォロワーを短期間で大量に獲得しましょう。

 フォロワーキャンペーンでは、ユーザーがTwitter広告上のフォローボタンをクリックした場合のみ支払いが発生します。ユーザーがフォロワーになった後は、何度でも繰り返し御社の情報を届け、エンゲージメントを得ることができます。


 これってみんなに送っているのだろうか?

 つまり個人か会社かの区別なく、みさかいなく送っているのだろうか?

 私個人に対してこんなふうに「しましょう」なんて言われても、「はい、してみます」なんて考えには到底いたらない。


 その前に来たのは、


 〇〇さん、より広い商圏でフォロワー層を増やしましょう。

 こんにちは @〇〇 
 
 Twitterでは、多くのユーザーが、魅力的なアカウントを探してフォローしています。フォロワーはツイートを見るだけでなく、リツイートで拡散したり商品を購入するなど、御社のビジネスに利益をもたらすアクションを起こしてくれます。

 フォロワーキャンペーンで、世界の200以上の市場に向けて御社の商品やサービスをアピールしましょう。ユーザーがTwitter広告のフォローボタンをクリックした場合のみ広告費用のお支払いが発生します。ユーザーがフォロワーになった後は、何度でも御社の情報がそのユーザーへ届き、エンゲージメント(反応)を得ることができます。


 私、商品なんて持ってないし、アピールできることといえばこの容姿しかないわけだし、広告費用なんてお支払いしたくない。

 さらにその前に来たのは、
 
 今すぐTwitter広告でフォロワーキャンペーンを始めましょう。

 @〇〇さん、御社のアカウントを世界中にプロモーションしましょう。

 こんにちは @〇〇 
 
というものだが、本文は2回目と同じだった。


  この先どのようにに進んでいくのか?
 会社(法人)にだけを選んでそこ宛てだけに送るのは難しいものがあるのかもしれないが、一邦人かつ一個人であるわが身に送られてきても、逆になんだか不信感とわずらわしさを感じてしまう。


 こういう手法が、この先さらなるつぶやき嫌いを増大させないことを願ってあげたい。

 ブリス(Arthur Bliss 1891-1975 イギリス)が映画「来るべき世界(Things To Come)」(1936)のために書いた音楽(1934-35)の中から「行進曲」。

 「来るべき世界」はH.G.ウェルズ原作のSF映画。


 戦争、疫病の流行、独裁者支配、科学文明の発達とそれに対する反発……

 なんだか今の世の中にも通じるような通じないような、という世界。原題と邦題のニュアンスがけっこう違う気もするが、もちろんこの映画を観たことのない私にはなんとも……


 私が持っているのは有名な行進曲を集めたオムニバス盤に収められた演奏で、ハーマン指揮ナショナル・フィルによるもの。

 1975年録音。デッカ。

アロエも元気に過ごしてる♪フローラン・シュミット/4つの小品

  運動のためにあえて近くまでお出かけ
 昨日の記事でほんのおさわり程度に書いたが、日曜日の朝は道路も7割がた雪で白く覆われ、黒くアスファルトが出ているところも濡れているのではなくブラックアイスバーンのように見えた。

 空の機嫌は一晩中悪かったようだ。
 降りしきる雪の向こう側に青い光を放つ空。
 そんな写真を撮ったので載せておく。

P1150013

 私はといえば、朝食後に風呂に入ったわけだったが、そのときに数日ぶりに体重を測ると、やはり喜ぶべき事態にはなっておらず、さらに体脂肪率も精肉売り場に並んでいる豚バラブロック肉を思い起こさずにはいられないような値だったので、運動しなければならないと思い、ちゃんと服をまとったあと、前日とは別のスーパーに剥けて散歩に出た。

  水難には遭わず
 昨日とは違って、歩いていても頭上の電線から水がしたたり落ちてこない。
 今日の方が気温が低くて雪が解けないのだろうか?いや、それほど寒いとは言えない。
 不思議に思って上を見ると、電線がなかった(反対側の歩道に電柱があった)。
 ちぇっ、そういうオチかい。つまんねーの。

 歩道沿いのよそ様の庭に植えてある木も「あら、雪のお帽子をかぶってるわ」、なんてワカメちゃんのような発想をしているうちに、店に着いた。
 
P1150012

 買うものは特になかった。
 ここに来たいちばんの目的は運動だが、2番目の目的はスーパーの外扉と内扉の間のスペースに置かれている(そうしないと夜間など無法地帯と化すだろう)資源物回収箱のペットボトル担当の箱に、ハイボールを飲むことによって否応なしにたまってしまったペットボトルを捨てに、いや再利用に供してもらうために投入することだった。

P1150016 が、悪天候のせいなのだろう。まるで開店前のように客がいなかったので中をのぞき、のぞいたからにはタダでは帰れない気の弱さで、ジッパー付き袋であるジプロップとレタスとあげ玉(天かす)と練りからしと天然だしパックと緑豆もやしと極旨玉子太巻を買った。

 あげ玉と天然だしパックを買ったのは、そばをゆでて食べたときに使い切ってしまったからである。
 もやしを買ったのはこの日の昼はラーメンを食べるつもりだったからである(それは予定通り執行された)。
 ジプロップを買ったのは、前日の昼に作ったカレーを冷凍保存するためである。
 練りからしを買ったのは、金曜日の夜にファミマの冷凍シューマイを食べたときに、貧相にわずかにチューブの中に残っていたものを使い切ってしまったからである。ちょいと奮発して、また北海道という文字に魅かれ、“本生”シリーズよりも高い商品を買ってしまった。
 レタスは野菜を摂らねばならないという自己満足感を満たすためである。
 極旨玉子太巻は並んでいるのを見て、実際極旨そうに見えてしまい、エビかつ太巻と迷った末に、やはり揚げ物はカロリーが高いと自制して、でもじゃあ太巻きシリーズのどれにしたって買わずに終えればいいものの(実際、入店したときには、総菜類を買うつもりなど針の穴ほどもなかったのだ)、完全に自制しきれずに折衷的に手を出してしまったのだった。これを夕食に食べることにしたが、この衝動買いによって、夜に想定していたたいしたことのないメニューの変更を余儀なくされた(でも、この玉子太巻は想像以上おいしかった。4切れしか入っていないことに怒りをおぼえたほどだ)。

 買い物を終え、そういえばあのアロエはどうなっただろうと、これまた不要不急の回り道をし様子を見に行くと、雪をかぶっていながらも元気に花を咲かせていた。

P1150014

 サボテンや多肉植物も水切りをすれば(ほとんど水をやらなければ)かなりの低温まで耐えるということは知っていたが(体液(って言うのかね?)が濃くなって凍結しにくくなる)、この鉢植えのアロエはほとんど路地に放置されており、前日の雪解け水などで土はびちょびちょ。なのにこの寒さにびくともしていないとは驚きだ。0度を少し下回るくらいならへっちゃらということらしい。

 さらに昨日の記事に掲載した写真の2枚目に写っているソテツ。
 物好きにそのそばまで行ってみたが(よそ様のお庭にそびえ立っている)、葉に雪を乗せながらも寒いなんて弱音を吐かずに威厳のある姿を保っていた。

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  再評価の動き
 ところで、フローラン・シュミット(Florent Schmitt 1870-1958 フランス)の「4つの小品(Quatre Pieces)」Op.25(1901)。

SchmittSonate この曲を取り上げたのは、CDのジャケット写真に写っている木が、昨日の記事(今日は昨日の記事へのリンクが嫌がらせのように多く、ご丁寧に全部クリックしてくれた方には「すまないのぅ」と申し上げたい)に載せた木に似ているから。

 それだけの理由ですけど、アタシいけないことしてますか?

 シュミットの作品については、私は長いこと吹奏楽曲の「ディオニュソスの祭」しか知らなかった。

 それもそのはずで、このCD(ナクソス)の帯に書かれているように“以前は、なかなか音を聴くことができない作曲家”だったそう。しかし、近年再評価の動きが高まっているようだ。

 ラヴェルと親交が深く、メシアンに管弦楽法で影響を与え、またストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演のときに大騒ぎした客に向かって「16区のガルスたちよ、お黙り!」と叫んだ人物だ。
 この叫ばれた相手たちである“16区のガルス”というのは、客席にいたパリの貴婦人たちのことだが、ガルスには少女という意味のほかに売春婦の意味もあるという。

 「歌」「夜想曲」「セレナーデ」「舟歌」からなる「4つの小品」はとてもロマンティックな、甘美でサロン風な曲。だが、ただ甘くロマンティックなだけではなく、スパイスも効いているので単調にならない。
 これを聴くと、再評価の動きが高まっているのが理解できる気がする。

 ハルスカのヴァイオリン、シャイクァンのピアノによる演奏で。
 この録音は、デジタルとしては本作品の世界初レコーディングということだ。

 2014年録音。ナクソス。

 親切な私は昨日の写真をもう一度載せておくことにしよう。

P1110002

それでもソテツは耐えている♪伊福部/寒帯林(by 栃木県so)

  白川郷はさすがにすごい
 昨日のテレビ画面はNHKも民放も(テレ東系列の局は別世界だったようだが)朝から Γ やら ∟ の帯が出て、そこに大雪に関するテロップが流れていた。

P1140003

 あっ、翼くん、誕生日おめでとう!(阪神大震災の当日に生まれたという)。

 北海道人の私としては、この時点ですでに96cmも積もったという岐阜の山の中の白川は確かにすごいとは思うものの、マンションの窓から見える景色は、屋根屋根がうっすらと雪が積もって白くなっている程度。それも屋根の下地が透けて見えるくらい。
 やや横殴りに雪は降っているが、それもたいした暴力的ではないし、道路だって濡れているだけ(ただし、今朝の道路は圧雪アイスバーンに近い感じだった)。

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 こんなんで大騒ぎしてなんてことでしょう!とは思うものの、ふだん雪が降ることがないわけだから、これでも大問題なわけだ(受験生の皆さんはホント、気が気でなく、たいへんだろう)。

 そういえば、前の日の夜のニュースでは“家庭でできる水道管凍結対策”っていうのをやっていた。
 そっか、こっちって凍結防止の水抜き栓っていうのがないんだ……

 日本って縦長ぁ~。

 いつも朝焼けで印象的なシルエットを見せる遠くの木と雑木林も、今日は寒そうだ。

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P1140013

  ふだんは乾燥しているのに……
 実際、気温が下がっているのは間違いない。
 朝、カーテンを開けたときに、珍しくサッシに結露があった。

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 夜のうちに私が悪い夢をみてうなされ、大量の汗をかいたせいで室内の湿度が上がったせいではない。湿度はインフルエンザ・ウイルスが弱体化する最低限界値の40%だった(それでもいつもよりは5%くらい高い)。それなのに結露しているということは、結露するぐらいサッシが冷やされるほど外の気温が下がっているのと、窓周辺の断熱がなっていないためだ。

 この日も含め、外を歩いているときには寒いことは寒いが、全然大したことはないと思うが(道産子である上に、去年まではかなり冷え込む帯広に住んでいたのだ)、部屋の寒さはこたえる。

 マンションの暖房はエアコン一筋なのだが、設定温度をマックスにしても室温は17~18度ぐらいで停滞してしまう。これでは半袖シャツでビールを飲むことができない。

  そして散歩へ……
 さて、朝食は前日の残りのそばを、温かいワカメそばにして食べ、マックスバリュの開店目指して外に出た。

 上に書いたように寒さは私にとってへっちゃら(厚着したし)。
 が、北海道ではなかなか経験した記憶がないのが、電線から落ちてくる水滴。

 北海道の場合-もちろんうぶな私の乏しい経験でしか言えないが-雪が降っても特別な気象でない限り電線に着雪することはない。気温が低く雪が軽くいので着くことなく吹き飛ばされてしまうのだろう。

 ところが昨日は、歩道を歩いていても水がボタボタ落ちてきてまいった。
 電線というものが歩道の上に、私の軌跡を先行するように頭上に張り巡らされていることを、この日改めて知った。歩道が広いところなら避けることもできるが、私は歩道が狭い道を選んでしまったのだ。というのも、そこが近道だからである。

 したたり落ちる水の刺激を受けながら、歩道沿いに寒そうに咲いている花を撮影。

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 降った雪が電線に着く、もしくは積もり、すぐさま融けて下に垂れる。
 このことを教訓として学んだ。

 買い物のあと-買ったのはティッシュと豚肉と、たまたまワゴンセールで安くなっていた鯖の味噌煮の缶詰である。不要不急な外出をしてしまった-別な道を歩いていると、こんな光景が。

P1140010


 どうやら空き家のような感じもしたが、なにが“なごやか”かは知らないが、だからといって少なくとも郵便受けにゴミを突っ込んで行っていいってアピールじゃないと思うのだが……

 って感じで、こんなん雪が積もったって言わないじゃんなんて思っていると、ちょいとした段差で足を滑らせてしまった。
 あぶねぇ、あぶねぇ……

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 いや、雪で滑ったのではなく、足腰が弱っているせいだ。

  気になるところは少なからずあるが……
 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の音詩「寒帯林(ARCTIC FOREST)」(1945)。

IfukubeTochigiso この作品については、高関健/東京交響楽団による録音がすでにあるが、今日ご紹介するのは今井聡指揮栃木県交響楽団による演奏。

 栃木県交響楽団はプロのオーケストラではない。
 1970年に栃木県の要請によって結成されたオケだそうで、けっこう歴史がある。

 指揮の今井聡は汐澤安彦に指揮を師事したが、作曲も池野成と伊福部昭に師事したそうだ。
 詳しい活動内容については、私はわからない。

 さて、この「寒帯林」だが、弱音での弦のアンサンブルが安定しないところがあるが、失礼な言い方になるが、想像していたよりも立派な演奏だ(ただ、楽器由来と思われるヘンな音があちこちで聞こえる)。
 録音に不自然なところがある(休止の後の急な音の減衰など)のが、ちょっと気にかかる。

 このCDに収められた演奏は、2016年6月に行なわれた“伊福部昭 没後10周年記念演奏会”のライヴ録音。

 ほかに「プロメテの火」第3景、交響ファンタジー第1番、リトミカ・オスティナータ(p:山田令子)が収録されているが、それらの演奏の感想については別稿で。

 ゼール音楽事務所。

正月に食べたお餅は2個だけでしたけど……♪GM/Erde(by ベルティーニ)

MahlerComp Bertini  貴重だったみんなからの年賀状の一言
 ふつうならいろんなものをだらだらと食べ、体を動かさずにだらだらと過ごす正月中に体重が増えるというのが世の一般的な傾向である。

 私もそうだった。
 しかも幸いなことに正月三が日はほとんんど雪が降らなかったので、雪かきという切羽詰った運動もせずに終わったのが不幸だった。私は2kg太ってしまった。

 中学生のころは、クラスメイトから来る年賀状には、暗黙で必ず書かねばならない“おもち食べすぎないように!”という警告文があった。
 しかし、いい歳になると、誰もそんな忠告あるいは警告を与えてくれない。
 それがまた、食べすぎないようにということをついつい忘れてしまうのだ。

 さらに、仕事が始まって来客が続き一緒に食事をする機会が多く、三が日以上に飲み食いしている。
 どう考えても体重は増えることはあっても落ちることはない状況下に私は置かれているし、さらに警戒しなくてはならないのは尿酸値が上がってないか、発作に結びつかないかということである。

 来月は定例の血液検査があるが、尿酸、ヘモグロビンA1c、中性脂肪の値がおせち三段重のごとくボリューミーに上がっていて、お医者様から散弾銃のごとく罵りの言葉を浴びせられるのではないかと、いまから恐れおののいている。

 尿酸、中性脂肪なら前日から葉っぱしか食べないということで一時的に強制的に下げることもできるだろう。が、ヘモグロビンA1cは1か月から2か月前の血糖の状態=つまりは不健康な食生活が反映されるわけで、いまさらながらどうしようもできないのだ。

  火曜日の昼食
 大阪からお客さま3名がやって来て、昼食をともにした。
 こちらは牛坂課長と凸川係長と私。

 フィーリングカップル5対5でドタキャンで4名欠場したように3対3で向き合って食べたのは、おひつの中にご飯が入っていてその上に茶色い焼魚が乗っていて、そのまま茶碗によそったり、薬味のネギや海苔をかけたり、どぼどぼと汁をかけてズリズリとすする三変化料理

 もちろん美味しい。
 が、量的にはやや多い。尿酸値も跳ね上がりそうだ。そんなことを思いながらも完食。
 お客さまも満足。

  火曜日の晩餐

 私は氷山係長とオディール・ホッキーさんと中華料理を食べに行った。
 このような素敵な催しがあるなら、昼のご飯を3口分残すんだったと悔やんだ。

 店は、氷山係長がなぜかそこの女性店主にカオがきく“欽さん”(←われわれによる愛称)である。もしかするとあの2人、親子なのかもしれない。

 この日の主たる話題はオディールさんがJBLのワイヤレスカナルイヤホンを買ったということだった。
 ひとしきりJBLやらタンノイやらと話はオーディオのことになった。
 焼き餃子よりもカロリーが低い水餃子や植物性たんぱく質が豊富な麻婆豆腐、腸にやさしい乳酸菌が表面にまとわりついたザーサイを食べながら、アメリカやイギリスのスピーカーの話をするのも、考えてみればミスマッチなことだ。ヒスイの置物の話もすればよかったと反省する。


 反省すると言えば、この日はこの店に4時間半も居てしまった。
 仕上げはハーフサイズの担担麺。
 翌朝はひどく寝足りない気がした。


  水曜日の昼食
 翌水曜日は朝から松阪方面へ出張。
 千葉課長や伏草課長、回平係長など総勢8名が大挙して近鉄に乗って移動。

 午前中のうちに取引先へ新春のお慶びを申し上げるという重要ミッションを終え、昼は中華。
 千葉課長ご推薦、三城係長太鼓判のである(紅虎餃子房と同系列だという)。

 私はまた担担麺を頼んだ。白、黒、紅とあったが(この順で辛さが増すらしい)、心がピュアな私は白を選んだ。頭の中が真っ白な回平係長も白。上原課長は黒。

 ちなみに伏草課長と千葉課長は麻婆丼。
 「ここの担担麺は本格的でおいしい」と言っていた千葉課長が、直前で担担麺にしなかったのは謎だ。
 だが、千葉課長の言うように、ここの担担麺は山椒がきいた本格的なもので、麺も太麺で食べごたえがあった(名古屋で食べる担担麺はたいていは麺が細めである)。が、私には山椒が効きすぎている。


 注文した料理が次々と運ばれて来たのに、なぜか私と同じ白ごま担担麺を頼んだ回平係長のがいつまでたっても来ない。

 結論から言うと、オーダーが漏れていたのだ。
 結論から言わなくても、オーダーが通っていなかったわけだ。


 よかった。
 下手に親切心を出して、私のが運ばれてきたときに「先にお食べ」と回平係長に譲らなくて。
 そんなことしたら、私は帰りの近鉄電車のなかで低血糖で倒れてしまったかもしれない。私は係長にひどく同情しつつも、自分だけが白担担にありつけている後ろめたさから視線を上げずに淡々と食べた。

 回平係長はわれわれより一足早く別な用務先へ向かわなくてはならず、店員の「すぐデキマス」という言葉を遮り店を出て行った。
 彼の習性を私は知っている。
 朝食は食べない主義なのだ。いや、主義ではなく、独身の彼はめんどうだから食べてこないのだ。
 朝も昼も食べないで、まことに気の毒なことだと満腹になった私は思った。

20150117TANTAN なお、伏草課長は熱さと辛さに悪戦苦闘しながら麻婆丼を食べていた。

 それにしても、美珍楼(かつて珍宝楼の仮名でとりあげていたが)の担担麺(写真)が猛烈に食べたい今日この頃である。

 

  水曜日の夕食
 この日の夜は札幌から客人が来ることになっていた。
 そしてまた、その客人のたっての願いで手羽先の“流浪人”に行くことが昨年のうちに決まっていた。

 私は“流浪人”より“山ちゃん”の手羽先の方がおいしいと思っていたが、あらためて食べてみると、全然“流浪人”

の方がちゃんとしていることに気づかされた。そもそも手羽のジューシーが違う。このときの印象は180°変わった。
 初流浪に客人も満足してくれたようだった。
 しかしながら私としては銀杏がいちばんおいしかった。

 
 そして案の定、この日も飲みすぎてしまった。


  木曜日の朝
 やはり前日は飲み過ぎたらしい。朝起きるのが、珍しくつらかった。2日間のダメージが沖積層のようにたまっていた。
 
 マーラーの歌にあるように、好きなだけ自由に眠っていたかった。

 出勤すると三城係長に、声がガラガラですと言われた。
 歌ってもいないのに声がガラガラになるのは不思議だ。でも、ガラガラっていうものオーバーな言い方だ。か

なり症状を盛って私を不安がらせたに違いない。


 前日の担担麺がノドにやさしくなかったのではないかと私は思うことにした。


 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)の第5楽章。

 酒におぼれ、酔いつぶれたらそのまま眠り込み、また飲み、眠る。


 そんな内容だ。


 原詩は李白の“春日酔起言志”。

 この中国人がうらやましく思った。


 「大地の歌」を今日はベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団、リポウシェク(メゾソプラノ)、ヘプナー(テノール)の演奏で(→過去の紹介記事)。

 巷でも評価が高い、「大地の歌」の名演の1つだ。


 1991年録音。EMI。


  木曜日の昼
 このところ食べ過ぎ傾向にあるので(飲み過ぎの方は傾向ではなく明らか)、昼はサークルKの幕の内弁当に

した。この幕の内はなかなかである。あえて注文をつけるとすれば、ご飯がやや硬めというところか(この商品をネットで検索したがなぜかヒットしなかった)。
 寝不足をずっと引きずっているので弁当を食べた後ひと眠りしようと思ったが、うまく眠れなかった。

 この日は仕事が終わると即帰宅。
 どうしてもレンジで温めるかき揚げそばが食べたい気分だったのに、よりによって立ち寄ったファミリーマートにはラーメン系やきつねうどんはあるのに、そばは冷やしとろろそばだけ。
 悔しいから、やわらかロースカツ丼を買った。

  金曜日の昼
 セブンイレブンのガーリックチキン&ハンバーグ弁当を食べる。
 税込520円である。東海地区限定である可能性が高い。が、ネットでは見つけられなかった。

 外食するよりはずっと安いが、HottoMottoの日替わりランチ(500円)やロースかつ丼(470円)より高く、和風幕の内弁当(540円)やてりやきハンバーグ&エビフライコンビ弁当(570円)より安い。

 弁当の値段って、なんでこんなに安いの?というのや、これでなんで500円以上するの?っていうのもあって、なんだかよくわからない部分がある。

 そして、この日の夜はリベンジで、自分でそばをゆでて食べた。



原始林もあるでよ♪ゴットシャルク/最後の希望

  北海道、それも道央圏が舞台の小説
 新千歳空港では置いてなかった本

MurakamiRyuExo それは村上龍の「希望の国のエクソダス」(文春文庫)である。

 この本が北海道新聞の日曜版で紹介されていたのが去年の9月18日のこと。
 それを大切にとっておいたのだが、大切にしまっておいたゆえに保管場所がわからなくなり、年末に片づけをしていて発見した(銀のさらとドミノピザのチラシの間にはさまっていた)。
 発見したといっても、その紙面をとっておいたこと自体忘れていたが。

 そこにはこう書かれている。

 村上龍の小説「希望の国のエクソダス」で、集団不登校を起こした中学生たちが将来を託した移住先が野幌だ。札幌と千歳の間にあるという架空の合併市で「ノホロ」と読む。時代設定は1990年代から2000年代にかけて経済成長が滞った「失われた20年」にすっぽりとはまる。

 つまりは札幌の隣町、江別市の野幌が舞台というわけで、読んでみたいと思ったのだった。

 村上龍の作品を読むのはこれが初めてである。

 遠い昔。氏が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞したことはもちろん知っていた(1976年のことだそうだ)。で、村上春樹とともにW村上で時代を象徴する作家として位置付けられたそうだ。

 そもそも村上春樹にしても、私が初めて読んだのは遅く2004年のことだ。おくてなボク。
 でも、もう15年も経つんだ。

 その村上春樹。
 昨日の新聞に新潮社が、新刊を出すぞという広告を載せていた。

 広告によると、7年ぶりの本格長編でタイトルは「騎士団長殺し」。
 第1部「顕れるメデア」編と第2部「遷ろうメタファー」編の全2冊が2月24日に同時発売。

 あれ?「多崎つくる」が発刊されたのって2013年。7年ぶりじゃないじゃん。
 「多崎つくる」は文藝春秋からだったから、これって新潮社からは7年ぶりってことか?
 そっか。そうなんだなきっと。「1Q84」が出たのが7年前だからな……

GottscchalkTropics  ノホロにはすべてがあるらしいが……
 「エクソダス」は1998年から2000年にかけて執筆された小説だそうで、新聞に触れられているように、小説の内容のとおりもし30万人規模で人々がノホロに移住したとしたら、野幌はいまごろ大賑わい。飲み屋も風俗も建ち並ぶ大歓楽街になったかもしれない。

 ゴットシャルク(Louis Moreau Gottschalk 1829-69 アメリカ)の「最後の希望(The Last Hope)」Op.16(1854)。


 超絶技巧派のピアニストとして活躍したゴットシャルクが残したピアノ小品の1つ。

 讃美歌の旋律が現われる(あるいは、このメロディーが讃美歌に転用されたのか?)。


 メイヤーのピアノで。


 2014年録音。ナクソス。


 そうそう、去年のクリスマスころに野幌駅近くの“マチノキ”というレストランに行ってシチューを食べたが、なかなかおいしかった。
 町村牧場とシェ・キノというフレンチ・レストランとのコラボで出店された店だという。だから“マチノキ”(キノマチでも悪くないように思うが)
  ※食べログでは最寄駅が高砂となっているが、野幌駅が最寄りである。

 シェ・キノには全然良い思い出はないが(ライスを頼もうと思ったら、その私の願いを伝言したお姉さんが厨房の奥でシェフに「そんなのねえよ」みたいに言われているのが聞こえたのだ。私はおとなしくパンをかじることにした。5年か6年前のことだ)、この店はライスもあるし、ちょいと素人っぽい客対応もむしろ素朴で交歓が、いや、好感がもてた。

 ところでなぜ私は村上龍をこれまで読もうと思わなかったのか?

 漏れ伝え聞くところによると「限りなく~」は自堕落な若者を描いているという。
 自堕落でない私には受け入れがたいと思ったのと、私はブルーという色を、それも透明なブルーが好きだったのでイメージを壊したくなかったのだ。いま、取って付けた理由だけど。

  透明なブルーがやる気を起こさせる
 透明なブルーというと、私は小学校3年か4年の時に買ったブルーの透明な下敷きを思い出す。

 それまでタイガーマスクとかのキャラが描かれた下敷きしか使ったことがなかったので、大人になった気分になったものだ。そしてなにより、ジャポニカ学習帳にそれを挟み込んだ瞬間、「よし、勉強するぞ!」という実に前向きな気持ちが湧いた。
 が、文字を書き始めると、あいかわらずの汚さで、やる気はすぐに失せた。

 それはそうと江別市には野幌という名がついた住所がたくさんある。
 本家本元はJR野幌駅前(西側)の野幌町ってことになるのかもしれないが(ならないかもしれない)、野幌原始林の南幌側は道道46号線(江別恵庭線)をはさんで西側が西野幌、東側が東野幌という地名であり、このあたりも由緒正しそうだ。

 ほかに、東野幌町、野幌東町、東野幌本町、野幌美幸町、野幌末広町、野幌松並町、野幌若葉町、野幌住吉町、野幌屯田町、野幌代々木町、野幌寿町という住所がある。郵便局のみなさん、宅配便のみなさん、大変ご苦労さんです、と言いたくなる。

 ちなみに、北海道の地名に多く使われている“幌”は、アイヌ語で“大きい”“広い”という意味なんだそうだ。

UじゃなくOOです♪オケヘム/第4旋法によるミサ……

  いまだに正月気分ってわけじゃないが……
 1月3日の北海道新聞に折り込まれてきたコープさっぽろのちらしである。

IMG_20170103_0001
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 上下がずれたのは私のテクが不足しているせいだ。
 が、8の字が鎖のような模様を描いていて、これはこれで悪くない(良くもない)。

 で、私はカップヌードルのデザインが変わったのかと思った。

 しかし、それは CUP じゃなく COOP だった。

 善良な組合員を欺こうという手段か?
 たちの悪いパクリか?
 Adadisと書かれたジャージと同類か?

 本家に似ているが、本家よりダサイ。印刷に金をかけていないということ以上に田舎臭く感じる。色合いのせいだ。

 が、調べてみるとご本家日清食品と日生協が共同で開発したカップめんらしい。
 しかも、最近できたものではなくてけっこう歴史があるようだ。

 知らなかった。
 食べたくなってきた。

 母親が生協派だったら、これを買うんだろう。
 その家庭では、子どもは「母ちゃん、一度でいいからカップヌードルっていうのを食べてみたいよう」って思っているに違いない。

OckeghemRequiem  スペースもしくは ・ が欲しかった
 このチラシの下段。
 文字がたくさん並んでいるところに“ミツカン中華の素酢豚”とある。

 一応解説しておくが、中華のススブタと読んではいけない、中華の素・酢豚である(たぶん)。このように続けて書くと誤解を生じる(どんな誤解かは想像できない)。

 “味付メンマ三味(みみ)”とか“ダブルラーメン”っていうのは、北海道ならではなのだろうと思う。

 三味は家庭でラーメン(インスタントではなく西山製麺の麺と西山製麺のスープで)を作るときには欠かせない。いわゆるシナチクなんだけど、いまはこの言葉は禁止用語なのだろう。

 フランドル楽派オケヘム(オケゲム。Johannes Ockeghem 1410頃-97 フランドル)の「ミ・ミ(Mi-mi)」。

 自作のシャンソンを定旋律とする4声のミサ曲。

 かつては第4旋法によるミサ「ミ・ミ」と呼ばれたと、「クラシック音楽作品名辞典」(井上和男編著:三省堂)に書かれているが、かつてっていうのがいつぐらいかつてなのか、私にはわからない。

 カップでもコープでも、メンマでもシナチクでも、すぶたでもすすぶたでもそんなことどうでもよくなるような、襟を正して聴かなければという気になる敬虔な音楽である。

 キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス&ベネディクツス、アニュスデイからなる。

 ヒリヤード・アンサンブルの演奏で。

 1984年録音。Virgin Classics。

  ジューシーな懺悔ではなく
 同じ日のマックスバリュのちらし。

IMG_20170103_0003

 これまた北海道固有の呼び方である“ザンギ”という文字が。
 しかもジューシーときた。こりゃ、たまらん(って、言っちゃ悪いがしょせんは総菜……)。

 ねっ?
 北海道じゃ“鶏の唐揚げ”なんてめんどくさい言い方をせずに、ザンギっていうのが一般的だってことがわかるでしょ?

 で、ぽったぽった揚げってどんなもんなんだろ?

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