説得力あるお言葉
トーン・コントロール・ステージの働きは、周波数に対する増幅度、つまり周波数特性を人為的に変化させることにある。こうすることによって音色の変化を造り出すわけだが、この結果、当然波形の変化もきたすことになる。しかしこれによる波形の変化の目的は、このステージに至るまでに不測の変化を起こしているものを、もとにもどすことが主眼である。あるいはスピーカーの特性が高音不足気味であれば、それをここで補うこともできるということもある。
しかし、波形を変えるという事実から、一元的にこれを毛嫌いする人もいるが、所詮受身一方のステレオ・ファンの立場としては、本当のもとの音の波形は知るよしもないのであるから、トーン・コントロールによって自分として納得のゆく音色を得ようとすることは決して間違っていないと思う。
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……トーン・コントロールなんて忠実度の高い再生には無用の長物、のみならず有害である、という風潮が過去に幅をきかした時代もあるし、また現在でもその思想は多少なりとも生きている。特に自称マニアという人々の中には確たる根拠もなしに、やたらトーン・コントロールを目の仇にする人もいるようだ。そこでこの間の事情をまず述べておくことにしよう。
一昔前、つまり回路技術が今ほど進歩していなかった時代のトーン・コントロールは確かにひどいものがあり、ひずみ発生回路というか、不自然音質調整回路というものが大半をしめていた。しかし同時に当時といえどもよいものもあったし、反面現在でもひどいものが全然無くなったわけでもないから、クソミソごったに毛嫌いするのは偏見というものだ。
次なる理由は入ってきた信号を全く変えずに出力する高忠実度再生の思想からいえば、信号が通過するステージは少ない方がよりよいという正しい根拠によるもので、直接物を見るのとどんなに透明なガラスでも、それを通して見る場合との違いをいっているわけだ。
しかし、ガラスを通すとすべて悪く見えるわけでもない。
悪く見えようが、音を聞いて楽しくなかろうが、吾れ高忠実度に向う!ということになれば、筆者もトーン・コントロールなんて温存しようとは思わないが、ステレオを楽しみとするなら、イデオロギーをふりかざすのは自分一人だけに止めたいところである。
結論としてよいものであることを前提として、ステレオの楽しみにとって有益無害な補助回路がトーン・コントロールである。しかしこれを有益に使うには若干の知識が必要なのはいうまでもない。
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トーン・コントロールはこれをよく使っている人と、まるで使わない人の二種類に分かれるようだ。またよく使う人でも、もとになるプログラムにないのに低音をやたら上げたり、再生音全体の大小に無関係に廻している人も少なくない。また上げるばかりが能でもなく、低音成分の乏しいプログラムなどはむしろ低音を抑えると雑音も少なく美しい音になるし、またスピーカーとして低音が鳴り響かない置き方を敢てとったうえで、トーン・コントロールでやや低音を上げてやるなど、意外に疲れない音造りもできる。また再生音量が小さく距離が離れているときは、原則的に低高音は不足し勝ちであるからこれを補うことも大切である。
さらに私見を述べれば、音楽にはその曲の種類や演奏、録音の形式によって、いかにもそれにふさわしい音色があると思う。相手かまわず、弦の松ヤニの音や、ティンパニーやドラムスのなかに首を突っ込んで聞く音を追っかけるのは、音楽のために当を得ているとは思えない。再生音に距離感を与え、大らかに漂う音、あるいはショッキングに生々しい音、それは音楽のために使用者が選んでやるべきだ。そうなるとトーン・コントロールのツマミこそ御ツマミ様と呼びたい程楽しいものになるし、販売店が喜ぶからというだけで、やたらドギツイ変化特性の、いわば使用者不在のトーン・コントロールなど、馬にけられて死んじまえ!ということになる。
実に心強い考え方である。説得力もある。 昭和50年頃に流行っていたギャグ?なわけないな……
これは土屋赫(あきら)氏の「オーディオ エンサイクロペディア」(音楽之友社)のなかに書かれていることである。
“御ツマミ様”とか“馬にけられて死んでしまえ!」など、寒冷前線が居座るような表現が時代を感じさせるが、第1刷発行は昭和50年3月20日なので、まさしく何世代も前の著書だ。
私は将来自分がステレオ装置を持つことができるときを夢見て、生徒会活動にも参加せず、美化委員の手伝いもせず、こういう“大人”の本を読んでいたのだった。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「馬あぶ(The Gadfly,独:Die Hornisse)」Op.97(1955)。
ここに書いたように映画音楽である。
アトヴミヤンが1955年に12曲の組曲に仕上げたもの(Op.97a)を、今日はクチャル指揮ウクライナ国立交響楽団の演奏で。
ブリリアント・クラシックス。録音年不明。
ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア。疑作:シェドヴィル(Nicolas Chedeville 1705-82 フランス)作)のソナタ集Op.13「忠実な羊飼い(Il pastor fido, sonates pour la musette, vielle,,flute, hautbois, violon, avec la bosse continue)」F.XVI-5~10(1737頃出版)。
それこそこのエンサイクロペディアが発刊された時代に、平日の毎朝、NHK-FMで放送されていた“バロック音楽のたのしみ”のテーマ曲に使われていた作品。
それゆえに私にとっても長~い付き合いがある作品。愛着もあって(特に放送のオープニングに使われていた第2番第1楽章)、ブログでもワン、トゥー、スリー、フォーと4回取り上げている。
是非ともランパル盤(1968年録音。エラート)を、と思うところだが悲しいことに廃盤。
現役盤として入手しやすいラリューのフルートによる録音を、も一度紹介しておく(チェンバロはV=ラクロワ)。
1974年録音。DENON。
過去を忘れられない私……
さて、後ろめたさを感じる必要なんかないのに、うしろの百太郎が後ろで自分を守ってくれていないような後ろめたさを感じ、そっとBASSのつまみを左に、つまみ、いや、つまり時計の反対回りに回してみる。低音を減衰させるのである。
すると、時計の文字盤でいうなら11時くらいの位置でも、嫌なボワンとした低音が消える。
さらに10時くらいまで回すと、かなり切れが良くなる。
目いっぱい回すと、今度は音全体が脱肛を患っている体操選手のように情けなくなる。
トーンコントロールをいじりたくない人たちは-今に至っても私もどちらかといえばこちらに仕分けされるのだが-いじることによって、減らしたくない、あるいは増やしたくない音の成分(周波数)まで影響を受けるのではないかと、消極的になるのだと思う。
しかし、スピーカーのセッティングを変えたり、カーテンやらクッションやらスポンジやら何やらを使って音のコントロールを試みたとしても、ターゲットを絞って特定域だけを減衰したり増幅したりできないことは同じだろう。
いま私はBASSのつまみを(TREBLEは中央のまま。つまりフラット状態)フラット位置~9時までの間で、CDによってちょこちょこいじりながら聴いている。
私を疲れさせるようなしまりのない、サティの前奏曲の犬のような低音はかなり改善された。
けどけどけど、ラインストレートスイッチをONにし、トーンコントロールツマミの位置もホームポジション(つまりフラット位置)に安置しておきたいという気持ちが、私の中にまだ根強く残っている。
それほどトーンコントロール不要(あるいは邪悪)説は、若き日の私の心に深く刻み込まれたということでもある。