正しいが引っかかる
村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」(講談社文庫)を読んでいると、私はちょっと違和感というかひっかかりを感じる。
それは小説の内容に対してではない。
「」で括られた会話文の表記についてである。
たとえばこうだ。
「ありがとう。何かおごらせて。」
「気にしなくっていいですよ。」
「借りたものは返さないと気の済まない
このように閉じのカギ括弧(」)の前に句点の“。”が置かれているのである。これに私は違和感を覚えるのだ。
じゃあこういう書き方が間違っているかというとそうではない。実は“」”の前に句点を置くのがむかしは正しいとされた。そしてそのルールは死んではいない。
しかし現在では、“」”が文末を示していることが明らかだという理由で省略することが多いのである。
村上春樹の2作目の「1973年のピンボール」(講談社文庫)では“現代風”の表記になっている。
「貯水池に何しに行くんだ?」
「お葬式」
「誰の?」
「配電盤よ」
うん。この方がすっきりする。文法的には「……。」が正しいらしいが、個人的には閉じのカギ括弧の前に句点がないのが好きだ。
で、村上春樹はなぜ第2作目から表記を変えたのだろう?
大学に流れるマニアックな曲
その「1973年のピンボール」の7p。
僕があぶなっかしく積み上げられたバリケードがわりの長椅子をくぐった時には、ハイドンのト短調のピアノ・ソナタがかすかに聞こえていた。
ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)のピアノ・ソナタでト短調で書かれた曲は1曲しかない。
ピアノ・ソナタ第44番ト短調Op.54-1,Hob.ⅩⅥ-44である。旧番号では第32番。
作曲年はよくわかっておらず、1771年頃から83年までの間と考えられている。
この場面でハイドンの、お世辞にもそれほど知られているとは言えないト短調のソナタを取り上げた作者の意図は何だろう?
ここに描かれている絶望的な暗さを、メジャー勢力になりえなかった学生運動を、ト短調ソナタに象徴させているのだろうか?
アックスの演奏を。
1993年録音。ソニークラシカル(RCA)。
ところで私は読点(、)の使い方にいつも迷うし、多用してしまう。
気をつけなきゃ。
そうそう。「風の歌を聴け」の同じく48pにある一節。
「人気がないからさ。」と僕は言った。
「じゃあフランス人の歌手では誰が人気がある?」
「アダモ。」
「ありゃベルギー人だ。」
「ミシェル・ポルナレフ。」
「
何年か前にミシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」がコマーシャルに使われていた。
むかし流行ったときけっこうあの曲は好きだったんだけど……