新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2014/10

ほんのりした甘さと大人の渋さが同居♪ブラームス/ハイドン変奏曲

Brahms4Haitink  あの人は意地悪なはずなのに、心にしみる
 あるいは優しさと男らしさが共存。

 抹茶ラテのことではない。


 ブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)の「ハイドンの主題による変奏曲(Variationen uber ein Thema von Haydn)」Op.56a(1873)のことである。

 主題と8つの変奏、終曲から成るこの作品(⇒詳しくはこちら)。なんだか心が一夜干しのように枯れかかっているときに聴くと、なんだかほっとさせられる(特に第3変奏のフルートはしみるぅ~っ)。

 
 日が短くなって夕方にはもうすっかり暗くなってしまう緯度の高い北海道だが、先日の帰りにこれを聴きながら歩いていると、思わず涙がにじみ出た。

 いや、強い冷たい風が瞳をアタックしたという事情からだ。


 そしてその直後には、猛烈な空腹感に襲われた。
 “インデアン”の前にさしかかったからだ。店内からカレーの香りがプンプン。
  その香りで束の間のほのかな幸福感に満たされる……って、マッチ売りの少女かっ!


20141028Ochiba  美しいものの末路
 枯れるといえば、いま街路樹がすさまじいことになっている。

 人々の目を楽しませた美しい紅葉。
 が、いまや厄介なゴミと化してしまっている。

 市が管理している木から出たゴミなわけだから、大量の枯葉は不法投棄ならぬ遵法投棄ということになるのか?いや、誰かがなげたわけじゃないしな。
 あっ、北海道では「捨てる」ことを「なげる」とも言うことを、この際ご承知おき願いたい。

 「このゴミ、なげといて」といっても、星飛雄馬のように投げてはいけません。ゴミ箱に、あるいはゴミ袋に、ご投入しなければなりません。

 にしても、これどうするのだろう?市内のいたるところがこんな状態なのだ。
 肥料化するのかな?
 いや、やっぱり燃やすんだろうな。


 ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918 フランス)の作品に「枯葉(Feuilles mortes)」っていうのがあるが(「前奏曲集第2巻」(1912-13)の第2曲)、こんな大量の枯葉の印象を曲にしたわけじゃ、もちろんないだろう。


 話を戻すが、ハイドン・ヴァリエーションにおいても、今の私はハイティンク/ボストン交響楽団の演奏をお薦めしたい。

 このコンビによるブラームスの交響曲第1番第4番の演奏を、私はけっこう高く評価しているが、4番にカップリング収録されているハイドン・ヴァリエーションもいい。

 何かすごく印象に残るようなことはしていないが、これを良くない演奏とする理由が逆にないのである。
 偉大なる無難。そういう言い方が悪ければ、作品の良さをストレートに表現した演奏だ。

 1992年録音。デッカ(TOWER RECORDS PREMIUM CLASSICS)。


気づかなかった?それともお蔵入りにしていた?♪伊福部/寒帯林

IfukubeRIN  汚れちまった悲しみに
 買ったばかりのコートにシミをつけてしまった。

 先日、コートを着たまま列車内でそそくさと天むすを食べたときのこと。
 ご飯粒数個が崩落し、コートの胸のあたりを転げ落ちたが、想像以上に具のエビの天ぷらから油をたっぷり吸いとってらしく、そのあとが点々とがっつりシミになってしまった。

 私はこのような痛みを伴って学習した。
 パッと済ますにせよ、食事をするときはコートを脱ぐに限る。
 事情が許せば、全裸になって食べるに越したことはない。


 そういやぁ、むかし「汚れちまった悲しみに」という石渡日出夫(Ishiwatari,Hideo 1912-2001)の歌曲が入ったLPを持っていたなぁと思い出した。中原中也の詩による作品。
 だが、まったくその曲の記憶がない。

 確か伊福部昭の歌曲とのカップリングだったはずで、もっぱらそっちばかりに針を落とし、石渡の曲は全然聴かないで終わったかもしれない。
 ちなみに演奏は、メゾ・ソプラノが中村浩子、ピアノは三浦洋一。ビクター。
 

  何気ないことが病的に気になる
 さて、このようにショックなことが起こると、変に何気ないことが気になりだす。

 札幌を出発し新札幌駅のすぐ手前の沿線に建っているアパート。“ハイツ ミストラル”と書いてあるが、なぜミの字だけ傾いているのだろう?

 あるいは車内で入口ドアの上にある横長の液晶画面。
 AIR-G提供の文字放送でニュースが流れているが、FM北海道の愛称がなんでAIR-Gなんだろう?Gってどういう意味なんだろうと気になってしょうがなくなる(その後、解決済み)。

 さらに、文字放送がトンネルの中でどうして通信が途切れないのだろうと不思議に思う。

 そんな私の過敏な精神などおかまいなく、列車はすでに寒々しい姿に変わった木々の間を快調に進んだ。


  幻の楽譜は実は作曲者の手元にあった
 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の音詩「寒帯林(Arctic Forest)」(1944)。

 うすれ日射す林/杣の歌/神酒祭樂の3つの楽章から成る。


 私はまさにうすれ日射す、寒い地帯の林を車窓から眺めていたのだった。
 って、すっかり心が弱っているな……


 第2楽章の杣は“そま”と読み、木の伐採の仕事をする人(いわゆる“きこり”=杣人)のことを指すが、もともとは材木を切りだす山(杣山)や切り出した材木(杣木)の意味である。


 先日取り上げた「伊福部昭の芸術10 凛 初期傑作集」に収められているこの作品、私にとっては聴くのが初めて。


 「寒帯林」は、満州国からの依頼で書かれ1945年に新京で初演(山田和男/新京交響楽団)されたあと、楽譜の行方がわからなくなっていた。
 中国当局が管理しているらしいということで、楽譜を戻してもらうべく関係者が骨を折ったものの、色よい返事は無し。
 ところが伊福部氏が亡くなったあと、遺品の中からオリジナルの楽譜が発見されたのだった。中国にあるといわれている楽譜は、本当に保管されているのなら、それはコピーということになる。


 遺品から発見された楽譜に基づく演奏は、2010年に本名徹次/オーケストラ・ニッポニカによって行なわれており、そのライヴ盤も出ている(EXOTON)

 果たして伊福部センセは楽譜が自分のもとにあることを本当に知らなかったのだろうか?
 戦争がらみのこの曲、もしかして表に出したくなかったのでは?なんて勘繰ってしまう。

 関係ないが、カン・タイリンって、その国の人の名前みたい。


 曲はすでに良く知っているメロディーがカタログ的に現われるもの。 
 しっとり感や土臭さといった伊福部の魅力がこの曲にも凝縮されている。

 「日本狂詩曲」や「土俗的三連画」では、その後の伊福部作品にモロに直結するようなメロディーは少ない。この「寒帯林」において、映画音楽を含むその後の伊福部の世界が確立されたのだと感じる。


 そして、実際この曲には「ゴジラ」のテーマも現れる。
 このテーマは1948年に書かれた「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(のちの「ヴァイオリン協奏曲第1番」)のなかにルーツがあると言われてきたが、それよりも前の「寒帯林」ですでに登場していたわけだ。
 カンさんもびっくり!MUUSANニッタリである。


 指揮は高関健、オーケストラは東京都響。
 2014年セッション録音。


 なお、高関/札響による「日本狂詩曲」と「土俗的三連画」はすでにご紹介したように定期演奏会のライヴ。が、拍手が見事にカットされているのが残念である。個人的には。

ピンクな本……♪ホルスト/組曲1&ベルリオーズ/大交響曲

HolstSuite1Score  先日日譜の新シリーズを発見
 先週札幌に出張した際、空いた時間に紀伊國屋書店に立ち寄った。
 この店には音楽書のコーナーにスコアも置いてある。
 で、発見してしまったのであった。

 ホルストの「吹奏楽のための組曲」とベルリオーズの「葬送と勝利の大交響曲」のスコアを。
 出版社は日本楽譜出版社。音楽之友社や全音楽譜出版社とはまた違う、ちょいとマニアックな曲のスコアをさりげなく出版する会社だ。

 いったいいつ出版されたのだろう?
 が、初版〇年〇月〇日という表記はどこにもない。このあたりがまた日譜らしい。
 表紙はピンク。ピンク本ってわけだ。うふふっ!
 日譜のスコアはこれまで肌色っぽい色(古くはオレンジ色)だったのだが……
 と思ったら、ピンクは“吹奏楽作品シリーズ”のようだ。

 日本楽譜出版社スコアに、新しく吹奏楽作品シリーズが加わりました。それも日譜らしく、クラシック作曲家たちによるオリジナル版の吹奏楽作品シリーズです。吹奏楽の世界では、クラシックの作品は現代の編成に合わせた編曲版を演奏することが圧倒的に多いようですが、けっしてクラシックの作曲家たちが吹奏楽作品を残してないわけではありません。今後ともシリーズとして刊行を進めていきます。

 すばらしい取り組みだ!(で、いつから加わったのだ?)
 で、すでに8作品が刊行されている。

Berliozp15Score ホルストの「吹奏楽のための組曲」第1番好きのアタシとしては、なおかつベルリオーズ・ファンのボクとしては、この2冊をここに置き去りにして立ち去ることはできなかった(ホルストのは第2組曲のも出ているが、圧倒的に第1番が好きなので第2番は置き去りにして来た)。

 そのあと別な書店に行き、来年の手帳を買った。
 私が長年愛用し続けているのは博文館新社の“No.95 サジェス”というもので、マイナーなのか、どこにでもは置いてないのだ。

 それはそうと、ホルスト(Gustav Holst 1874-1934 イギリス)の「吹奏楽のための組曲」第1番変ホ長調Op.28-1,H.105(1909)。

 そうです。組曲「惑星」でおなじみのホルストです。
 吹奏楽をやっている方なら、たぶんこの作品については知っているはず。それほどの吹奏楽作品の古典的名曲。

 この曲について、そして私がこの曲寄せる思いについては過去に取り上げているので、また書くとしつこいと思われるのは必至。だからここでは、最初に聴いたときに「2つの旋律がHなカップルのように絡みついて興奮もの!」と、鼻息を荒くした事実だけを報告しておこう。

 CDはウィック指揮ロンドン・ウィンド・オーケストラ(1978録音。ASV)をご紹介しておきたいところだが、現在は入手困難。ごめんなさい……

 一方のベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「葬送と勝利の大交響曲」Op.15,H.80(1840)は、3楽章から成り、弦と合唱がオプションで加えられるという大きな曲。この曲についてはこちらの記事をご覧いただければと思う。

BerliozOp15 CDはドンディーヌ指揮パリ警視庁音楽隊によるものを(1976年録音。カリオペ)。
 ホルストのスコアが今まで出てなかったのは不思議だが、ベルリオーズの方はよくぞこのマイナーな作品を出版してくれたと、私は拍手をおくる次第である。

 なお、ホルストの方の作品番号にあるH.は、I.ホルストという人が作った作品目録における番号。
 ベルリオーズの方のH.は、ホロマンという人の手による作品目録の番号である。
 同じH.だがまったく別なものなのだ。それに絡み合うHとも関係ない。当たり前だけど。

 関係ないが、北海道には幌満という名の川がある。

実際はそんなに速くは歩けないだろうし……♪伊福部昭の芸術“凛”

 【凛】
 ①さむい②すさまじい。ぞっとする③きりっとひきしまったさま。りりしい。

IfukubeRIN  ぞっとはしないでしょうよ
 私が中学の時に買った小学館の「新選 漢和辞典」にはこう書かれている。
 にしても、中学の時の辞書だから、新選とはいえ、とうに新鮮ではなくなっている。

 考えてみれば、私は国語辞典も漢和辞典も古語辞典も小学館で統一していた。国語辞典の表紙カバーは白色、漢和辞典は黄色、古語辞典は黄緑色だった。

 国語辞典はともかく、漢和辞典や古語辞典まで揃えたのは国語教師から指示されたからではない。
 だいたいにして、勉強をしないやつに限ってこういうふうに揃えたがるのだ。で、形が整うとそれで満足してまず使わないのだ。自分のことだから、自分のことのようによくわかる。

 それにしても古語辞典は手元に残っていない。色的には3つの中で黄緑色がいちばん好きだったが、そもそも一度でも開いたことがあっただろうか?そしてどこに行ってしまったのだろう?

 先日キングレコードから発売された「伊福部昭の芸術」のVol.10~12。
 Vol.10は「」と題されている。

 上の意味からすれば、①か②か大いに悩むところだが、それは③がない場合であって、それがある以上、③の意味を込めているとしか考えられない。

20130710Rin3 ちなみにこのバラの名も“凛”。
 わが家のガーデンで咲いたものだ。で、私に似ているような気がする(トゲがあるところではなく、凛としたところだ)。

 バラの名も、やっぱり③の意味でつけられた可能性が極めて高いと思わざるを得ない。
 なに?私の庭はぞっとするスポットだって?ほっとけや!
 
 収録曲は、

 ・ 音詩「寒帯林(Arctic Forest)」(1945)
 ・ 日本狂詩曲(Japanese Rhapsody)(1935)
 ・ 土俗的三連画(Triptyque Aborigene)(1937)

である。

 指揮は高関健。「寒帯林」のオケは東京交響楽団(セッション録音)。ほかは札幌交響楽団(定期演奏会のライヴ)。

 この中から、今日は札響による2曲について。

  日本情緒あふれる狂詩曲のテンポ
 「日本狂詩曲」はコンサートで接したときに感じた以上に、実際のテンポが遅かったことがわかった。
 第1楽章「夜想曲」が8'20",第2楽章「祭り」は9'02"。

 先日私が一方的に話題にした、山田盤が6'51"+6'56"、岩城盤が7'25"+8'37"だから、岩城盤よりも遅い。
 が、これこそ“日本的情緒にあふれる夜を想ふ歌”に、そして“ゆっくりと歩みながら進む祭りの行列”にふさわしい。あるいは、祭りでの何かの舞にしたって、そんなに速くはないだろう。
 勝手な想像だが、作曲者の頭には北海道神宮祭なんかの山車の行列の印象があったんじゃないかと思う。横笛を吹きながら速く歩くことはできないし。

 録音の良さもあって、第1楽章は艶っぽいしっとり感があるし、第2楽章は大編成なのに実に見通しが良い。パワーで“伊福部っぽさ”を示すのではなく、この作品の音楽としての本質を聴かせてくれた。ひいき目ではなく、「日本狂詩曲」の現時点での決定盤と言える。

  小編成から飛び出る多彩な響き
 「土俗的三連画」も、各楽器が空間を飛び交う、たぶん伊福部の意図がきちんと再現されたすばらしい演奏。各奏者の演奏も見事で、こちらも今ある録音の中のベストだろう。
 演奏会での視覚的な面白さ、特に1人の奏者による打楽器の多様な扱い方が、コンサートでは非常に印象的だったが、その情景が頭に蘇る。

 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の生誕100年にあたる今年も、残すところあと2カ月余り。
 年が明けたあと、この余波はどこまで続くのだろう?
 急に冷めるのか?氏の音楽がこれまで以上に定着するのか?

 それにしても、かつては楽壇から軽蔑視された伊福部の音楽がこんなに脚光を浴び多くの人の魂を揺さぶるのは、人間臭さゆえ。現代音楽の中でも、理屈っぽい前衛音楽は結局は定着しないままだ。
 だって聴くのは「にんげんだもの」。

志村けんもどきが現れる部屋……♪リスト/呪い

Liszt Masur  目覚めても横に知らない人はいなかった
 金曜日の夜に札幌に移動し、土曜日の午後はKitara札響の定期演奏会を聴き、日曜日に舞い戻ってきたわけだが、実はその前、水曜日から木曜日にかけて、私は打ち合わせのために出張で札幌に来ていた。

 ならば金曜日は休みをとってそのまま滞在すればいいじゃないかと、心温かな読者の方はお考えになってくださるだろうが、金曜日はどうしても戻らなければならない仕事があったのだ(それに、歯科医院の予約もしていたし)。

 水~木の移動はJRを利用。
 今回は行きも帰りもスーパーとかちに乗ったが、やはりスーパーおおぞらの車両よりもサスがいい。ポイント通過時も下から突き上げるようなダイレクトなショックは少ない。
 そのせいか、行きでは十勝清水あたりで車掌が検札に来たあと、私は知らず知らずのうちに天使のような表情で眠ってしまった。

 気がついたときはトマム駅。
 空いていたはずの前の座席に、なぜか人が座っている。
 この「なぜ」を解くカギは、その間に停まったはずの新得駅にありそうだ。おそらく、この人は新得駅から乗車したに違いない。それにも気づかないほど、私は深くウトウトしていたのだろう。

 目が覚めたちょうどそのとき、車内販売のお嬢さんがアイスクリームが入ったかごを手にしてやって来た。
 ということは、通常のワゴンサービスは少なくとももうすでに1往復は終えている。
 それにも気づかないくらい、私は美しい顔でよだれを垂らしていたのだろう。

 しかし、目覚めた時も、眠りに着く前と同様、隣には人はいなかった。
 “おおぞら”に比べ“とかち”の方がたいていすいている。それがまた“とかち”の魅力である。

  目覚めたら横に知らない人がいた
 米梶係長は日向山課長と同じマンションに住んでいる。
 どうでもよい情報だが日向山課長は単身赴任中、米梶係長は生まれてこの方独身中である。

 その米梶係長と喫煙室で一緒になったときに、寝不足だと嘆き、「ウソじゃないんです本当なんです」と真顔で私に窮状を訴えてきた。

 夜中に目がさめた。すると、寝ている自分の頭の横に髪の長い、男か女かわからない白装束の人が座っていたというのだ。頭には、係長曰く「志村けんがおでこにつける三角の布、あるじゃないっすか?あれをつけてるんです」。
 志村けんがそういう格好をしてお化けの役のコントをやっているのを見たことがあるようなないような私だが、言ってることはわかる。天冠(てんがん)と呼ばれるもののことだ。

 で、係長は「『あっちいけ!』って手でどついたんすけど、相手の胸を貫通したんです」と、話を続けた。
 要するに一般的にお化け、もしくは、幻影と考えられるものに見事に一致する。

 あまりにも典型的なので、もしかすると係長が抱いている幽霊のイメージをそのまま夢に見たのではないかと思ったが、本人は「あれは絶対に幽霊だ」と憑依されたような目つきで語っていたので、「引っ越した方がいいんじゃないの?」と一応はアドバイスした。

 が、係長は「でも、あのマンション、場所も便利で、気に入ってるんすよね」と言った。
 じゃあ、がまんしなさい。

 ちなみに、彼のそのマンションの部屋はメゾネットタイプなんだそうで、夜中にその階段を歩く足音が聞こえることもあるという。
 これらから判断するに、本当にその部屋に何か不具合があるか、係長の夢にすぎないかとのどちらかだろう。

 なお、日向山課長からはそのような報告はない。
 だからマンション全体ではなく、係長が住む部屋に固有の出来事なのだ。個人的に好かれているか呪われているかのどちらかだ。

 ところでどつくつもりが空振りだったあと、係長はどうしたのか?
 「電気つけなかったの?」
 「ええ、そのまま寝ました」

 たいした男である。

 私ならチキン肌のまま身動きできず、ショッカーより高い声で叫び、おしっこは垂れ流し、そのまま気絶してしまうかもしれない(その結果として、気がついたときはただおねしょしたという事実だけが残るだろう)。
 でもって思うに、米梶係長が寝不足だっていうのは、きっと本人の勘違いである。

  完成させれなかった「呪い」
 リスト(Liszt,Franz(Ferenc) 1811-86 ハンガリー)の「呪い(Malediction)」S.121(1830頃/改訂'40頃)。

 1940年頃の改訂以降も改作を続けたものの、ついぞ決定版には至らなかった、まさに呪われた(?)作品。
 独奏ピアノと弦楽のための作品である。

 作品について私は詳しく知らないが、楽譜の冒頭主題の箇所にリストが“呪い”と書き記しているところからこの名があるという。
 激しく始まるが、全体の曲調は結構甘美だったり、明るめだったりして、水晶玉に“呪”の文字が浮き出るような恐ろしいイメージはない。
 果たしてリストは、最終的にどういう姿にしたかったのだろうか?

 ベロフのピアノ、マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏を。
 1977~80年の間の録音。EMI。

札響第573回定期演奏会(B日程)を聴いて~尾高のGM9

Sakkyo573rd  新発売の伊福部はお預け
 昨日10月25日14:00~、札幌コンサートホールKitara


 予告記事を書いたとおり、尾高忠明の指揮でマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。


 キングから伊福部作品のCD3点がリリースされ、木曜日には私の手元にあったのだが、伊福部に溺れるとマラ9鑑賞に支障をきたしそうなので、聴くのはダメよダメダメ。
 コンサートに備え、耳から手が出そうなのをこらえて聴くのををがまん。 マラ9二千年、おやおや、マラ9に千円、おいおい、マラ9に専念した。

 予告記事のときはジュリーニ/シカゴ響の演奏を取り上げたが、その後考え直し、同じシカゴ響でもブーレーズ盤を何回か繰り返して聴いてみた。

 この演奏、グッと心に迫るものではないけれど、以前も書いたようにどこか気になる、そしてややはまりかけるものだ。

 鈴木淳史は「クラシックCD名盤バトル」(洋泉社新書)でこの演奏を推している。

 両端楽章は、その運命を受け入れるかのように、枯れている。主題が最終的に聖化されて高らかに歌われるのではなく、徐々に消滅に向かう作品だから、この方法は理に適っている。室内楽的な書法が美しく響く。それに比べて、中間の2つの楽章は悪魔のダンスのように、やたらに乾いていて細かいのが邪悪。というか、ここまで悪ふざけしたこの楽章を聴いたことがない。

Mahler9Boulez 何もしていない(ってことは、もちろんないのだけれど)、余計な装飾を一切取っ払って裸をさらしているような、曲の実体そのものをピュアに表現しているという感じ。
 ただし、冷めた無感情モードというものでもないし(むしろけっこうタメがあったりする)、いたずらに絶叫しないのが逆にしんみりくる。終楽章のテンポの絶妙な変化のさせ方なんて、それだけでジーンとくる。
 が、正直なところ、も少し感情の渦に巻き込まれたいとも思う。

 1995年録音。グラモフォン。
 
  で、尾高/札響の演奏は
 熱演だった。力演でもあった。
 正直言って、期待を上回る演奏。

 オーケストラはよく鳴っていた。各パートもいずれもが表現力豊かで、ミスもほとんどなかったように思う(その中でも今回特筆すべきはホルンだった)。

 弱音の箇所も美しい。が、その室内楽的に響く箇所でのしんみりした静けさがやや物足りない。深みある味わいが欲しい。微妙な強弱のニュアンスの不足が、一本調子っぽくなった。それが残念だが、尾高のマーラーではこれまでもそう感じることが少なくなかった。

 終演後に飛び交うブラボー・コール。
 それに値する立派な演奏であったが、個人的には深い感動に包まれるまでにはいたらなかった。
 

 今回聴きながらあらためて思ったのは、それにしても札響はすごいオーケストラに成長したなぁということ。
 札幌市民会館であまり大きくない編成の曲中心にやっていたころとは、まさに隔世の感がある。
 保守的なプログラムを岩城宏之が改革し、さらに尾高がここまでに育て上げたことは間違いない。

 その尾高は、今シーズンで札幌交響楽団の音楽監督をおりる。音楽監督としてタクトを振るのも、あとは2月の定期のみとなった(プログラムはシベリウスの交響曲第5~7番)。
 

Wの悲劇♪ブラームス/二重協奏曲

BeethovenTripleInbal  今日は木曜だって認識はついさっきまでありましたが
 おとといの夕方。

 月曜日抽選のロト6を買おうと、帰宅途中にみずほ銀行に寄り、ATMでいつもと同じ番号を選んで買った。

 が、はて?、出てきた控えを見ると、抽選日はその日になっている。


 私としたことが、日にちを1日勘違いしてしまったのだった。
 一瞬、この日が金曜日と思い込んでしまったのだ。


 木曜日の夕方に買えば、この日抽選のロトを買うことになるのは世の掟。
 そして、この日の分はすでに購入済み。

 かくして、私は同じ数字のものを二重買いしてしまった。

 このショックは少なくなかった。
 代金(3通り買っているので600円)もさることながら(でも600円あれば、セブンイレブンのおにぎりセットを2回買える)、頭の中で今日は木曜日だとわかっていても、一瞬記憶が異国に飛び、間違ってしまったことが自分には許せなかった。
 許せなかったが自分を許さないわけにはいかない。愛さなくてはならない。

 ということで、これで当たったら当選金もダブルだわいと、極めて妄想的に前向きに一夜を明かすこととした。


  昔のスタイルに帰って、関係も昔のように仲良く?
 ブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)の「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲(Konzert fur Violine,Violoncello und Orchester(Doppel Konzert))」イ短調Op.102(1887)。
 もともとは交響曲第5番として構想された曲で、ブラームスにとっての最後の管弦楽作品である。


 第4交響曲を完成したブラームスは5番目の交響曲を書こうと考えていた。
 しかし、ちょうどそのころ、長年の友人であるヴァイオリニストのヨアヒムとの関係が悪化。関係を修復すべく協奏曲に変更し、ソロ楽器の扱い方についてヨアヒムの意見を求めることにした。ヨアヒムもブラームスの申し出に応えている(なら、ヴァイオリン協奏曲にすればよかったのにと、思わなくもない。私は)。

 3楽章から成るこの二重協奏曲は、ブラームスらしい分厚い響きと渋さが特長であり、またとても親しみやすいもの。
 ただ、初演では不評だったようで、それはバロック期の合奏協奏曲のようなスタイルのせいだったかもしれない。
 
 私が最近知ったシェリングのヴァイオリン、シュタルケルのチェロ、ハイティンク/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏は、堂々としたなかにも愛らしさや余裕といったものが感じられ、聴き終えた後にうっとりとしたため息が漏れてしまうものだ。

 1970年録音。デッカ(TOWER RECORDS PREMIUM CLASSICS)。


 一夜明けた金曜日の朝。
 朝刊の当たり番号を見て、私がダブルのため息をついたのは言うまでもない。

気持ちはサンタになりきっていた素敵な商店主♪ブリテン/キャロルの祭典

BrittenChoralEdition2  商品在庫を隠しておいてくれたら……
 早いものであと2カ月でクリスマス・イヴである。

 浦河に住んでいた5歳から小学校低学年のとき、近くに品田商店というお菓子から文房具、おもちゃまで置いているいわば個人百貨店のような店、つまりはよろず屋があったが、そこの店主のおじさんが、毎年イヴの夕方、私たちが住んでいた一軒家の裏口にこっそりプレゼントを置いて行ってくれていた。


 商店のおじさんが私にクリスマス・プレゼントをくれたのではなく、事前に親が注文していたおもちゃを置いてくれたわけだ。

 そのころの私がサンタクロースの存在を信じていたかどうか記憶にないが、「これは品田のおじさんが置いてったのだ」と認識していたということは、つまりはサンタなんていないとわかっていたのだろう。
 だが、もしや品田のおじさんの名前が三太だったら傑作なのに、と今になって思う。

 それにしてもプレゼント決定までにどういう複雑ないきさつがあったのかわからないが、毎年私が事前にほのめかした希望の品が届いたためしがなかった。

 トミカで遊ぶガソリンスタンドが欲しいと思えばヘリコプターのおもちゃが届くし、青函連絡船の巨大プラモがいいと思ってたら鉄道模型が届いたという具合だった。
 そして、同じものが商店のウィンドウならぬ、窓ガラス越しに置いてあるのを、翌日に発見するのである。
 もしかするとおじさんが見込んで仕入れた商品を、積極的に親に勧めたのかもしれない。

 それにしても品田おじさんのテクはなかなかだった。物音ひとつ立てずそっと裏口のドアを開けプレゼントを置いていくのだ。もし発見が遅れれば、物音ひとつ立てずそっと裏口のドアを開けプレゼントを持ち去る者があっても気づかなかったかもしれないが、そういう被害には遭わずに済んだ。


 数年前に浦河町を訪れたが、残念なことに品田商店はすっかりなくなっていた。
 われわれが札幌に引っ越したあとほどなくしておじさんは亡くなったと聞いたが、店自体もその後畳まれたようだ。まぁ、いまやコンビニの時代だからなぁ。
 けど、コンビニにはお菓子の入ったブーツやクリスマス・ケーキは売ってても、箱がやや日焼けしたヘリコプターは売ってない。


BrittenChoralEditionBox  少年合唱の無垢な声とはまた違う魅力
 ブリテン(Benjamin Britten 1913-76 イギリス)の「キャロルの祭典(A Ceremony of Carols)」Op.28(1942)。
 少年合唱とハープのための作品で、ウェストミンスター大聖堂少年合唱団のために作曲された。


 曲は11曲から成るが、第1曲と終曲はグレゴリオ聖歌を引用、ほかの9曲は14~15世紀のイギリスの詩が用いられている。

 今日はスパイサー指揮フィンジ・シンガーズの演奏を(ハープはDrake)。


 フィンジ・シンガーズがどういう合唱団なのか私はよく知らないが、耳に届く声は少年合唱に思えない。女声だ。それも歌い回しが(変な言い方だが)本格的で、色気があり、表情づけも大人びている感じがする。

 少年合唱による演奏とはまた違う透明感もある。
 が、クセになる演奏だ。


 1996年録音。シャンドス。

 ブリテンの合唱作品集(3枚組)

 ウチの子どもたちが小さいときのこと。
 12月になるとドラえもんでのび太が「どうせサンタクロースなんていないんだぁ!」と叫ぶシーンがあった。
 子どもたちは何のリアクションもしていなかったが、サンタはいないものと知っていたのだろうか?
 それともそんな信じがたい言葉は耳に入らなかったのだろうか?

ドイツのあとはいつもフランス……♪サン=サーンス/フランス軍隊行進曲

MozartK605  とにかく効率的に録音したかったので……

 学生のころ、私が音楽を聴くメディアはFM放送をエアチェックした大量のカセットテープであった。
 大量といっても、それぞれのテープは決して贅沢な余裕を持った使い方はできない。
 そこでちょっとした余白にも曲を録音した。作曲家の年代、曲のジャンル問わず。


 例えばC-90、つまり90分テープ。片面は45分。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音。そのあとの余白には後日の放送で、その長さに見合った曲がかかったときにエアチェック。
 その結果、壮大で華々しくチャイコンが終わったあと、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲が流れるというような、節操のない現象が起こる。

 「フィドル・ファドル」のあとに「そり滑り」が流れるのは同じアンダーソンの曲で何の問題も生じないが、さらにそのあとにネッケの「クシコス・ポスト」が続くと、お部屋は運動会のグラウンドと化した。
 また、モーツァルトの「ジュピター」のあとにバッハの無伴奏フルート・ソナタ(パルティータ)が続くと、ケルンの大聖堂を見学した直後に地下牢に放り込まれたような気になった。

 あるいはベートーヴェンの「運命」のあとに、ブラームスの「悲劇的序曲」。せっかくベートヴェンさまが暗から明へとお導き下さったのに、同じドイツ3大Bグループの1人によって再び暗に戻されてしまう。


 私が行なった最悪ともいえるカップリングの1つはシューベルトの「未完成交響曲」のあとに、柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」を収めたものだった。
 片や1822年作曲、片や1973年作曲。
 「ほほぅ、150年の間に音楽はこんなにも変わったのか」なんて思いながら“馬のマークの参考書”を読んでいる場合じゃない。シューベルトの余韻に酔うことは許されないのであった。

FrancaiseParay  その結果、刷り込まれたもの

 そんなこんなであったが、そのなかでもなぜかわからないが、妙に刷り込まれたものがある。

 この曲を聴いたり、あるいは頭の中で考える。そして最後の音が終わる。毎度同じメロディーが次に浮かぶ。
 そのもはや逃れられないパターンが染みついてしまっているのがある。

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の「3つのドイツ舞曲(3 Deutsche Tanze)」K.605(1791)の最後の1音が終わると、必ずサン=サーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921 フランス)の「フランス軍隊行進曲(Marche militaire francaise)」Op.60-4(1879-90)が頭の中で鳴り響くのだ。
 これも繰り返し聴いたテープのせいなのである。


 モーツァルトの「3つのドイツ舞曲」は、彼が書いたドイツ舞曲のなかで最も有名なもの。
 実はモーツァルトはドイツ舞曲(集)を9作残している。
 それらを次のとおり。

 ・ 6つのドイツ舞曲K.509(1787)
 ・ 6つのドイツ舞曲K.536(1788)
 ・ 6つのドイツ舞曲K.567(1788)
 ・ 6つのドイツ舞曲K.571(1789)
 ・ 12のドイツ舞曲K.586(1789)
 ・ 6つのドイツ舞曲K.600(1791)
 ・ 4つのドイツ舞曲K.602(1791)
 ・ 3つのドイツ舞曲K.605(1791)
 ・ ドイツ舞曲ハ長調「辻音楽師」K.611(1791)(K.602の第3曲と同一)

 これをみると、晩年に集中して書かれていることがわかるが、これらの作品は裕福な貴族のために書いたのだった。つまり、日々の生活に貧窮していたモーツァルトは、こういう作品を立て続けに書いて貴族に買ってもらったのだった。

 「3つのドイツ舞曲」K.605もいずれも楽しい音楽3曲から成っているが、特に鈴とポストホルンが印象的な第3曲「そり遊び(Die Schlittenfahrt)」はその中でも良く知られる。

 私の場合は、最後のポストホルンの音が消えかかるや否や、「フランス軍隊行進曲」の勇ましい音楽が続けて始まるのである。
 サン=サーンスのこの作品は4曲から成る「アルジェリア組曲(Suite algerienne)」Op.60の第4曲である。

 「ドイツ舞曲」についてはヴィルトナー/カペラ・イストロポリターナの演奏(1989年録音。ナクソス)を、「フランス軍隊行進曲」ではパレー/デトロイト交響楽団盤(1959録音。マーキュリー)をお薦めしたい。

地味ながら美しさは格別♪ブルックナー/Sym2(by ヨッフム/SD)

20141016e  寒そうに見えるのは自分の心が寒いから?
 私の心の中は、そして肌に感じる風の感触は、もうすっかり冬だ。


 自宅あたりの気候はこの1週間でどう冷え切ったかわからないが、少なくとも冬囲いはまだ時期尚早と思ったのに一気に寒くなった。こうやっていつも冬囲いのタイミングが遅くなるのだ。その反動で早くもタイヤは交換したが(って、きっと平年並みのタイミングのはずだけど)


 昨日も触れたが、先週足寄、本別方面に出かけた(そのときにチーズを買ってきた)。
 紅葉を見に行ったのではない。仕事である。
 が、いやでも赤や黄色に染まった山々、木々が視野に入る。信号と間違えるほどだ。


 足寄から本別へ向かう道沿いで一回車を下り、写真を撮った。
 が、私が写真を撮ろうとするとなぜ急に雨が降ってくるのだろう。
 きれいに撮れないのは、私の腕と道具のせいもあるが、いちばん大きな原因は雨だ。


 足元に名もなき小さな花が寒そうに咲いていた。
 いや、私が知らないだけで間違いなく名はあるに違いないし、本人は全然寒いと感じてないかもしれないが、が弱々しく見えたというのが私の主張である。


Bruckner02Jochum  ブルックナーのいちばん地味なシンフォニー
 ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第2番ハ短調WAB.102(1871-72/改訂'75-76/小改訂'77,'91-92)。

 個人的なことを言わせてもえらえば、第2番はブルックナーの交響曲のなかでいちばんなじみのない作品。また、少なからずの人にとっても第2番は地味で目立たない存在なのではないだろうか?(ブルックナーをまったく聴かない人については、この際対象外とする)。

 交響曲第1番が男っぽい曲調なのに対し(なんせ「生意気な悪童」なのだ)、第2番はやや女性的な印象を与える。
 ただし、第1番の次に書かれた交響曲が第2番なわけではない。第1番と第2番の間には、のちに第0番とナンバリングされることになるニ短調の交響曲がある。
 だからといって第0番が中性的ってことはないが……


 目立たぬ道ばたの花のようではあるが、こういう草に限って根が強固に張っているということがある。
 この交響曲第2番もそう。女性的で優しさが漂っているし(特に第2楽章)、目立たぬ存在だが、張るところは張っているって感じだ。肩とか……(←つまらんギャグすいません)。いや、だから根です。

 ブルックナーのがっちりしたところはちゃんと残っているし、むしろこの曲の構造が、その後の作品に応用されているように思う。ちなみに“ブルックナー開始”と言われる弦の細かな刻みも、この第2番で初めて現れている。


 第2楽章には、自作の「ミサ曲第3番ヘ短調(Messe Nr.3)」WAB.28(1867-68,第2稿'76,第3稿'81/改訂1896)の「ベネディクトゥス」の動機と「アヴェ・マリア(Ave Maria)」(ちゃんと確認していないが、WAB.6(1861)の方だろうか?)の動機、第4楽章に「ミサ曲第3番」の「キリエ」の動機を用いている。そのためか、宗教的な雰囲気が濃い。

 またこの曲は、主要楽句を大きな休止符で区切って目立たせたために、「休止交響曲(Pausen Symphonie)」とも呼ばれた。

 ヨッフム/シュターツカペレ・ドレスデンの演奏は1877年第2稿ノヴァーク版を使っているため、終楽章でブルックナーが“省略可”と指定した箇所が、素直にそのまま省略されている(宇野功芳氏は、このことが残念だとどこかに書いていた)。
 が、この美しさは他の演奏ではなかなか聴けないもの。

 ただしこの録音、絶賛する声と、そうでもないという感想とが相半ばしているようだ。
 私が知る限りの第2番では、最上のものだと思うのだが……


 1980年録音。ワーナー(EMI)。

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