新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2014/09

ちょいとユニークな「バービー・ヤール」♪DSch/Sym13(by テミルカーノフ)

P9170075  タマネギを見て頭に浮かぶは暗い歌
 「たまねぎやピクルスの匂いが……」
 こう歌われるのは、第3楽章の「店にて」のなかでだ。


 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975 ソヴィエト)の交響曲第13番変ロ短調Op.113「バービー・ヤール(Babi Yar)」(1962)のことである。


 作品そのものについては、過去のここあそこなどで書いているので、お手数でもそちらをご覧いただきたいが、先日通りかかった音更の道の横の畑で、タマネギの収穫作業をしていたのを見かけたことをここに報告しておく。


 今日はテミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィル、サンクト・ペテルブルク国立バス合唱団、バス独唱アレクサーシキンのCDを。


 テミルカーノフのショスタコでは、先日交響曲第5番第9番を取り上げたが、この第13番も同じスタンス。
 それは、いたずらに騒ぎ立てない、毒気は少なめ、奇をてらわないといった点でだが、一方でこの第13番ではけっこうやってくれているところもある。

 特に第2楽章のテンポの速さ。ここまで速いのは他に記憶にない。第5楽章も第2楽章ほどではないが速めだ。
 第1楽章の鐘の強音は粗暴とも言えるもの。
 第3~4楽章は過度に感情的にならず、客観的アプローチ。

ShostakovichTemirkanovSet  「すばしっこい」の歌い方が素敵! 
 が、この演奏で私がいちばん気に入っているのは第2楽章の終り近く。


 バス独唱  On vechen (不滅だ)
 合唱     Vechen
 バス独唱  On lovak (抜け目ないぞ)
 合唱     Lovak
 バス独唱   I yurok (しかもすばしっこい)
 合唱     I yurok


 この箇所の独唱の歌い方、感情たっぷりで実にいい!


 1996年録音。ソニークラシカル(RCA)。

 土曜・日曜を何かと忙しかったので、ちょいとお疲れモードの私。
 とはいえ、休んでもどっちにしろお疲れモードなのは、私には常なること。

 でも、ほとんど毎朝、目覚まし時計が鳴る20,30分前には自然に目覚めるのに、昨日は目覚ましの音とともに目が覚めた(目覚まし時計のセット時刻は5時であることを申し添えておく)。

 タマネギを食べて、ピラミッド建設従事者のように元気になることを目指し、昨日の昼はカレーライスにした。
 結果は変わらず、疲れは残っている。カレーぐらいのタマネギ含有量じゃ効くわけがない。そんなこと、最初っからわかっていることだが……
 しかし、今朝は目覚まし時計よりも早起き、自然開眼した。

外見はぱっとしないが……♪LvB/ワルトシュタイン・ソナタ(by シェンク)

BeethovenSchenck  感無量的に未練なんかないさ!
 なんだか次々と予定が入って来て、ついに12月にも及んできた。

 12月となると、もうOCNのブログ人サービスがこの世から消滅しているわけで、そう考えると感無量だ……っていうようなことが日本語の誤った使い方である。

 先日新聞に載っていた国語世論調査の結果だが、“世間ずれ”については私も意味を間違って理解していた。
 常識からずれているのではなく、世間を渡ってずる賢くなっているのが正しいということだが、どっちにしろ私の場合は世間ずれしていないと言える。本人が言うのだから間違いない。


 レンジを使うことを「チンする」って使う人は9割に上るというのも驚きだ。なんでみんなそんな卑猥な言葉を平気で使うのだろう?
 コンビニで店員さんに「チンしますか?」って言われたら、ワタシどうしよう……
 そういえば、ある初老の女性が「エレックさんする」と言うのを耳にしたことがあるが、これにはばほとんど大爆笑した。もちろん心の中でだけど。


 横道にそれるが、こんな話を聞いたこともある。
 百貨店の地下食品売り場、ナウい言葉でいうとデパチカで、おばあさんが店員に「おでんはどこですか?」と尋ねた。親切な店員は惣菜売り場を教えたそうだが、そのおばあさんは公衆電話を探していたんだとさ!
 公衆電話自体、あまり見かけなくなった現在、この笑い話もほとんど風化しているが……


 そういえば、私がクラシック音楽を聴きはじめたとき、ちょいと詳しい人にあーだこーだ聞かれ、そのころベートーヴェンの「運命」や「田園」に罹患していたので、そんなことを話したら、「割と知ってるん?」と言われ、よく意味はわからなかったものの、なんとなく褒められているのことは間違いないと悦に入っていたら、「ワルトシュタイン」の聞き間違いだった。
 が、あの人、なんで唐突に「ワルトシュタイン」と発したのか、まったくもって謎である。


  いえ、写真もきちんとしてはいます
 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ・ソナタ第21番ハ長調Op.53「ワルトシュタイン(Waldstein)」(1803)。

 私はあまり熱心なピアノ・ソナタ・ファンではないが、この曲のように冒頭からユニークで、また激しいのを聴くと、ベートーヴェンのピアノ・ソナタってすごいなぁ、すてきだなぁ、と感嘆の念を抑えられない(←日本語あってる?)。

 第21番はベートーヴェンの中期のピアノ・ソナタの中では、第23番「熱情」とともに最重要作品と位置づけられている。

 なお、ワルトシュタインというのはベートーヴェンがこの曲を献呈した伯爵の名である。 

 この曲が書かれた1803年、ベートーヴェンはピアノ製作者のエラールからグランド・ピアノを贈られた。
 広い音域、豊かな低音と和音、従来の膝ペダルではない4本のペダル。この新しいピアノの特性を生かして作り上げられたのがこのソナタ。

 今日はシェンクのピアノ演奏で。

 シェンクというピアニストを知らない人も多いだろうが、このCDでまず注目すべきはジャケットデザインである。
 確かにこういう意欲に満ちていないものは少なからず見かけるが、いかにも廉価盤、「まっ、こんなもんでいいか」的なものである。これって生花なのか?造花っぽく見えるが。
  しかも、この得も言われぬほの暗さ。
 なんかテンションが上がらない。〇〇を偲んでって雰囲気だ。

 あっ、書いてあった。セーヴル陶器美術館の“庭の花のブーケ”だって、これ。

 しかしである。
 中身はきらびやかに輝く円盤、じゃなく、なかなかの演奏なのだ。
 テクニックは確かなようだし、じつにしっかりしている。地味かもしれないが、ホンモノって感じがする。

 2003年録音。ワーナー。

疑作もあるでよぉ~♪アーノンクールのWAM初期交響曲集3

20140924Obesum  イタリアでの注目作も疑作……
 これまでCD1,2を取り上げてきた全7枚組のアーノンクールによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の初期交響曲集。
 今日はCD5、なんて昔の図鑑の頒布のような順不同ではなく、CD3を取り上げる。

 収録作品は、

 ① 交響曲ニ長調K.97(K6.73m)【第47番】(1770)
 ② 交響曲ニ長調K.95(K6.73n)【第45番】(1770)
 ③ 交響曲第11番ニ長調K.84(K6.73q)(1770)
 ④ 交響曲第10番ト長調K.74(1770)
 ⑤ 交響曲ヘ長調K.75【第42番】(1771)
 ⑥ 交響曲第12番ト長調K.110(K6.75b)(1771)
 ⑦ 交響曲ニ長調K.111+K.120(K6.111a)(1771)

の7曲。
 ③,④,⑦は3楽章構成、他は4楽章から成る。
 4楽章構成の作品のうち、①,②,⑥では第3楽章に、⑤では第2楽章にメヌエットが置かれている。

 また、②と⑤はモーツァルトの作品かどうかはっきりしないし、③もディッタースドルフの作とする説もある。

MozartHarnoncourtEarlySyms ④は歌劇「ポントの王ミトリダーテ(Mitridate,re di Ponto)」K.87(K6.74a)(1770)の序曲として作曲されたものと考えられており、また⑦は歌劇「アルバのアスカニオ(Ascabio in Alba)」K.111(1771)の序曲と第1曲にニ長調の曲を加えて3楽章の交響曲にしたものである。

 モーツァルトは1769年の暮れから1771年の春まで最初のイタリア旅行を経験している。
 交響曲第11番はイタリア旅行の間に書かれたわけだが、上に書いたように作曲者はモーツァルト本人かディッタースドルフ、あるいは父レオポルトの可能性がある。

 疑作さとされている作品も、疑作、つまりヴォルフガングのものでは断定できないほどモーツァルトらしいのだが、第12番あたりから、のちのモーツァルトを強く感じさせるものとなっている。

 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏は、このような成長過程の作品も飽きさせずに聴かせてくれる。

 1991,'97,'99,2000年録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

  指にニュルっとした感触が
 オベスムとアロエの不夜城の植え替えを遅ればせながら行なった。
 買ったままの状態にしておいて悪かった。
 せまい鉢の中で、根がとぐろを巻いていた。
 百均のではなく、ちゃんとホーマックで多肉植物用の土を買ってきた(サンセベリア用の土もあって迷ったが、果たして中身に違いはあったのだろうか?)。
 なんとなく見た目もマダガスカル島の土を彷彿とさせる。マダガスカル島のことは何にも知らない私だけど……

 そしてまた、このときに発見したのだが、不夜城の下の方の葉が枯れている。というか、腐っていた。
 前に“怒帝王”がオレンジ色になって腐れ死んだことが蘇った。
 病魔が広がらないことを願っている。
 しばらくは親心をじっと我慢して断水する。

追悼・ホグウッド♪C.P.E.バッハ/シンフォニア集Wq.182

BachCPESinfonia174Hogwood  徹底した研究に基づく生き生きした演奏
 昨日の新聞によると、ホグウッドが24日に亡くなったという。73歳。死因は不明。

 ホグウッドは、1973年のピリオド演奏のエンシェント室内管弦楽団を設立。このコンビの名を世界的に有名にしたのが、モーツァルトの交響曲全集だった。

 私にとっては、C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88 ドイツ)の「6つのシンフォニア(6 Sinfonie)」Wq.182(1773)の演奏が衝撃的で、またどれだけ聴いたことか!

 この弦楽による6曲のシンフォニアはまとめて「ハンブルク交響曲」と呼ばれるが、ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンといった古典派の作曲家の前、過渡期である前古典派の、いわば交響曲の成長過程に位置する(作品についてはこちらをご覧あそばせ)。

 私がクラシック音楽を聴き始めた初期の、まだCDが発明されていないLP時代のころから、C.P.E.バッハのバロックのような響きと自由奔放な情感が混合した、良い意味での折衷的な感触に魅かれたが、古楽器による演奏は、まさに疾風怒濤にふさわしかった。

 いま、朝も早からこのCDを聴いているが、この躍動する演奏は、故人の生前の元気な姿を見るような感覚になってしまう。

 1977年録音。オワゾリール。

 職場の同僚のご尊父様が亡くなったので、今夕私は胆振地方の某都市で営まれる通夜の儀に参列してくる。
 コンタワタシでなく、コンユウワタシである。

雪印チーズの箱の茶色い牛、知ってますか?♪ストラヴィンスキー/パストラール

P9170105  夜、寒くないのかな……
 先日ナイタイ高原に行ったときに、まぎれもなくここは放牧地なんだから非日常的光景ではないのだが、牛がいた。何匹、いや、何頭も。

 それを観て私が思ったのは、雪印のプロセスチーズの箱に描かれてる絵ってこんな感じだったなぁ、ということ。
 ここに載せた写真は近くにいたにも関わらず私など存在しないかのようにふるまっていた牛たちだが、もう少し遠くの群れを見ると、それはまさしくチーズの箱の絵だった。

 ただし、ここには茶色のブチの牛はいなかった。あの箱にはさりげなく茶色のブチの牛も描かれているのだ。

 いまでも、茶色の牛からはコーヒー牛乳が出るっていうワケのわからない冗談で無垢な児童をだます大人がいるようだが(私ではない)、じゃあフルーツ牛乳はどうするんだって言いたい。頭にパイナップルでも乗っけてるのか?

 話を雪印プロセスチーズに戻すと、今回調べてみたところ、なんてことだ!パッケージが変わってるではないか!

 私が行ったのは夕方だったが、けっこう寒かった。
 涼しいを通り越して寒かった。少なくともソフトクリームを食べたいなんて微塵にも思わなかった。
 寒いけど牧歌的だった。いや、的ではなく、まさにそのものと言えるだろう。

 にしても、夜中になるとかなり冷え込むだろう。
 牛は寒さに強いとは聞くが、凍えることはないのだろうか?
 あるいはクマとかが出没する危険はないのだろうか?

StravinskySrtBoulez  季節感がないけど、牧歌を
 ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)の「パストラール(Pastorale)」Op.1(1908//改訂'23)。

 前に作曲者が室内楽版に編曲したものを取り上げたが、今回はソプラノ独唱が入ったもの。独唱以外の編成はオーボエ、イングリッシュ・ホルン(コーラングレ)、クラリネット、ファゴット。

 歌曲ではあるが歌詞はない。つまり言葉のない歌が歌われるが、独特の雰囲気がある。

 「パストラール」のメロディーと伊福部昭との関係(あるいは偶然性)については、室内楽版の記事をご覧いただきたい。

  ブリン・ジュルソンの独唱、ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏で。

 1980年録音。グラモフォン。
 CD6枚組の“BOULEZ CONDUCTS STRAVINSKY”のなかの1枚。

  やっと歯がそろう
 昨日は歯医者の日だった。
 これまでこのために通ったといっても過言ではない、右奥上の2本分のブリッジが装着された。
 これで、口全体を使って肉でもイカ刺しでも珍味でも食べられる。
 問題は、無意識的に習慣化してしまった、左側で噛むようにするということが、スムーズに直せるかだ。

一発目で“食べ物のロシアンルーレット”に大当たり♪DSch/ノヴォロシスクの鐘

20140923b  大当たりした私
 いまさらこのあいだの日曜日のことを書くのも、そりゃなんだが、でも個人的にかなり刺激的だったことがあったので、教えちゃう。


 札幌から帯広へ帰る途中、メロード夕張に寄った。
 夕張に化粧品の販売店でもあるのかって?それはメナード。

 メロード夕張っていうのは、前にも取り上げたが、道の駅である。帰るに当たっては、一度夕張インターを通り越すことになるが、1kmちょっとの距離だ。トイレタイムをとるにも、ちょうどいい頃合いに当たる。

 私はこの名について、メロンとロードからメロードと名づけたのではないかと、考え抜いた末に確信しているが、万が一はずれていたら恥ずかしいので黙っている。

 メロードの中には夕張の農協のAコープ店舗も入っていて、地元で収穫された野菜も売っている。生産者の名前も書かれていて、それが誰なのか全然知らないが、何となく安心できるし新鮮で安い。


 今回はトマト2種とナスとピーマンとシシトウを買った。


20140923d そのあと夕張インターに戻り、十勝清水インターまで快適に走り、十勝清水の街中のサツドラでPBの強炭酸水(税込1本59円)を買い、ついでにイチマルで食品をちょっと買ったあと、おしっこをして、再び家に向けハンドルを握った。

 夕食は、シシトウやらなんやらを炒めた一品が出た。いや、妻が出してくれた。


 そのシシトウをアムッっと噛む……
 
 きたぁぁぁぁぁぁぁ~っ!

 内頬の粘膜を、舌根を、ノドチンコを突き刺す辛さが、無人島のアブ大群のように私を襲う。

 ナンバンじゃなくてシシトウなのになぜ?

 ご存じの方も多いだろうが、シシトウにもときおり辛いのが混じっていることがある。
 私はしょっぱなから大当たりしてしまったのだ。宝くじには当たらないのに、なんでこういうのは見事に当たるんだろう?

 口の中が小火(ぼや)状態だ。

 で、辛いからビールをぐびっと飲む。これまた、炭酸が粘膜を刺激して、かえって痛みが増す。
 いやぁ、久々に泣いた。痛さによる涙なんて、物置の屋根に上がろうとして、脚立ごと地面に叩きつけられたとき以来だ。


 いかがでしょう?私の刺激的体験、楽しんでいただけましたでしょうか?

20140923c  ミルフィーユになった長助
 1日あけて、23日。

 この日は帯広大正農協のメークイン祭りに行って来た。
 若い男性よりも家族連れが多かったのは、レースクィーン祭りではないからだろう。

 大きな窯でゆで上げたメークインが美味しい(無料)。にしても、薪を見ると、また電動ノコギリのことを思い出してしまう。

 豚汁も美味しい(300円)。
 若妻会考案の“長助とさつきのミルフィーユ焼き”はなかなかの一品(無料)。長助きんとは大正の長いも、さつきちゃんというのは大正メークインのキャラクター名である。もう1人、大吉くんもいる。
 この3人、兄弟である。

 その帰りに、ホーマックに寄ってみる。
 電動ノコギリの価格を偵察するためだ。

 私が買ったのとたぶん同じものがあった。が、私の購入価格の方が安い。
 ふふふっ、って気分になる。
 帰宅すると、ちょうどそのときクロネコのお兄様が!
 ジャスト・タイムで電動ノコギリが届いたのだった。

ShostakoKirghiz  竃の火、口の小火、そして栄光の火 
 そんな感じで、強引に火つながりでショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「ノヴォロシスクの鐘(Novorossiisk Chimes)」(1960)。作品番号は付けられていない。

 この曲は第2次世界大戦の激戦地ノヴォロシスク(ノヴォロシースク)にある戦争英雄記念広場“永遠の栄光の火”の時計塔から流すために書かれた作品である。

 こういった目的のための楽曲ということもあるが、ショスタコらしくないといえばない曲。むしろ個性を封印しているかのようだが、短いながらも徐々に盛り上がっていくところは、さすがショスタコ、感動的でさえある。

 クチャル指揮ウクライナ国立交響楽団の演奏で。
 録音年不明(録音月日しか記されていない)。ブリリアント・クラシックス。

このオーソドックスさは極上もの♪DSch/Sym5(by テミルカーノフ)

20140923Noko  電動だぜ、ふふふふっ
 Amazonで頼んだ電動ノコギリが届いた。
 日曜日に頼んで、中1日で届いた。
 すごいものだ。

 こちらのマンションに届けてもらったので、まだ使うことができない。眺めるだけだ。

 何かで試してみたい。
 でもできない。

 下手なことを試みると、それは器物損壊などの犯罪につながりそうだ。

 “不人気ブロガーのMUUSANは、たいした期待もされていないのに読者のために投稿を休むことはできないという妄想に取りつかれ、何か大きな話題作りをしなければと、中央公園の樹齢3年のカシワの木のいちばん細い枝を電動ノコギリで切ったとして、補導された。調べに対しMUUSANは「むしゃくしゃしたのと、買ったばかりの電動のこぎりの切れ味を試してみたかったのと、革命を起こしたかった」と、意味不明のことを話している”、なんてことにはなりたくない。

 同僚のコメントとして、日向山課長は「いつかやると心配してたんです」と話し、阿古屋係長は「そんなことあったんですか?」と、しらを切るような気がする。

 それこそそんな被害妄想はともかく、この近代的マシーンの導入によって、私のガーデニング作業-太い枝の伐採、中途半端に壊れた支柱やトレリスの切断(ゴミとして出すには50cmほどの長さまで整えなければならない)、使わなくなったプラスチック製のガーデンチェアの裁断-に革命的な効率化をもたらすだろう。

ShostakovichTemirkanovSet
 あぁ、楽しみだ。

 労働の喜びを想像し、今からワクワクしている。ワクワクしすぎてけがをしないように注意しなければならない。また、電気料金の値上がりも視野に入れておかなくてはならない。

  オーソドックスこそ難しい
 テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団による、ショスタコーヴィチ(Dmitry

Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)。

 ご存知のように、日本では(そして中国や韓国でも)「革命」のニックネームで呼ばれていた作品だ。
 しかし、ショスタコーヴィチ自身はこのようなタイトルを口にしたことも書いたこともない。そして、日本でももはや「革命」の文字は、特殊地帯であるCDの帯を除きほとんど見かけなくなった。


 で、テミルカーノフのこの演奏、あまり巷の評判がよろしくない。
 意表を突くところはないし、泣き落としで責めてくるわけでもないし、不整脈になるようなパワーで圧倒することP9180110もない。数ある演奏の中では、全然革命的、いや革新的じゃないのだ。


 だが、そんなに酷評されるほどの出来栄えかというと、私はそうも思わない。
 むしろ奇をてらわない純音楽的なもので、そりゃワクワクしたい人には物足りないかもしれないが、きちんとした、良い意味で教科書的模範演奏だと思う。変に鋭気むところもなければ、脱力系でもない。
 完全なるオーソドックスというべきか。

 私はこの演奏、そこそこの自信をもって推薦したい。

 1995年録音。ソニークラシカル(RCA)。


  凍った唐揚げが人気らしい
 ところで、福岡で買ってきた努努鶏(ゆめゆめどり)を食べてみた。

P9180111 これも“梅の実ひじき”と並び、バスガイドさんがお土産に好適と強く推していたものだ。


 唐揚げを冷凍したもので、冷凍庫から出して凍った状態、もしくは少し解けかけた状態で食べなくてはならないという掟がある。

 皮と手羽を売っていたが、私が買ったのは手羽。


 口に入れると、う~ん。味は甘辛く、あまり私の好みではない。

 そして食感だが……アタシは唐揚げなら揚げたて、熱々、ジューシーが好き。この、氷温漬け、冷え冷え、ややパサついた感じはちょっと……

 でも、かなりの人気商品で、リピーターも多いらしい。

 気になるなら、あなたも一度ヒヤッとしてみては?

オータムナルなもの…♪ブラームス/Sym4(by ハイティンク)

Brahms4Haitink  コスモスかっ!?
 オータムなう、ではない。

 確かに今はもう秋。なんせ今日は、彼岸であり、秋分の日なのだ。変換して一発目に出たのは“醜聞の日”という漢字だったが……。おぉ、怖っ!
 
 オータムナルというのは“秋咲き風”ということであり、ブラームスの後期の作品がこう形容される。

 知らないって?少なくともハロルド.C.ショーンバーグはそう書いている。

 そのブラームス(Johannes Brahms 1833-1897 ドイツ)の交響曲第4番ホ短調Op.98(1884-85)。

 彼の最後の交響曲であり、古典への逆行傾向が強い、ある意味赤ちゃん返りをした作品である。そして、この曲以降、ブラームスの様式は一層温和で内省的になっていく。
 
 第4交響曲が作曲されていたころのブラームスはすでに(遅ればせながら)音楽界の大御所になっていた。
 1877年にケンブリッジ大学から名誉博士の称号を贈られる。
 以後、ブレスラウ大学の名誉博士号、ベルリンおよびパリの学士院会員への推選、プロシア宮廷の騎士の称号、オーストリア皇帝から金の勲章、ハンブルク市名誉市民といった栄光ビームの照射が続いたのだった。

  孤独感にさいなまれるのは自業自得
 しかし、一方で持ち前の性格の悪さからか、友人との軋轢なども続いた。
 そのため第4交響曲を書いていたころは、精神的にはけっこう孤独な状況にあったようだ。また、肉体的のも体力の限界を感じてもいたらしい(まだ52歳なのに)。
 これらの事情を踏まえ、この交響曲にはそういう孤独な感情が反映しているといわれている。昔の様式に返って、心の安らぎを求めようとしたのかもしれない。

 前途有望だったロットの心を破壊したことに象徴されるように、とにかくブラームスは気難しく皮肉屋だった。

 第4交響曲のハンブルク初演に際しても、ブラームスはひどいことをしている。
 ハンブルク初演はビューロー指揮マイニンゲン管弦楽団によって準備されていた。
 ところが、ブラームスはその数日前にハンブルクに赴き、地元のオーケストラを振って初演をすましてしまったのだ。当然、ビューローは怒り、ハンブルクでの演奏旅行に行くことを拒否しただけではなく、マイニンゲン管弦楽団も辞めてしまった。当然、2人の友人関係は、つまり亀が裂けたわけだ。
 
 古典様式への回帰という点で顕著なのは、終楽章でバロック時代の変奏曲の形式であるシャコンヌを用いていることである。なお、ショスタコーヴィチは交響曲第15番などでシャコンヌと同様の形式であるパッサカリアを用いている

 ブラームスはJ.S.バッハの作品をこよなく愛したが、バッハの「シャコンヌ」についてクララ・シューマン宛てに、自分がこのような名曲を書けたならきっと感激と喜びのあまり発狂してしまうでしょう、と書いたことがある。
 この手紙のころ、クララの夫であるロベルト・シューマンの精神病が発症していたかどうかわからないが、もし兆候が表れていたとすると、「発狂してしまうでしょう」とはあまりにデリカシーがない。いや、ひそかにクララに想いを寄せていたブラームスの皮肉あるいは屈折した意地悪か?
 やれやれ……

 当のブラームスは、ロットを発狂させはしたが、自分はそうならずにすんだが……


 古典傾向ということでは、シャコンヌだけではなく、第2楽章には教会旋法のフリギア旋法が用いられていることもあげられる。

  しっかりしたワイヤ入りのブラのよう
 今日はハイティンク指揮ボストン交響楽団の演奏。
 小細工しない真正面から取り組んだ正統派だ。
 妙に女々しくなることもなく(女の人のことを悪く言っているのではありません)、強音の厚みは心地良い。
 ハイティンクの職人技的誠実さが伝わってくる。 

 このように毅然としたしっかりした演奏が、あまり評価されていないのが不思議でならない。これぞブラームスと、私なんかはビシビシ感じちゃうんだけど。

 この曲の第1楽章には「マルティン兄貴」のメロディーが潜んでいると、私は決めつけている。マーラーが交響曲第1番の第3楽章でカノン主題に使ったのと同じものだ。
 ヴァイオリンのメロディーの下に潜り込んでいるような存在のこの裏メロディーを、ハイティンクはさりげなく、しかし確固なるものとして弾かせている。こういう些細なことが私に無上の喜びを与える。ヘンですかね?

 そしてまたハイティンクのような(地味かもしれないがいい仕事してる)演奏こそ、日本人の感性をツンツンと刺激しそうに思うのだが……

 でも、華々しさがないとダメですかね?
 タコおやじみたいな見た目はイヤですかね?
 ほんと、活き〆したようにキシっとした演奏なのだが……

 1992年録音。デッカ(TOWER RECORDS PREMIUM CLASSICS)

高音質とは、キンキンした音なのか、それとも良い音なのか?♪伊福部昭レコードナイト

Ifukube20140923  早くノコノコしてみたい
 今日は飛び石連休のど真ん中。
 もし私がバスなら、“回送”とか“非営業”とか表示を出したいところだが、本日は通常営業である。でもはっきり言って私は商売をしているわけじゃないので、正しくは通常勤務である。

 このような事情から、昨日この地へと戻って来た。
 きっと今日休みをとって連休にしている人も少なくないのだろう。高速道路は実にすいていた。

 まずご報告。
 電動ノコギリについては悩んだ末に機種を決めて発注した。届け先はこちらのマンションだ。
 次回自宅に帰る際に持って帰り、さっそく私の腕よりも太くなった幹や、私の足の親指より太い枝をキュィィィ~ンとしてみよう。

  「伊福部昭展」に再度足を運んでみた
 さて、土曜日だが、道庁赤れんが庁舎に行って来た。
 今月28日(今度の日曜日だ)に大盛況(?)のうちに惜しくも終わる“札幌国際芸術祭2014”。そのなかの伊福部昭展を再度見に行って来たのだ。一度ならず二度とは、上田市長に義理立てしているわけではないものの、義理堅いものだと自分でも思う。

 この日もそこそこ人が入っていたが、幸い私が行ったときには非日本語は飛び交っていなかった。が、高校生カップルらしき2人が、その場とは全く関係ない話を大きな声でしていた。

 男子 「こないださぁ、ドンキで腕時計買ったんだ」
 女子 「へぇ、それがそうなの?」
 男子 「そう、どう?」
 女子 「君に似合ってると思う」
 男子 「そう?めっちゃうれしい。なはなは」

ってな感じだ。あいつらあのあと、びっくりドンキーにバーグディッシュでも食いに行ったな。きっと。

 あの2人がここに来ていた目的はよくわからない。
 伊福部ファンだったのかもしれないし、単に赤レンガをデート場所の1つに選んだだけかもしれない。そして、「薄暗い部屋があるぞ、しめしめ」と、男は女を誘導し……ってことかもしれない。

 にしても、この会場で展示されているものは、自筆譜など確かにどれもが貴重なものだが、どーも中途半端な印象は否めない。
 映画のポスターにしたって、ゴジラ第1作のもの1枚だけ。
 展示物の説明プレートを照らしているLEDのランプは、場所によっては暗過ぎて何の役にもたっていないし。

 なんかなぁ……

IfukubeMaehashi  玲さんは来るの?
 会場に置いてあったチラシによると、明日、大通公園の西はずれにある札幌市資料館で伊福部作品のコンサートがあるという。

 いまでは言葉が懐かしい“レコードコンサート”というものである。

 それぞれの作品を誰による演奏で聴かせるのか知らないが、“高音質の音環境のサポート“って何ですか?
 音がキンキンしてるの?

 で、伊福部玲さんは来るの?それとも音源を選んだご協力のみ?

 それとね、札幌市資料館の住所くらいは載せた方がいいんじゃないかと思う。それとも札幌市民なら場所くらい知ってるはずとでも?それに市民以外は暗に拒否?

 このような感じで、あちこちでどこか仕事のツメが甘いと感じるのは私だけか。

 文句ばかりつけて申し訳ない気もするが、でも、細かなところまで注意を払わなきゃね。良いイベントだったと評価されるためにも。
 レコードナイトに関して言えば、私はこの日札幌にいないわけで、関係ないっちゃー関係ないんだけど。

 その伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「土俗的三連画(Triptyque Aborigene)」(1937)。
 作品についてはこの記事なんかを気が向けば読んでいただきたいが、明日は誰の録音をかけるんでしょう?

 この曲の貴重な音源として、エッシュバッハー指揮NHK交響楽団による1955年ライヴ録音を収めたCDが出ている。

 貴重な音源である、間違いなく。
 ただ、演奏は速めのテンポでどうも落ち着きがない。間合いもせっかち。
 この曲が持つ物悲しげな情感が生きていない。

 NHK-CD(キング)。モノラル録音。

自宅の庭で大胆にヘイヘイホー♪サン=サーンス/Sym3(by ヤンソンス)

20140920Plune1  アタシは木ぃ~を切る~
 金曜日。
 午後に札幌の家に戻った私は、雨が降ったりやんだりのなか、プルーンの木の枝をギコギコと切った。

 なぜギコギコかというと、ノコギリで切ったからだ、ノコギリだからギコギコ。少なくともギリギリよりはふさわしい表現だ。
 でも、精神力はギリギリだった。枝というよりも太い幹も切ったのだが、何度途中で棄権しようかと思ったことか!

 この木の苗を買ったのは今から15年ほど前。
 そのときは高さが1mほど、幹の太さも下部の太いところでも1cmほどと、つまりは杖にも使えないほど華奢で頼りないものだった。

 それが今や、かわいらしくもないほど武骨になってしまった。
 このままだと家に引き込んでいる電線に枝が届いてしまう。

 なぜここまで放置させてきたか?
 大きくなればそれだけ実も多くつくと考えたからだが、ここ数年めっきり実がつかない。
 切らなかったもう1つの理由は、枝も太くなってしまい、ノコギリで切るしか方法がなくなったからで、つまり面倒だったわけだ。

20140920Plune2 しかし、大きくなれば木の上の方を殺虫殺菌できないという問題がある。
 実際、ここ数年の不作は虫や病気によるものと考えられる。早いうちから葉が散り始めるし……
 もし豊作になったとしても、上の方の実の収穫は大変なことになる。

 そこで今回、一念発起して大胆に切ることにした。

 切った枝や幹の分量に驚かれたことだろう。驚かなかった人は、これを機に驚いて欲しい。なお、レンガは今回の伐採と関係ないことは、言うまでもない。
 切ったあとの木の姿は……なんかみじめったらしい。

 そんなわけで、大胆ともいえる演奏を。

  オルガン付きではなく、オルガンが主役のよう
 ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、マーシャルのオルガンによるサン=サーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921 フランス)の交響曲第3番ハ短調Op.78(1886)。終楽章の大胆さ、ワイルドさが超気っ持ちいい、不良的爆炎。

 「オルガン付き」と呼ばれることもあるこの交響曲だが、むかしある雑誌に載っていたジョーク集に、この曲にまつわるこんなのがあった。

 「おい、このレコード、ポスター付きって書いてあるぜ」
 「なんだよそんなの。こっちはオルガン付きだぜ」

 うける人にはウケるんだろう。きっと。

 ヤンソンスの演奏は、オーケストラを伸びやかに歌わせるが、実に引き締まったもの。多くの演奏よりも一段上のスケール感がある。しかしながら決して重々しくならないのが、この曲にふさわしい。細かいところもきれいだ。
 第1楽章第1部は上に書いたのがそのまま当てはまるし、第2部(実質第2楽章)では冷涼な澄んだ音が、これまた曲にぴったりだ。
 第2楽章に入り、第1部(実質第3楽章)は疾風のごとく進んでいく。メリハリが効いている。

 ここまでもすばらしい演奏の表情が、さらに驚きの変貌を遂げるのは最後の第2楽章第2部(実質第4楽章)。
 この部分はオルガンの強奏で始まるが、マーシャルのオルガンが強奏なんてもんじゃない。ケンカ売ってんのかいってくらいの爆奏だ。
Saint-Saens3Jansons この第4楽章でのオルガンはとにかくすごい。野蛮ですらある。
 オーケストラの音がオルガンにかき消される寸前の響き。破たん寸前を、ぎりぎりのところで維持する。
 このサウンドの中にいるとストレス発散&快感。だが、響きだけではない。これはこれですごい名演である。

 録音は1994年1月19~22日だが、別に“Organ Recorded”として1994年3月17日と記されている。
 ということは、オルガンは別録りだということだろう。

 確かにこれを実際にふつうに演奏したら、オケは自分の音を見失いかねない(指揮者がちゃんとしていればそんな心配はないのか?)。

 別録りっていう技法、私は嫌いである。
 でも、これは許す。録音技術によって成された名演ってことで、ここは私が折れよう。
 英知を結集した現代のテクノロジーと優秀な演奏者との偉業ということにしておこう。
 こんなに恍惚になれるサン3はなかなかない(←Hな意味ではありません)。
  ワーナー(HYDRO)。

 切り落とした枝についている小枝は剪定ばさみで丁寧に切り落とし、さらに細かくしてゴミ袋に入れた。
 問題は剪定ばさみでは切れない太さの幹や枝である。
 まっすぐならまだしも、二股になっていたり、グニャラグニャラと三角関数のグラフのように曲がっていたりで、もうこれ以上は手ノコでの作業は困難だ。

 で、電動ノコギリを買おうと思っている。次回はこの電動ノコギリで、鼻歌まじりで楽々作業ができるはずだ。

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