おかず、足りないんですけど……
お盆気分を完璧に心の中から払拭したとは決して言い切れない月曜日。
その日の昼食は、藤〇百貨店の地下にある肉製品で有名な店(東京にも進出しているはず)のイートイン・コーナーで食べた。
私はカツカレーを食べた。価格は税込680円とリーズナブル。しかもカツはこの店自信の一品である。
確かにレベルの高い味だ。
だが、私はライスを概ね4口分残した。
食べすぎないようにしているからかって?
それもあるが、この日の場合は自分の意思というよりも物理的要因によった。カレーのルーが少なくて、最後は“おかずが足りない”状態に陥ってしまったのだ。
お願いがあります。
そこでケチんないで、もう少しルーをかけてください。カツも大切ですが、ルーはカレーの命ですから。
ルーがかかっていない、そして皿のどこにももうルーが残っていなければ、それはカツライスの残り数口分。
でも、ソースもなければ、もはやカツもおなかにおさまったあと。ということは、ただの白飯数口分。
そういえば、福神漬とかも添えられてなかったな。最近そういうポリシーの店、増えてきたような……。口直しは不要ってことかな?
“福”といえば伊福部
以前紹介した「ゴジラ音楽と緊急地震速報」(筒井信介著,伊福部達監修。ヤマハミュージックメディア)のなかに、次のような記述がある(p.102)。
外交問題、大学の受け入れ拒否と、さまざまな障害を乗り越えてスタートした蝋管の研究だが、蝋管そのものにも課題は山積していた。
まず、再生機の問題。蝋管を再生するためには蝋管式蓄音機が必要だが、どこに行けば手に入るのか見当もつかなかった。
ある日、伊福部(達)が新聞を読んでいると、札幌の「夷路尊(えじそん)」というオーディオマニアの経営する喫茶店があり、そこに蝋管式蓄音機のコレクションがあるという記事が載っていた。早速「夷路尊」に出向いて店主と交渉し、一台の蝋鑑識蓄音機を借りることができた。
この喫茶店、たぶん私の実家近くにあった喫茶店だ。
いま、西警察署が建っている場所(ここは墓地だった)の横。山の手通り沿いにあった雑居ビル(といっても、たぶん2階建てだったような……)の1階。
当時住んでいた実家の近くの喫茶店が、のちに伊福部(達氏の方だが)と繋がるとは……
いや、伊福部達が出向いたころ、「夷路尊」はもうあの場所にはなかったかもしれない。
「夷路尊」がいつ西野に店を出したのかしらないが、私がこんなところに喫茶店ができたと気づいたのは、1980年ころのこと。
当時、私はまだ伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の作品はほとんど知らなかった(作曲者も知らずに特撮映画の音楽に魅かれてはいたが)。
一度NHK-TVで観た郢曲「鬢多々良」も、曲のイメージしか残っていなくて、旋律そのものは記憶になかった。この曲は録音が出ておらず、入手困難だった。
兄の命を奪った放射能が自分にも
私がはじめてきちんと聴いた氏の作品は「交響譚詩(Ballata Sinfonica)」(1943)だった。
「交響譚詩」については、こちらの記事をご覧いただきたいが、この曲は伊福部昭が放射線障害で亡くなった次兄・勲の追悼曲として書いたもの。
そしてまた、伊福部昭も強化木の研究で放射線障害になり、1年間の静養。その後、札幌から上京する日の朝、街頭に流れたのが「交響譚詩」だった。
1946年の8月16日、つまり敗戦1周年の翌日に札幌を発ちました。東京へ、ではなくて日光へ、なんですが。その頃、札幌というところはなかなか親切で、私が発つ朝、札幌放送局というのが《交響譚詩》を、レコードでかけてくれたんですよ。誰がかけたかしらないけども、放射能で死んだすぐ上の兄貴の追悼曲として書いたものですから、「おまえも、今は元気になったつもりでも、じきにやっぱり放射能で死ぬぞ」という意味にもとれる。単なる親切のようでもある。なんか不思議な感じで。あの頃は街頭というか、ラジオの音が街中に大きく鳴っているんですよ。それが流行りでしてねえ。今のように放送局が多くないから。NHKしかありませんから。NHK一カ所から出ればどこからでも鳴ってるというような。それで自分の曲が聴こえるんですね。札幌を発とうと街を歩いているときに。 (「自伝承」~「文藝別冊 伊福部昭」p.79:河出書房)
「交響譚詩」の演奏では、芥川也寸志指揮のものが定評があるが、ここでは原田幸一郎が新響を振った1994年ライヴを紹介しておく。
パワーがあるが小気味よく、同時にこの作品がもつ独特のもの悲しさや寂しさを失なわない、バランスの良い演奏だ。
レーベルはフューチャーランド。
あの当時、わが家で使っていたカレールーはハウス印度カレーだった。
バーモントに慣れてしまってからは、印度カレーの味はけっこう違和感がある。
ところで、参考までに書くと、月曜日の昼は、秋吉課長はメンチカツプレート、阿古屋係長はなんとかいうプレートだったが、その実体はナポリタン・スパゲティだった。