新・読後充実度 84ppm のお話

 クラシック音楽、バラを中心とするガーデニング、日々の出来事について北海道江別市から発信中。血液はB型かつ高脂&高尿酸血症の後期中年者のサラリーマン。  背景の写真は自宅庭で咲いた「レディ エマ ハミルトン(2024年6月22日撮影)。 (記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

“OCNブログ人”時代の過去記事(~2014年6月)へは左の旧館入口からどうぞ!

2014/07

元気よく始まり、とても元気よく終わる ♪ブリテン/詩篇150番

BrittenSSHickox   主も褒められると悪い気はしない?
 ブリテン(Benjamin Britten 1913-76 イギリス)の「詩篇150番(Psalm CL)」Op.67(1962)。

 昨日は、同じく詩篇(詩編)など旧約聖書から歌詞をとっているペンデレツキの交響曲第7番を取り上げたが、ブリテンの「詩篇150番」は、曲調も雰囲気もまったく異なるもの。
 児童合唱の歌声が、非常によくできた学芸会の出し物のようで、聴いていて微笑ましくなるし、歌っている子の親なら胸が熱くなるだろう。
 

 この作品について私は詳しいことを知らないが、曲は Lively - March - Lightly - Very lively という構成になっている。

 旧約聖書の詩篇は150からなる。つまり第150篇は、詩篇の最後に置かれているもので、その内容は以下の通りである。

 主をほめたたえよ。
 その聖所で神をほめたたえよ。
 その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。
 その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ。
 そのすぐれて大いなることのゆえに
 主をほめたたえよ。
 ラッパの声をもって主をほめたたえよ。
 立琴と琴とをもって主をほめたたえよ。
 鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。
 緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。
 音の高いシンバルをもって主をほめたたえよ。
 鳴りひびくシンバルをもって主をほめたたえよ。
 息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。
 主をほめたたえよ。

 これを見ると、とにかく鳴り物を鳴らして主を褒めたたえまくろうっていう内容だ。
 誰だって褒められれば悪い気はしない。それは主も同じだったのかもしれない。となると、こうやって讃えたユダヤの人たちはすっごい褒め上手ってことになる。

   ところで原題のCLって?
 マイティアのことではない。
 ローマ数字では、例えばⅠは1であることをご存知の方は大多数いる。12までは知っているのではないか?
 なぜなら、時計の文字盤に書かれていることが多いからだ。

 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ、Ⅹ、Ⅺ、Ⅻ

 この文字を“時計文字”という人もいるが、ひねくれ者の私は、私の時計には書いてないもんねぇ~と、心の中で思ったりする。

 5はⅤであるが、Ⅴより1つ小さい4はⅤの左側にⅠがつく。
 10はⅩだが、Ⅸの表記の原則も同じだ。
 さて、Ⅹの次の文字はL。Lは50のこと。さらにCは100。Dが500でMが1000。
 つまり原題の「Psalm CL」のCLは、150という数字だ。
 長々書いてきたが、そんなの想像つくよな。すまんかった。

 参考までに書くと、例えば200はCC、600はDCとなる。
 ここでちょっと思ったのだが、ローマ数字で時分秒を表示するデジタル時計を発売したら、間違いなく売れないと思う。

 われわれが当たり前のように使っている1、2、3……という数字はアラビア数字である。

 初めて耳にしたときには「なんだか一風変わった曲だな」と感じた「詩篇150番」だったが、短い曲ながら聴けば聴くほど愛着がわいてくる。

20140720Lily ヒコックス指揮シティ・オブ・ロンドン・スクール・フォー・ガールズ管弦楽団、同合唱団、シティ・オブ・スクール・ロンドン合唱団の演奏を。下手くそのようでいて、でもきっとちゃんとしている演奏(の予感が強くするものだ)。聴いていて心が浮足立つ(褒めてるんです)。
 1990年録音。シャンドス。

 さて、三連休最終日だ。
 土曜、日曜と雑草抜きやバラの剪定を、各々2時間くらいしたが、そんな時間でも足や腰が痛い。
 バラの花はいったんピークを終えているが、今はおととしに紫竹ガーデンに行ったときに入場者プレゼントでもらったユリの球根が、放任していたにも関わらず今年もちゃんと開花した。
 また、昨日は街中にちょっと出かけたが、ある雑貨屋で観葉植物やサボテンが売られていて、そのなかにオベスムもあった。おしゃれな鉢に植わってはいたが、私が買った株と同じくらいの大きさで4500円。やっぱ、あれは安く買えたと実感した。

 午後に帰る。

フィーバー気分とは無縁の777 ♪ペンデレツキ/Sym7(by ヴィト)

PendereckiSym7   旋律貯古齢糖のことはご存知ですか?
 その厳粛・厳格さに畏敬の念を抱きつつも、ワクワクするような展開に引きこまれ、結果的に「いい思いさせてもらったわい」と俗物的な感動をさせられてしまう作品。

 ペンデレツキ(Krzysztof Penderecki 1933-  ポーランド)の交響曲第7番エルサレムの7つの門(Seven Gates of Jerusalem)」(1996)。


 ペンデレツキは前衛音楽から、のちに新ロマン主義へと作風を転換したが、近年は宗教音楽を多く書いている。
 だから、この作品も不協和音が鉄工所の中にいるように鳴り渡るのではなく、極めてメロディック。でも破壊力もあり、オルフの「カルミナ・ブラーナ」に通じるような箇所もある。

 そういえば、子どものころ不二家のメロディー・チョコレートっていうのがあって、それまでの板チョコと違い、1粒1粒が分かれていたのが画期的だった。


   朝から聴く曲ではないことが判明
 交響曲第7番はエルサレム建都3000年記念のためにイスラエル政府から委嘱されて作曲された。
 歌詞は旧約聖書の詩編、イザヤ書、エゼキエル書、エレミア書、ダニエル書による。

 ヴィト指揮による演奏のCD(ナクソス)の帯には、“題材も7に絡めば、楽章の数も7、7音の動機も登場する”と書かれており、「フィーバー!」と死語の1つもを叫びたくなる(人もいるだろう)が、まったく浮いた音楽じゃなく、実にシビア。ただ、ペンデレツキがこれに第7番という交響曲の番号を与えたのは、あとになってからで、このあたりはしたたか。

 どの楽章も聴きごたえ十分だが、なかでも“Lauda,Lauda”と歌われる第5楽章は、妖怪人間ベムが出てきそうな雰囲気。


 3日前の木曜日。
 この日の朝は釧路から帯広までのスーパーおおぞらに乗車。

 車内で、何を血迷ったのかこの曲を聴いてしまったのだが、早朝の爽やかな気分は一挙に消失し、車窓からすぐ近くに見える海を見ても、「あぁ、海は広いなぁ。大きいなぁ」なんて呑気なことを言ってられず、「あぁ、いま大地震が来たら脱線するな。脱線を免れ急停車しても、レールに異常のないのが確認される前に大津波が来たら、のみこまれちゃうな」という、後ろ向きの考えしか浮かばなくなった。

 そんなことはアタイのことはともかく、なかなか聴きごたえのある、きっと末永く生き残っていく予感がする作品だ。

 演奏者をあらためて記すと、ヴィト指揮ワルシャワ国立フィル、同合唱団、パシェチュニクとミコワイのソプラノ、マルチニェツのアルト、オフマンのテノールにテサロヴィチのバス。語り手はカルメリ。
 2003年録音。ナクソス。

   初演指揮者はマゼール
 なお、このCDについて、タワレコのオンラインショップでは次のような説明がされている。

 1997年にエルサレムで初演された交響曲(当初はオラトリオとして作曲)は、ペンデレツキ近年の評価を高めた力作であり、作曲者指揮による映像(アルトハウス:100009)などで日本でも話題になった作品です。ナクソスでは中心的な指揮者の一人であるヴィトが、鋼鉄のような構成力で描ききっている名演です。

 第4次中東戦争の翌年1974年に初めてこの都市を訪れたペンデレツキにとって、イェルサレムは特別な意義をもった都市です。その時にペンデレツキは、イェルサレム建設三千年祭を記念する作品の委嘱を受けました。  
 1996年にオラトリオ「イェルサレムの7つの門」を作曲しました。第8の門とは、ユダヤ教の伝統の中では、救世主のために用意されているとされています。この作品は、翌年マゼールの指揮で初演されました。ポーランド初演の後、ペンデレツキはこの曲を「第7交響曲」と呼ぶことにしました。

 マゼールが初演してたとは。
 そのマゼールも、神のもとへ行ってしまった。

 777と言えば、撃墜されたマレーシア旅客機はボーイング777だった。
 しかし、撃墜とは……

 それから、倉敷で不明になっていた女の子。無事、保護されて良かった。
 それにしても、こういった類の事件、なんでこんなに増えているのだろう。

ただ「やります」だけじゃダメです♪伊福部/vnソナタ(by 舘野)

IfukubeReikoYamada3   慌ててポスター貼りまくり
 今日から札幌国際芸術祭なるものが開催されるという。

 このイベント、札幌市が鳴り物入りで開催するつもりだったようだが(って、過去形を使ってしまったことに他意はない)、だぁれも知らん、浸透しないということで、まったくチケットが売れていないそうだ。

 そもそも、ほとんど宣伝もしないでおいて、それでチケットが売れるに違いないと思い込むところが、お役所的なたいそうな自信。
 営業活動しなきゃ、ダメに決まってる。

 前売券発売直後の2カ月ぐらい前にこのことが新聞に取り上げられ、私が行った5月と6月の札響定期の会場では、パンフレットを配るなど慌てて宣伝していた。
 また、先週のことだったが、地下鉄大通駅のあたりに一生懸命ポスターを並べて貼っていた。


 新聞で記事になったせいで、逆にそれが宣伝になったんじゃないかと思うものの、6月末時点での前売りチケットの販売数は7,000枚ほどだという。販売目標は2万枚だそうで、半分も売れていない。

 しかも、ゲスト・ディレクターを務める予定だった坂本龍一氏が、ガンの治療に専念するため出演できなくなった。もう、泣きっ面にハチ。目玉を失った目玉おやじ状態。
 これはどうしようもないものの、でも最悪のタイミング。札幌市が気の毒でもある。
 こんなことになる前に、早くチケットをさばき切るような手を打たなかったのが悪いんだろうけど。

 ところで、坂本龍一って日々の暮らしで体に毒となるようなものは一切摂っていないイメージだが、ガンってあまりそういうのって関係ないのかもしれない。

 こう書きながらも、いまだどんなイベントなのかさっぱり理解していない私。
 新聞広告とかを見ても、よくわからないのだ。ホームページもめいっぱいおしゃれしてるが、中身がよくわからない。
 札幌にゆかりのある、伊福部昭のコンサートでもあるなら行くんだけど。
 いや、伊福部昭も取り上げられるのだ、実は。ただ、道庁赤レンガで“何か”を展示するのであって、氏の作品のコンサートではない。

 某道内月刊誌によると、市の職員がチケットを買わされてるらしい。
 関係ない部署の人には気の毒な話だ。

   札幌に伊福部あり、だったのに……
 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)のヴァイオリン・ソナタ(1985)。
 作品についてはこちらの記事をご覧いただきたいが、そこでは初演者である小林武史の独奏による録音を紹介している。

 今日はヤンネ舘野のヴァイオリン、山田令子による演奏を。ヤンネ舘野は、ピアニスト舘野泉の息子である。

 この演奏、骨太度では小林の演奏に及ばないが、歌い回しが良い。そしてまた、山田のピアノが見事。伴奏パートがこんなに充実した音楽だったのかと、あらためて気づかせてくれる。

 2013年録音。ゼール音楽事務所。

 さて、今日はこのあと札幌に向かう。
 三連休ですもん。
 バラを愛でて、アブラムシを傷めつけるつもり。

引っ越しそばは振る舞えませんが……♪ストラヴィンスキー/星の王

StravinskySrtBoulez   あぁ、引っ越し狂騒曲
 以前にも少し書いたが、今回のブログ引っ越し狂騒曲についてお詫びも含め最終報告させていただく。

 OCNブログ人を利用して「読後充実度 84ppm のお話」(以下、OCN版旧サイト、と記す)を書き始めたのは2007年8月のことだった。

 そのOCNブログ人のサービスが今年11月で終了すると発表されたのが5月のこと
 正直なところ「え~っ!そんなことってあんのかよぉ~!」という憤りを感じた。そのころ、車のフロントガラスが割れたりして、私はすっかり前向きな気持ちを失っていたのに、この追い打ちである。

 終了までのスケジュールとして、gooブログへの引っ越しツールを準備してくれるということだったが、それは夏になってからということだった。

 ここで、OCN版旧サイトの記事をどうするか。そして、これからの記事をどうするかの2つの問題をなんとかする必要が生じたわけだ。


 まず今後の記事。
 11月末まではOCNブログ人を使えるわけで、当初はぎりぎりまでここで記事を書き続ける気でいた。
 最終的にgooブログに引っ越せば、過去記事へのリンクも生きるよう修正されるような案内だったからだ。そこでgooブログを試しに使ってみたが、デザインに気に入ったものがないし、私にはとても操作性が悪い。
 というわけで、すぐにgooブログの利用は選択肢から捨てた。

 となると、OCN版旧サイトの記事リンクは11月以降は死んでしまうことになる。
 となれば、1日も早く別なブログサービスに移り、その日からの記事はリンクが有効になるようにした方がよいと判断した。

 そこで、これまでの記事と、今後の記事は別なサイトにすることにした。
 新たなサイトはライブドアブログを利用することにし、その名は斬新な「新・読後充実度 84ppm のお話」(以下、新84ppm、と記す)とした。新規投稿の開始は6月22日である。
 ただし、ここで書いた記事の中で過去記事にリンクすることはできない。リンク先はOCN旧サイト内の記事となるわけで、11月にはこの世から姿を消すからだ。今後リンクをクリックした人に、多大な迷惑と精神的苦痛を与えてしまう。

 そんなとき、ライブドアブログからOCNブログ人からの引っ越しに対応したという発表があった。6月27日のことである。写真もきちんと移行できるという。

 本家本元のOCNが、gooへのツールを8月に用意すると言っているのに、見事なスピード感だ。

 新84ppmは有料プラン(いちばん安いコース)にしたが、無料プランを利用してOCN版引っ越ししてみることにした。
 OCN版旧サイトの記事の数は2400話以上あり、容量が大きすぎるので、一括で移行するのは無理。そこで書き出したファイルを15回分に分けて順次引っ越し作業を行なった。
 作業はトラブルなく終わり、リンクも有効。

 これをOCN版旧サイトと同じ「読後充実度 84ppm のお話」とした(以下、LB版旧サイト、と記す)。
 「旧・読後~」という名も考えたが、ただでさえ忘れられつつあるのに、自ら積極的に“旧”なんてつけたらほとんど見向かれなくなるだろう。あるいは、読者の中には“旧”を1日と勘違いし、1日限りの掘り出し物でもあるのかとやっきになり、自分の勘違いを棚に上げてクレームをつけられる恐れもあった。
 「元祖・読後~」も候補にあげたが、元祖という言葉にはどこか信用ならない響きがある。元祖・天才バカボンでそれを思い知らされた経験のある私は、読者の混乱を多少は気にしつつも同じタイトルにすることにした。


 この作業によって、6月22日以降に投稿した記事で過去記事にリンクする場合は、ちゃんとLB版旧サイトの記事に行くようになった。

   名案がひらめいたのに、しくじった
 ただし、LB版旧サイトに移行した記事の中においては、過去記事にリンクする部分は当然OCN版旧サイトの該当記事に飛ぶことになる。これはやむを得ないことだ。
 いずれにしろ11月末には「ファイルが見つかりません」というエラーが表示されることになるが、それまでの間、なんとかリンクを殺さないでおくことはできないだろうかと、要望もないのに考えた。

 コトは簡単だ。OCN版旧サイトを最後の最後まで残しておけばいいのだ。でも、今まで使ってきた使っていたOCNの有料プランの料金を11月まで払い続けるのも癪に障る。

 そこで、OCN版旧サイトの記事の古いもの500話分くらいを削除して容量を減らし、ブログ人の無料プランに変更しようと考えた。無料プランにするには、これまでのデータ量がでかすぎるのだ。

 ところが、古い記事を削除しようとすると、そこにたどり着くまでにひどく時間がかかる。
 しかも、作業の途中でなぜか最新記事の50件の一覧画面に戻ってしまい、その50件を削除してしまった。
 酔いが回っていた私は、もういいや!とばかり、すべての記事を削除してしまった。


 ということで、その後OCN版旧サイトは無料プランに変更したものの、残っている記事は閉鎖をお知らせする記事1つしか残らないことになった。

 ライブドアブログで便利なのは、予約投稿ができることである。ブログ人では、私が利用していた有料プランのいちばん安いコース(「ホップ」)では、予約投稿ができなかった。
 ブログを投稿するときは、いちおう読み直しをするので予約投稿機能はあまり使わないが、出張に出ているときなど、とても重宝する。もちろんその前に記事を完全なものにしておかなくてはならないが。

 もう1つは、新規記事投稿のpingの送信先の登録がいくつもできることである。ブログ人ではブログ人側であらかじめ設定してある2か所へしか送信できず、それ以外には毎回手作業でping送信しなければならなかった。

 そして何より、操作していてもレスポンスが良好。しばらく待たされるということがない。


 カメレオンのように、名前をちょこちょこ変えたりスケジュールを変更したりしたが、OCN版旧サイトから引っ越ししたサイトは「読後充実度 84ppm のお話」として、また6月22日以降の記事は「新・読後充実度 84ppm のお話」として、いずれもライブドアブログを使って、片や好評塩漬け中、片や地道に更新中である。


   小品なのに演奏がむずかしい
 カメレオンと呼ばれた作曲家。それはストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)である


 ストラヴィンスキーの作風は当初は原始主義、次いで新古典主義、さらにセリー主義と変遷したために、その変わり身からカメレオンと言われたのだった。

 彼のカンタータ「星の王(Le roi des etoiles)」(1911-12)。

 エトワール……。
 この単語を耳にすると、反射的に続けて“海渡”とつながってしまう、困った私である。
 子どものころ、エトワール海渡のCM(の声)をずいぶん耳にした後遺症だ。が、カイトが海渡という苗字から来ているとは知らなかった。いまから15年くらい前に東京に出張に行ったとき、たまたま小伝馬町だかそのあたりのエトワール村に迷い込んで、初めて知ったのだった。
 
 それはそうと、「星の王」はK.D.バリモントの詩「星の顔をした人」をテキストにした、6声の男声合唱とオーケストラのための作品。演奏時間は5分半ほどと短いのだが、演奏が難しいそうで、滅多に聴かれることはない。

 作曲されたのはちょうど「春の祭典」と同時期で、つまりはまだ原始主義の時代だが、この作品でストラヴィンスキーはドビュッシーの和声法に近づいているそうで、実際ドビュッシーはこの曲の楽譜を見て1913年に絶賛する内容の手紙をストラヴィンスキーに送っている。

 なんだか実体がよくわからない作品だ。響きはドビュッシーっぽくもあるが、とっつきにくい、というよりも不思議ちゃん、あの人宇宙人、って感じの音楽。「春の祭典」の第2部冒頭のような雰囲気もあるが、それ以上に闇の世界。

 ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団、同合唱団の、かなりきちんとした演奏を。
 1996年録音。グラモフォン。


 ストラヴィンスキーを好んだ伊福部昭は、片山杜秀のインタビューに次のように語っている。


 伊福部 「ついこの前、《星の王》ですか、あれを聴いたんですけど、ちょっと分からないなあ」
 片山   「《星の王》は変わってますね」
 伊福部 「ええ、変わってます、変わってます」
     (「文藝別冊 伊福部昭」72p)

爽やかでない悩みと爽やかな音楽の話♪J.Cn.Bach/Sym Op.18-1

BoccheriniYoYoMa   明らかに気のせいなんですが……
 乗り物に乗る前って、なぜか“大”がしたくなる気がするのは、なぜだろう?

 そういうことってありません?私はあります。


 そういえば、知り合いに本屋に行くと“大”がしたくなるって人がいたが、そちらのほうは大丈夫です、私は。


 私のもよおし度合いは、JRよりも都市間バス、都市間バスよりは飛行機の方がより強い傾向にある。

 このことから間違いなく指摘できることは、私は都市間長距離バスの運転手やパイロットに対する職業適性がないということ。しかも、“大”の件はもちろんのこと、“小”、すなわちオシッコの問題がそれ以前に生じる。

 “大”、そして“小”に関し、飛行機での強迫観念がいちばん強いのは、いざというときにシートベルト着用サインが点灯していたら、にっちもさっちもいかないという恐怖があるからだ。
 都市間バスの車内にはトイレがあるが、そこに行きつくには狭い通路をカニ歩きしなければならないし、たいていの場合、途中誰かが通路に障害となる荷物を置いている(それも、たいていの場合は中年以上のご婦人である)。だから、トイレ近くのシートを指定されると、強迫観念は消失し、快適なバスの旅になる。


 先週の土曜日にバスに乗ったときも、発車した瞬間になんだかおなかを壊しそうな予感がして、“大”を近い将来もよおすような気がしてならなくなった。
 結果的には、自宅に到着するまで、そしてさらには翌朝まで、砂の中でおとなしくしているマテガイのように、“大”は外気にさらされることなく体内にとどまったが、こんな心配を毎度抱えているなんて、私はとてもかわいそうである。


 これから移動する。
 でも今日は何の心配も要らないだろう。
 JRだし、乗っている時間もそんなに長くないから。
 そう思うと、クリスティアンのシンフォニアのように気分が軽やかだ。

   おやじを否定するかのように……

 キリスト教徒の交響曲って頭脳内変換したあなたに言う。

 違います!


 J.S.バッハ(“大バッハ”と言われるが、この言い方、大馬鹿みたいで私はあまり好きじゃない)の末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Cristian Bach 1735-82 ドイツ)のシンフォニア集Op.18,T.269/4(1781頃出版)から、第1番変ホ長調

 Op.18のシンフォニア集は6曲からなる。なお、T.番号はテリーによる1967年出版の作品目録の番号である。


 クリスティアンが活動していた当時、その名声は父親のセバスティアンの影がかすむほどであった。
 厳格な父親の作品が時代遅れとされて、代わりに息子の軽やかタッチ、ソフラン仕上げのような音楽が大人気。
 人々の音楽の嗜好が劇的に変わっていったことがわかる。
 浪曲師を父に持つ息子がフォークソングで人気が出ちゃったって感じだ。


 その作風は軽やかで自由で優雅。兄のエマヌエルよりも形式に縛られていない感じだ。
 モーツァルトに似ているが、それはモーツァルトがクリスティアンに影響を受けたため。したがって、モーツァルト

がクリスティアンに似ているというのが正しい。

 このOp.18-1のシンフォニアは2群に分かれたオーケストラで奏され、親しみやすいメロディーが心地よい。
 どこかで耳にしたことがあるように感じるのは、やはりモーツァルトっぽいからなのだろう。

 ズッカーマン指揮セント・ポール室内管弦楽団の、締まりながらも爽快な演奏を。
 1981年録音。ソニークラシカル。

 私はエマヌエルの作風の方が好きだが、クリスティアンのそよ風のような音楽は多くの人に抵抗感なく受け入れられるはずだ。
 エマヌエルとクリスティアン。兄弟なのにずいぶんと音楽に違いがあるのは、歳の差、活躍した場所(エマヌエルはドイツ、クリスティアンはイタリアやイギリス)、そして母親の違いもあるだろう(2人は腹違いの兄弟である)。社交性はクリスティアンの方があるが、私にとって長く付き合いたいのはエマヌエルである。

橙色に輝くラー油、魅惑の麺、艶やかな白米♪伊福部/釈迦(by 石井)

IfukubeBuddhaIshii   久々の炭水化物W 
 先週の金曜日の昼、禁断を破って久しぶりにタンタン麺+小ライスを食べた。

 ちなみに、あなたの人生とってなんの参考にもならないだろうが、一緒だったヤマダ課長はヘルシー炒飯、阿古屋係長は十勝ご当地メニューである中華ちらしを注文した。

 いちばんヘルスにご留意願わなくてはならない私が、最もヘルシーではない食べ方をしたわけだが、私が「タンタンメ……」と言ったら、注文を取りに来ていたお姉さんが「ン、と小ライスですね」と、夫婦漫才のように絶妙に言葉を続けてくれたわけで、ここで否定しては男としてあまりにも罪深い。

 行きつけの店なのでこのように覚えていてくれるわけで(と言いながらも、行ったのは久しぶりという矛盾)、たいへんにありがたいことである。

 何十年かぶりに小ライスと共に食すタンタン麺は(感覚的としては、それほどなのだ)、エバラとは関係ないが、黄金の味。感無量だ。
 でも、腹八分目に抑える生活を2カ月も続けているせいで、やはり胃袋が小さくなってきているのだろうか?かなりの満腹感、食べ過ぎ感、罪悪感。

   こんなときだけ釈迦頼み
 しかし、こういう自分へのご褒美、たまには許そう。お釈迦さまも許して下さるに違いない。

 伊福部昭(Akira,Ifukube 1914-2006 北海道)の「交響頌偈『釋迦』(Symphonic Ode “Gotama The Buddha”)」(1988-89)。

 この作品についてはこちらそちら、あるいはこんなところをご覧いただければと思うが、今日は石井眞木指揮新交響楽団、合唱団OMP、千葉大学合唱団による演奏のCDをご紹介。

 石井が指揮する伊福部作品の演奏は、師に対する尊敬と愛情が感じられるものばかりだが、この「釈迦」もそう。ただし、「釈迦」ではそこからくる(と思われる)丁寧さが、盛り上がる箇所で遠慮がちにとどまっているのが惜しい。
 つまり、第1楽章あるいは第2楽章の女声合唱の部分は美しくときに切ないが、第2楽章の野蛮な男声合唱部分や終楽章では聴いていても血が沸騰してこない。オスティナートの表現が弱く、ぬるま湯で作ってしまったカップ麺のような無念さが残る。
 石井らしくない気がしないでもないが、師とお釈迦様に対する畏敬の念の表れか?

 1991年ライヴ。フォンテック。

 そういえば、昔札幌にシャカマンダラってディスコがあったが、あれって釈迦曼荼羅だったわけだな。いま気づいた。遅すぎるな。
 でも、行ったことなかったし……

 今日は伊福部昭の生地、釧路に出張である。

試作したが成功とは言えず……♪ライリー/In C(by Piano Circus)

Reich6Pianos   がんもどきよりはそれらしいが……
 阿古屋係長が無関心であろうと、日曜日の夜、さっそく私は実験してみた。
 ウナギのかば焼きもどきの試作である。

 当初の考えどおり、食材はチクワとハンペンに狙いを定めた。

 まずチクワ。

 ご存じのようにチクワは竹の輪のようになっているが、竹の輪ってのは何だい?とも言いたくなるものの、その胴体を縦半分に切り、雨どいのような形にする。
 このように書くとたいそうな作業のよう

だが、なんのことはない、ただ包丁で縦に切るだけである。

 それを半分の長さにする。いや、押し縮めるのではなく、切る。
 これらのプロセスによって、4本入りだったがゆえに、これで4×2×2=16片の白焼きモドキが準備された。

 フライパンに薄く油を敷き、まずはただれた皮膚のような面、つまり表面を下にして焼く。
 そのあとひっくり返すが、こちら側はC型になっているためフライパンの底には接しない。そこで、熱を通すために酒を振り、蓋をして蒸らし焼きにする。密かに、蒸らすところがかば焼きっぽいと悦に入る。


 1分ほどして豚丼のたれを入れ、ひと煮立ちさせる。


 皿に盛り粉山椒を振って口に入れると……なんということでしょう!まさにウナギのかば焼きの味!

 でも、食感が全然だめだ。雁の肉に似ているからとがんもどきと命名した人ならこれに騙されるかもしれないが、私はこれをウナギもどきとは呼べない。
 食べたときに口の中でふわっとしなければだめだ。チクワの硬さは主張が強すぎる。もしこれをチワワが食べてもチクワだと気づくだろう。

 次の素材。
 ハンペン。

 これはもっとダメだった。同じように調理したが、出来上がったものはチクワよりも弾力が強く、食感が悪い。
 おでんなんかでハンペンを煮込むと、最後は自己崩壊するくらい柔らかくなるくせに、意外だった。
 一度煮てからかば焼き風にすればいいのだろうか?いや、べちゃべちゃになるな。

 ということで、今回の実験では食感以外はほぼかば焼きを再現できた。
 そのうち、焼豆腐や揚げ豆腐でトライしてみようかと思っている。
 土用の丑の日まで、なんとかなるだろうか……


   で、断面がCの形っぽかったということで……
 ライリー(Terry Riley 1935-  アメリカ)の「イン C(In C)」(1964)。

 ミニマル・ミュージックの元祖的作品で、テンポ、強弱、使用楽器、演奏者数、曲の長さを、演奏者は自由にできる。

 この曲は前にも取り上げているが、今日はピアノ・サーカスによる演奏で。

 ここではグランド・ピアノ、アップライト・ピアノ、ロード・ピアノ、チェンバロ×2、ヴィブラフォンを使って演奏しているが、音色の変化があって、なんかダラダラ続くよなぁ~って思いはしない。そしてまた、この編成のせいか、演奏のせいかはわからないが、ライリーが影響を受けたインド音楽の香りがするのが不思議。
 1990年録音。Argo(TOWER RECORDS UNIVERSAL VINTAGE COLLECTION)。
 
 ネットを見ると、ウナギのかば焼きの代用メニューって、けっこう載っているんだな。
 みんな同じこと考えてるんだな。

 マゼール氏、ご逝去。黙祷……

今日も10番……たこじゅう!♪ドホナーニのDSch/Sym10

ShostakovichSym10Dohonanyi   ドホナーニ唯一のショスタコ
 昨日に続き、今日も10番。

 マーラーとともに私の大好きなショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)。そんな彼の交響曲第10番ホ短調Op.93(1953)。

 “新・読後充実度”になってから、ショスタコーヴィチを取り上げるのは初めて。
 タコはまだかいなと、充実しない日々を送っていた人は、ふくれっ面で腫れているほっぺたをしぼませて、晴れて充実した気分になっていただきたいものである。

 ショスタコの交響曲第10番は、ショスタコらしく暗い雰囲気、いや実体も明るいとはお世辞にも言えないし、愛称もないので広く親しまれているわけではないが、彼の交響曲の中でも傑作の1つである。

 “読後充実度 84ppm のお話”(つまり旧ブログ)でも、作曲者の息子マクシムプレヴィンショルティゲルギエフインバルコフマンなどといった指揮者たちの演奏を取り上げてきたが(おっと、ペトレンコを忘れちゃいけない!)、今日はドホナーニがクリーヴランド管弦楽団を振った演奏。

 ドホナーニがショスタコを録音していたとは、私はちっともドホナーニだったが(シャレにも何にもなっていない)、この第10番が彼の唯一のショスタコ録音だという。
 しかも20年にわたって廃盤だったそうで、タワレコのVINTAGE COLLECTION +plusのVol.18として再発売された。

   こんなにすごいのに、これだけなんて……
 ドホナーニの演奏は、どのCDでも聴いても比較的地味である。地味であるという言い方が失礼なら、大げさに見栄を張るようなところがない。堅実で間違いないのだが、そういうところが、そうじゃない演奏のディスクに売り上げでは負けるのかもしれない。

 このショスタコはどうか?
 ガンガンやらないが、必要十分。上品だ。第1楽章なんて、こういう演奏もあるのかってくらいカンタービレっちゃっている。
 端正だが、オーケストラの響きは十分で、しかもだらけるところがない。
 つまり、かなり良い演奏なのだ。

 交響曲第10番の録音では、なかなかこれだ!っていうのに出会わない。
 パワー面で満足させられても情感不足だったり、情感過多で溺れちまったり……
 その点で、ドホナーニのバランスはすばらしい。

 D-S-C-Hの音型の動機に作曲者は何を込めたのか?
 そういう余計なことを考えないで、純粋にシンフォニーを味わいなさい。ドホナーニはそう訴えているかのようだ。
 かなりお薦め!(なお、このCD、初出のときには“レコード芸術”誌で特選だったそうだ。知らんかった)

 1990年録音。デッカ。

  話は変わるが、ときどきうな重を無性に食べたくなる。
 しかし、ウナギは人を馬鹿にしているのかというくらい高い。

 ところで帯広名物の豚丼(牛丼チェーンの出す豚丼とはまったく別物)は、鰻丼をヒントに考案されたという。
 確かに豚丼の上に粉山椒をかける店もある。
 味はうな重に似ているが、食感は違う。

 となれば、ウナギの食感に似たものを焼いて豚丼のたれをからめればウナギのかば焼きのようになるのではないか?
 私はいま、秘密プロジェクトを組んで、その開発に取り組んでいる。プロジェクト・メンバーは1人だが。

 先日、阿古屋係長にそのことを話し(その瞬間に秘密ではなくなってしまった)、私が今考えている食材はチクワかハンペンだと言ってみたが、まったく同調してくれなかった。

ほたるイヤとかヤラ揚げとか……♪GM10-Adagio(by 若杉)

Mahler09Wakasugi   遅いのに高い場合も
 先日、久しぶりに帯広から札幌まで特急“スーパーおおぞら”を利用した。

 久しぶりに、というのは、私はいつも“スーパーとかち”を使うからだ。

 なぜならば、往復をスーパーとかち利用限定の切符にすると、通常の(スーパーおおぞらにも乗れる)往復料金よりも安くなる。
 また、おおぞらで使われている車両よりも、とかちの方が新しくて乗り心地が良い。

 さらに、以前はおおぞらの方が速く、帯広・札幌間の所要時間が短かったが、一連のトラブル後に改正された現在のダイヤでは、必ずしもおおぞらの方が速いわけではない。
 ついでにダメ押すと、とかちの方がおおぞらよりもすいている。

 このように某牛丼のキャッチフレーズっぽく言うなら、スーパーとかちの方が、“安い、速い、すいてる”のである。

 が、この日は時間的におおぞらを利用するしかなかった。

 乗車して驚いた。
 思った以上に揺れが激しい。エンジン音もとかち型よりうるさいかも。

 帯広から新得までは平野部を走るのだが、スーパーとかちよりも揺れが大きい。また、穴ぼこだらけの道を走っているような、ガタン、ガクッ!という上下のショックもある。これ、レールの上を走ってるんですよね?
 サスが良くないせいか?

20140710Cafe 停車駅に侵入する前など、ポイントを通過する際、しばしば「この先揺れることがありますのでご注意ください」と、爽やかな男性の声でアナウンスが流れるが、そうじゃないところでも真剣に揺れる。

   キャップは踊る……
 車内でボトル型の缶コーヒーを飲んでいた私だが、その揺れでテーブルに置いてあったキャップが転がり落ちた。十勝清水までまだ行っていない、御影駅あたりだ。

 いや、断っておくがテーブルを手荷物で持ち込んでそれをキャンプのときのように広げたわけでは、もちろんない。前のシートの背面にある、あのテーブルである(イメージ写真をご親切に載せておく)。

 キャップは回転しながら私の太ももで跳ね、床に落ちた。

 次の瞬間、私の頭の中に。マーラーの第10シンフォニーのアダージョの、あの大爆発の音が悲劇的打撃的に鳴り響いた。

 ズボンの左右の太ももに数カ所、点々とコーヒーが飛び散っていたのだ。キャップの裏面に付着していた滴が染みついたのだった。こういう日に限って、薄いグレーのスーツを着ていた、運がうんと悪い私。こげ茶色にしておけばよかった……(もってないけど)。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第10番嬰へ短調(1909-10)。
 第1楽章(アダージョ)のみが完成している作品である。

 作品についてはこちらをご覧いただければありがたいが、アルムシ(妻・アルマの愛称)の浮気を知り苦しみながら書き進めたマーラーだったが、結局完成させることはできなかった。まっ、アルマの浮気と未完成と自身の死がどこまで関係しているかはよくわからないが。

 とにかく、ズボンにシミがついた事実を目の当たりにした私の頭の中で、第1楽章第147小節目の不協和のグワァァァーンというオケの大爆発(カタストロフ)が鳴り響いた(掲載した楽譜の箇所。これは全音楽譜出版社刊のスコア)。

 ただし、公共交通のなかで大騒ぎするわけにもいかず、もちろん何の関係もないワゴンサービスのお姉さんに「どないしてくれるんや!」と言いがかりをつけることもできず、たまたま濡れ濡れティッシュを持っていたので、それでポンポンと叩くように拭けば、「あれは夢だったのね」みたいに、跡形がなくなりハッピーエンドに至ると判断した。
 だから、このとき大脳皮質が奏でた音も、あまりフォルテッシモしていないどこか冷めた感のある、若杉が出すような響きだった。問題のコーヒーについても冷えた缶だったし。

Mahler10Score 若杉/都響のこのアダージョの演奏は、冒頭からしてあんまりなまめかしくない。良く言えば達観した感じ、悪く言えば作品にあまり共感していない感じ。最大の聴きどころ、驚き場所のカタストロフもあまり力が入っていない。
 なんだか、不思議な演奏だ。
 いや、妻の不貞に意気消沈、気合が入らないマーラーの気分を表現したのかもしれない(とは思ってないが)。

 1991年ライヴ録音。フォンテック。

   居酒屋でお勧めの耳飾り
 さて、左ももに2カ所、右ももに1カ所のシミ。

 濡れティッシュの水分が乾くと、なんとシミはリング状に広がっているではないか!3つとも。

 本来のシミの部分はほぼ消失したが、直径が大きくなって環状星雲のようなリング状になった。シャーレで培養したバクテリアのコロニーの中央に抗生物質を垂らすと、こんな感じにならなかったっけ?

 そういえば、この間居酒屋に行ったときのことだが、本日のおすすめということで筆文字風の手書きの紙を店員さんが持ってきた。
 そのなかにイヤリングっていうのがあった。

 「あのぅ、このイヤリングってなんですか?」
 「えっ、イカリングです」

 カはちゃんとカって書いておくれよな。ヤみたく書くな。つーか、筆ペン使うの苦手なら、ふつうのペンで書きなさい。もっとも、ふつうに書いてもカとヤがわかりづらい人もいるけど。ちなみに私、ひらがなで書くのがいちばん苦手なのは“ふ”である。

 あらあら、本日のおすすめに書かれているお品には、ヤキフライもあればヤニミソもあったわい。

 にしても、最初に付いたシミが社会の窓あたりじゃなくてよかった。
 社会の窓を囲むように浮かびあがる環。その環の中央が開き姿を現わしたものは……いや、サンダーバード1号ですけど……

 いずれにしろ、リング状のシミはそんなに目立つものではなかったのでそのままにしたが(移動中にそのままにする以外、どんな手立てがあるというのだろう?)、妻によるとこれはクリーニングに出すしかないということだった。

 昨日はプライベートで自宅に戻った。
 都市間高速バスを利用したが、座席番号は10番だった。
 が、バスはアダージョのように遅くはなかったし、エンジントラブルで爆発することもなかったし、私もコーヒーをこぼすことはなかった。乗り込む前に買ったのがコーヒーじゃなくて、ミネラルウォーターだったから。このように、学習効果によって危機管理意識が高まったのだ。

 今日は自家用車で戻る。

シンブン3ヘンゲ。そののち湿気取り♪シューマン/Sym4(by シャイー)

SchumannChailly   札響のヴェルレクは高評価
 昨日ちょこっと取り上げた「霊長類ヒト科動物図鑑」(文春文庫)。

 そのなかで向田邦子は、新聞を大まかに3つに差別している、と書いている。


 1つは、ざっと目を通したがまた読むためにすぐに手が伸ばせるところに置いてあるもので、まさしくシンブン。これが日付が変わって新聞紙(シンブンシ)となり、さらに3日から1週間経つと新聞紙がシンブンガミとなる、というのだ。
 うまいこという。


 もはやシンブンガミになってしまったが、8日付の北海道新聞夕刊に札響第570回定期演奏会の批評が載っていた。
 評者は北海道情報大学教授の三浦洋氏。「音符が少なくなり、テンポも緩む部分においては、散漫に経過しないよう一層高い集中度が求められよう」とあるものの、画期的演奏と褒めたたえている。

 三浦教授は私と同じB日程の公演を聴いているのだが、私が気になった会場の奇声や雑音については触れていない。あのときは私の気の方がふれていたのだろうか……


   この夕刊の別のページに載っていた美談
 この日の夕刊には、あのワンダーランド・コーナーである“はいはい道新”に、そのまま見過ごすわけにはいかない話が載っていた。


HaiHai20140708 ある女の人(つまり、コーナー担当に電話してきた人)が、朝の8時前に24時間スーパーで買い物をしていたところ、店内に「午前8時前に酒類をお買い求めいただく際は年齢確認が必要です」というアナウンスが流れたという。この女性、ビールを買ったのだが、困ったことに年齢を証明するものを持ち合わせていない。きっと真面目な人なのだろう。家に帰って免許証を取って来ようかとレジの人に申し出たのだそうだ。しかし、「そのお気持ちだけで、けっこうです」という柔軟な対応で、この女性、レジ係に助けられた、という話だ。
 

 なんと臨機応変、融通の利く店員だろう!

 でも、私は思う。
 この女性、札幌市・主婦、58歳、とある。

 ってことは、見た目が何よりの証明になったのでは、と……


   調子が良いときのシューマンはこんな感じ?
 さて、向田邦子氏のエッセイに話は戻るが、彼女が子どものころ、雨の日に来客があったときには、客人のジメジメと濡れてしまった靴を乾かすために、中に新聞紙を入れる役割をさせられていたそうだ。

 ジメジメといえば、シューマン(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の交響曲第4番ニ短調Op.120(1841/改訂'51)。当初は「交響的幻想曲」という標題を持っていたが、不評だったために10年後に改訂し、交響曲第4番として出版した。

 ほの暗く、隠花植物的陰湿感。陽の光が届かない密林の地面に不気味に咲くギンリョウソウのよう。
 私がこの曲に持つイメージだ(けど、好き)。

 マーラー編曲版を用いたシャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏は、そういうイメージを相当払拭するものだ。ギンリョウソウがクロロフィルをもったかのように。

 マーラーによるオーケストレーションの仕掛けのためなのか、シャイーの料理の仕方のせいなのか、あるいは両方の合わせ技の結果なのかはよくわからないが、キビキビとしていて、シャープで、どよぉ~んとするところがない。
 病的じゃないなんてこの曲らしくないといえばないのだが、退院のめどがついていきなり元気づき、隠れてコンビニのカルビ丼弁当を食べてる胃潰瘍患者のようで、このほのかに漂う幸福感は、意外といける。
 逆に、気が滅入ったときに聴いても、絶望的に追い打ちをかけられることはない。そんな演奏だ。

 2006年録音。デッカ。

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