IfukubeRIN  汚れちまった悲しみに
 買ったばかりのコートにシミをつけてしまった。

 先日、コートを着たまま列車内でそそくさと天むすを食べたときのこと。
 ご飯粒数個が崩落し、コートの胸のあたりを転げ落ちたが、想像以上に具のエビの天ぷらから油をたっぷり吸いとってらしく、そのあとが点々とがっつりシミになってしまった。

 私はこのような痛みを伴って学習した。
 パッと済ますにせよ、食事をするときはコートを脱ぐに限る。
 事情が許せば、全裸になって食べるに越したことはない。


 そういやぁ、むかし「汚れちまった悲しみに」という石渡日出夫(Ishiwatari,Hideo 1912-2001)の歌曲が入ったLPを持っていたなぁと思い出した。中原中也の詩による作品。
 だが、まったくその曲の記憶がない。

 確か伊福部昭の歌曲とのカップリングだったはずで、もっぱらそっちばかりに針を落とし、石渡の曲は全然聴かないで終わったかもしれない。
 ちなみに演奏は、メゾ・ソプラノが中村浩子、ピアノは三浦洋一。ビクター。
 

  何気ないことが病的に気になる
 さて、このようにショックなことが起こると、変に何気ないことが気になりだす。

 札幌を出発し新札幌駅のすぐ手前の沿線に建っているアパート。“ハイツ ミストラル”と書いてあるが、なぜミの字だけ傾いているのだろう?

 あるいは車内で入口ドアの上にある横長の液晶画面。
 AIR-G提供の文字放送でニュースが流れているが、FM北海道の愛称がなんでAIR-Gなんだろう?Gってどういう意味なんだろうと気になってしょうがなくなる(その後、解決済み)。

 さらに、文字放送がトンネルの中でどうして通信が途切れないのだろうと不思議に思う。

 そんな私の過敏な精神などおかまいなく、列車はすでに寒々しい姿に変わった木々の間を快調に進んだ。


  幻の楽譜は実は作曲者の手元にあった
 伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の音詩「寒帯林(Arctic Forest)」(1944)。

 うすれ日射す林/杣の歌/神酒祭樂の3つの楽章から成る。


 私はまさにうすれ日射す、寒い地帯の林を車窓から眺めていたのだった。
 って、すっかり心が弱っているな……


 第2楽章の杣は“そま”と読み、木の伐採の仕事をする人(いわゆる“きこり”=杣人)のことを指すが、もともとは材木を切りだす山(杣山)や切り出した材木(杣木)の意味である。


 先日取り上げた「伊福部昭の芸術10 凛 初期傑作集」に収められているこの作品、私にとっては聴くのが初めて。


 「寒帯林」は、満州国からの依頼で書かれ1945年に新京で初演(山田和男/新京交響楽団)されたあと、楽譜の行方がわからなくなっていた。
 中国当局が管理しているらしいということで、楽譜を戻してもらうべく関係者が骨を折ったものの、色よい返事は無し。
 ところが伊福部氏が亡くなったあと、遺品の中からオリジナルの楽譜が発見されたのだった。中国にあるといわれている楽譜は、本当に保管されているのなら、それはコピーということになる。


 遺品から発見された楽譜に基づく演奏は、2010年に本名徹次/オーケストラ・ニッポニカによって行なわれており、そのライヴ盤も出ている(EXOTON)

 果たして伊福部センセは楽譜が自分のもとにあることを本当に知らなかったのだろうか?
 戦争がらみのこの曲、もしかして表に出したくなかったのでは?なんて勘繰ってしまう。

 関係ないが、カン・タイリンって、その国の人の名前みたい。


 曲はすでに良く知っているメロディーがカタログ的に現われるもの。 
 しっとり感や土臭さといった伊福部の魅力がこの曲にも凝縮されている。

 「日本狂詩曲」や「土俗的三連画」では、その後の伊福部作品にモロに直結するようなメロディーは少ない。この「寒帯林」において、映画音楽を含むその後の伊福部の世界が確立されたのだと感じる。


 そして、実際この曲には「ゴジラ」のテーマも現れる。
 このテーマは1948年に書かれた「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(のちの「ヴァイオリン協奏曲第1番」)のなかにルーツがあると言われてきたが、それよりも前の「寒帯林」ですでに登場していたわけだ。
 カンさんもびっくり!MUUSANニッタリである。


 指揮は高関健、オーケストラは東京都響。
 2014年セッション録音。


 なお、高関/札響による「日本狂詩曲」と「土俗的三連画」はすでにご紹介したように定期演奏会のライヴ。が、拍手が見事にカットされているのが残念である。個人的には。