ただ置かれているだけでは……もう何年も再生しておらず、もはや棚の中でお客さん状態になっているCDを久々に聴いた。
先日取り上げた山田一雄による伊福部昭の「日本狂詩曲」の場合とは事情がまったく異なる。あれはあらためてこの演奏が果たして標準的だったのか、偉そうに確かめるべく久々に聴いたのだが、今回は違う。
私にとってこれから先も所有しておく意味があるのかどうか確かめるべく聴いたのだった。
CDが増える一方で棚も朝の中央線のラッシュ並みに満杯だ。
となると、もう聴く可能性がほとんどないものは処分した方がいい。
いや、私の好みには向かなくても、それを探している人がいるかもしれない。ならば、徐々にそういうディスクはオークションに出していくのが世のためだ(価値判断があいまいなBOOK OFFにはもう持ち込まない)。
往年の名演ということはわかる気がする
今回生け贄となったのは、シューリヒト/パリ・オペラ座管弦楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲第40番ト短調K.550と第41番ハ長調K.551「ジュピター(Jupiter)」(ともに1788)である。
このCD、手にしたのは1995年頃なのだが、いったいどこでどういう決意を抱いて買ったのか、さっぱり思い出せない。そもそもシューリヒトという指揮者に私はほとんどなじみがないのである。
宇野功芳氏によると、シューリヒトは、
・ 最も渋く地味な、通好みの指揮者だった
・ 実力を認められたのはすでに75歳の高齢に達していたときだった
・ その後ウィーン・フィルから神のように尊敬された
・ ブルックナーとモーツァルトをレパートリーの柱とした
・ モーツァルトではオーケストラ、録音とも二流だが、63年のスタジオ録音、パリ・オペラ座管弦楽団盤を推したい
・ というのも、ひょうひょうとした流れの中に無限のニュアンスを湛えた名演だからだ
ということである(ONTOMO MOOK「指揮者とオーケストラ2002)。
宇野氏が推しているのCDが、私が生け贄にしようとした40番&41番のものかどうかはっきりしないが(このCDには録音年の表記がない)、これのライナーノーツを書いているのも宇野氏だから、このディスクである可能性はなくもない。
が、その前に「とくに《プラハ》が得意中の得意だった」と宇野氏は書いているので、第38番「プラハ」のことを指している可能性は低くない。
ただ、第40番も41番も、宇野氏の言うように「ひょうひょう」としている。そして、宇野氏が指摘するように録音はイマイチである。そこは矛盾しない。
今回聴いてよみがえった思いは、やっぱりこのアプローチ、私の好みじゃないというもの。
いわゆる“昔のモーツァルト演奏”の枠内にあり、ひょうひょうとしてはいるものの、それでもやはりまぁ~ったりしていて、音楽が長く感じる。
私の耳が、感性が、性格が悪いのかもしれないと、宇野氏に申し訳なく思っていたら(←ほとんどウソ)、次のような文章に出会った(←前から知ってたわけだけど)。
いったい、どちらが本当のシューリヒトなのか。一気呵成、風のように駈けるモーツァルト《プラハ》と、テンポを変転させながら濃厚なロマンの香りむせぶブラームスの《2番》。しかも、モーツァルトでも《第40番》のフィナーレや《レクイエム》は後者のスタイル、ブラームスの《3番》は前者という具合に、まったく予測がつかない。
これは福島章恭氏が「クラシックCDの名盤 演奏家篇」(文春新書)の、シューリヒトのページで書いている文。
つまり《40番》は濃厚なアロマ、いや、ロマンの香り漂う演奏ってこと。
よかった、私1人がそう感じているわけではなくて(ロマンたっぷりのモーツァルトは、ワタシ苦手アルヨ)。
もちろん、こういう演奏が好みだという人がいることもよく理解はできる。
福島氏は“演奏家篇”の前著である「クラシックCDの名盤」(同)でも、シューリヒトの第40番を取り上げている。
シューリヒトの音楽には、天空を駆けるための翼がついており、人間的な感情の表出には、理性、智恵のフィルターが働く。
ロマンの灯の揺れる《40番》では、第1楽章の展開部、対位法的な葛藤の高貴さは《プラハ》以上であり、第2楽章の儚さ、メヌエットの意志力も忘れ難、終楽章の知的なテンポ操作は、「フィナーレが小さい」という全曲のバランスを巧みに是正して見事である。
なお、ここでは〔仏ADES '64〕と、レーベル名と録音年が記されている。
一方で第41番については、私の知る限り誰も絶賛していない。
なんででしょう?
DENON。
うわっ!中古高い!
ということで、これは売りに出すことにした。
そのうち某オークションに出品するので、暇な方は探し当ててみては?うふっ。
もちろん、私はそんなに高い値付けはしないつもり。

そうなんですよねぇ。手放したけどまた聴きたくなる。それを恐れて今一つ大胆に踏み出せないのです。