Sakkyo233a  「日本狂詩曲」といえば、ずっとこれだった
 久しぶりに山田一雄/新星日本交響楽団による、伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「日本狂詩曲(Japanese Rhapsody)」(1935)を聴いた。

 この作品、そして演奏に出会ったのは1983年のこと。
 LPで「ラウダ・コンチェルタータ」(初演ライヴ)とのカップリングで出ていた。

 私は1983年1月20日に行われた札響定期で「ラウダ・コンチェルタータ」を耳にし(指揮は山田一雄)、すっかりメガトン級の感動に打ちのめされ、この日から伊福部崇拝者になった(写真は当日のプログラムから)。

 あるわけないと思いつつも、コンサートの翌日に玉光堂ススキノ店(当時は札幌駅前通りにあった。現在はラフィラの中にあるが、クラシックのCDは嘆かわしいほど少ない。置いたところで嘆かわしいほど売れないのだろう)に行くと、なんとその「ラウダ」のLP(初演ライヴ)があったのだ。100万円の札束のように購入したそのLPを大切に持って帰り、早速かけたのだが、まさに感動がよみがえった。

Sakkyo233b おそらく、このLP(「ラウダ」の面)は、LPとその後のCD時代を通算しても、これまで私がいちばん多く繰返し再生した音盤だ。まさに擦り切れるまで聴いたって感じであり(でも実際には擦り切れなかった。LPは少なくとも靴下の先より丈夫だ)、こんなに繰返し聴くディスクはこの先もないと思う。

 このLPのもう1つの収録曲「日本狂詩曲」だが、実はこちらはすごく好きになったわけではなかった。
 第1楽章「夜想曲(Nocturne)」はどこかコクというか味わいが希薄。第2楽章「祭り(Fete)」は騒がしすぎると感じたのだった。

  山田流は速すぎる
 それがずっと年月が経ち、「日本狂詩曲」の他の演奏もCDで聴けるようになると、この曲に対する私の思いはガラッと変わった。

 「夜想曲」の妖艶ともいえる美しさと深い味わい。
 「祭り」の複雑にからみ合う音の妙。

 特に今年5月に行なわれた札響定期で初めて生で聴いたときに、とりわけ「祭り」がただ騒々しいものではないことを切に感じたし、CDでは今年になってリリースされた岩城宏之/都響の演奏で、このテンポこそが作品の本来の姿なのだろうと確信した(高関/札響のライヴも間もなくリリースされる予定だが、岩城同様のテンポであったはずだ)。

IfukubeRhapsody ちなみに山田/新星日響の演奏時間は6'51"/6'56"。これに対し岩城/都響のは7'25"/8'37"となっている。

 また、他の手持ちのディスクをあらためて確認すると、やはり山田のは突出して速い(なかには岩城盤よりさらに遅いものもあった。札響定期で聴くまで私があまり「日本狂詩曲」の熱心な聴き手ではなかったせいだろう。そのことは、あまり意識していなかった)。

 私は「日本狂詩曲」を山田の演奏で知り、長い間この演奏しか知らなかった。
 録音(音質)の悪さもあり、「祭り」では音が絡み合った毛玉のように聴こえた。
 だからこの曲の魅力がなかなかわからなかったのだ。妙な言い方になるが、これならチェレプニン賞という賞をとったのにも納得がいく。

 が、山田の功績はそれが傷にならないほど大きい。
  「日本狂詩曲」が作曲されてから45年経って、初めての国内舞台初演となったのがこのライヴなのだから。

 そしてまた、このときの“伊福部昭の世界”という伊福部作品連続演奏会を企画した新星日響の池田鉃氏の存在抜きでは、現在の伊福部に対する高い評価、あるいは伊福部の純音楽作品の再発見はなかったかもしれない。
 その池田氏は、企画したコンサートを聴くことなしに交通事故で亡くなった。
 
 なお、録音のことに触れたが、「ラウダ」の方も音が乾いた感じでマリンバの音は死んだガイコツを思わせる(生きたガイコツっていないらしいけど)。が、大太鼓の音はなかなかいい。