夢を与えておいて落とす悪い男
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第9番変ホ長調Op.70(1945)。
(第8交響曲への)不満が強まり、鬱積していった。わたしはファンファーレを作るよう要求され、頌歌が必要だと言われ、荘厳な第九交響曲を書くことが要求された。この第九番についていえば、ひじょうに不幸な結果となった。つまり、攻撃が避けられないのはわたしにもわかっていたが、これが第九交響曲でなかったなら、その攻撃はもっとあとになってから、あるいはそれほど激しくないかたちで加えられたかもしれない。……(中略)……
わが国が勝利のうちに戦争を終結し、どれほどの犠牲があったにせよ、肝腎なのは勝利したことであり、帝国が領土を拡大したことである。そこで、四管編成のオーケストラと合唱と独唱による指導者への讃歌を書くことがショスタコーヴィチに要求された。ましてや、第九番の交響曲の第九という数字はスターリンにふさわしいものに思われていた。 ……(中略)……スターリンは、自分に敬意を表して作られる交響曲が傑作になるにちがいないと考えていた。これこそ、わが祖国の第九交響曲になるにちがいない。
白状すると、「指導者にして教師」に夢を与えたのはわたしだった。わたしは讃歌を書いていると公表していたのだ。このことについては明言を避けたいと思っていたのだが、そうはゆかなかった。わたしの第九番が演奏されたとき、スターリンはひどく腹を立てた。彼は自分の最良の気分を傷つけられたのだが、それは合唱もなければ独唱もなく、讃歌もなかったからだ。しかも、自分にたいするわずかばかりの言及さえもなかった。スターリンにはよく理解できない音楽と、疑わしげな内容があるばかりだった。
(S.ヴォルコフ「ショスタコーヴィチの証言」:中央公論社)
あなたのジンはどのタイプ?
上の文中にある“かんじん”という言葉-もちろん意味は、非常に大切であること、だ-には2つの漢字がある。
肝心と肝腎である(「他にも、漢人とか閑人なんかがあるだろうに」という、あげ足取りはこの際無視する)。
人の体にとってとても大切なものに由来するが、共通するのは肝、すなわちレバー、いわゆる肝臓。
もう1つは、心臓か腎臓ということに分かれる。
でも、心臓の方が大切だと私は思うのだが……
そういえばボレー粉ってなんでしたっけ?
昨日はマーラーの交響曲第9番を取り上げた。
マーラーも「第九」のジンクスを気にし、第8交響曲の次の交響曲(と同時に連作歌曲でもある)には番号を付けずにお「大地の歌」とした。そして10作目となる交響曲に9番の番号を与えた。
ここで危険は去ったと考えたようだが、それに続く第10番を完成させることなく亡くなった。
ショスタコーヴィチは壮大なる第9番を書くと死ぬ運命にある、と考えたかどうかは知らないが、書き上げた第九交響曲はコンパクトなものだった。が、別な意味で、命の危険にさらされるほどの物議をかもしたのだった(⇒関連記事はこちら)。
今日はボレイコ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏を。
先日取り上げたテミルカーノフよりも現代的な雰囲気が漂う演奏。
第9番はコンサートでもほとんどの場合前座の位置づけにあり、またCDでもショスタコのほかの大きな作品(多くは第5番)についでのようにカップリングされるおまけ的存在だが、この演奏はそんなイメージを払拭してくれる。
想像するに、これまでは初演時のエピソードにみんな呪縛されていたのではないだろうか?
つまり、確かに期待に胸ふくらませていた多くの人々は肩すかしを食ったが(その前に、リハーサルの段階でどんな曲か情報が漏れださなかったのだろうか?)、その出来事を意識しすぎてこじんまりとした遠慮がちの、矮小化した演奏に傾きがちだったように思うのだ。
でも、このような「後ろめたいことなんて何もない。伸び伸びやろうぜ」という表現は、不幸な誕生エピソードを持ったこの曲に対し、色メガネから解放してくれる。
2009年ライヴ録音。ヘンスラー。

すいません。フライングで1日に2本投稿してしまいました。タンジー編は本日の記事です。
確かにスターリン讃歌なら、いまでは演奏が忌避されていたかもしれないですね。だとしたら、ショスタコーヴィチは賢明だったということになります…(凄)。