20140920Plune1  アタシは木ぃ~を切る~
 金曜日。
 午後に札幌の家に戻った私は、雨が降ったりやんだりのなか、プルーンの木の枝をギコギコと切った。

 なぜギコギコかというと、ノコギリで切ったからだ、ノコギリだからギコギコ。少なくともギリギリよりはふさわしい表現だ。
 でも、精神力はギリギリだった。枝というよりも太い幹も切ったのだが、何度途中で棄権しようかと思ったことか!

 この木の苗を買ったのは今から15年ほど前。
 そのときは高さが1mほど、幹の太さも下部の太いところでも1cmほどと、つまりは杖にも使えないほど華奢で頼りないものだった。

 それが今や、かわいらしくもないほど武骨になってしまった。
 このままだと家に引き込んでいる電線に枝が届いてしまう。

 なぜここまで放置させてきたか?
 大きくなればそれだけ実も多くつくと考えたからだが、ここ数年めっきり実がつかない。
 切らなかったもう1つの理由は、枝も太くなってしまい、ノコギリで切るしか方法がなくなったからで、つまり面倒だったわけだ。

20140920Plune2 しかし、大きくなれば木の上の方を殺虫殺菌できないという問題がある。
 実際、ここ数年の不作は虫や病気によるものと考えられる。早いうちから葉が散り始めるし……
 もし豊作になったとしても、上の方の実の収穫は大変なことになる。

 そこで今回、一念発起して大胆に切ることにした。

 切った枝や幹の分量に驚かれたことだろう。驚かなかった人は、これを機に驚いて欲しい。なお、レンガは今回の伐採と関係ないことは、言うまでもない。
 切ったあとの木の姿は……なんかみじめったらしい。

 そんなわけで、大胆ともいえる演奏を。

  オルガン付きではなく、オルガンが主役のよう
 ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、マーシャルのオルガンによるサン=サーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921 フランス)の交響曲第3番ハ短調Op.78(1886)。終楽章の大胆さ、ワイルドさが超気っ持ちいい、不良的爆炎。

 「オルガン付き」と呼ばれることもあるこの交響曲だが、むかしある雑誌に載っていたジョーク集に、この曲にまつわるこんなのがあった。

 「おい、このレコード、ポスター付きって書いてあるぜ」
 「なんだよそんなの。こっちはオルガン付きだぜ」

 うける人にはウケるんだろう。きっと。

 ヤンソンスの演奏は、オーケストラを伸びやかに歌わせるが、実に引き締まったもの。多くの演奏よりも一段上のスケール感がある。しかしながら決して重々しくならないのが、この曲にふさわしい。細かいところもきれいだ。
 第1楽章第1部は上に書いたのがそのまま当てはまるし、第2部(実質第2楽章)では冷涼な澄んだ音が、これまた曲にぴったりだ。
 第2楽章に入り、第1部(実質第3楽章)は疾風のごとく進んでいく。メリハリが効いている。

 ここまでもすばらしい演奏の表情が、さらに驚きの変貌を遂げるのは最後の第2楽章第2部(実質第4楽章)。
 この部分はオルガンの強奏で始まるが、マーシャルのオルガンが強奏なんてもんじゃない。ケンカ売ってんのかいってくらいの爆奏だ。
Saint-Saens3Jansons この第4楽章でのオルガンはとにかくすごい。野蛮ですらある。
 オーケストラの音がオルガンにかき消される寸前の響き。破たん寸前を、ぎりぎりのところで維持する。
 このサウンドの中にいるとストレス発散&快感。だが、響きだけではない。これはこれですごい名演である。

 録音は1994年1月19~22日だが、別に“Organ Recorded”として1994年3月17日と記されている。
 ということは、オルガンは別録りだということだろう。

 確かにこれを実際にふつうに演奏したら、オケは自分の音を見失いかねない(指揮者がちゃんとしていればそんな心配はないのか?)。

 別録りっていう技法、私は嫌いである。
 でも、これは許す。録音技術によって成された名演ってことで、ここは私が折れよう。
 英知を結集した現代のテクノロジーと優秀な演奏者との偉業ということにしておこう。
 こんなに恍惚になれるサン3はなかなかない(←Hな意味ではありません)。
  ワーナー(HYDRO)。

 切り落とした枝についている小枝は剪定ばさみで丁寧に切り落とし、さらに細かくしてゴミ袋に入れた。
 問題は剪定ばさみでは切れない太さの幹や枝である。
 まっすぐならまだしも、二股になっていたり、グニャラグニャラと三角関数のグラフのように曲がっていたりで、もうこれ以上は手ノコでの作業は困難だ。

 で、電動ノコギリを買おうと思っている。次回はこの電動ノコギリで、鼻歌まじりで楽々作業ができるはずだ。