1人じゃ店に入れないアタシ
さて、昨日書いたように、私はこのあとホテルを後にして、東銀座駅から浅草線・京急直通運転で羽田空港に向かわねばならない。
このような、特に早朝の出発の場合は何も食べないのが賢明だ。
朝食(といっても、ここの場所の場合はローソンのおにぎりにカップ豚汁ということになる)をとったあとしばらくして、どういうからくりかは不明だが、急におなかがゴロゴロしてきたりすることがあるからだ(実際、なぜかわからないが、昨日東京に向かう飛行機の中で、おなかがいきなり張ってきて非常につらい思いをした。ストローを肛門に差され空気を吹き込まれたカエルのように。私は、「お客さんの中にガスピタンをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と叫びたくなった)。
そういえば、昨夜のホテルへの帰り道、大きな窓ガラスから中がスケスケに見えるお寿司屋さんの前を通った。
この店、いつも気になるのだが、寝る前にお寿司を食べるなんて医者が知ったらおったまげた挙句に激怒するだろうから、ちょいと寄るなんてことはやめた。
実は、このホテルに泊まるときは、いつもここに立ち寄ってお寿司を数個ほお張りたい誘惑にかられるものの、一度も入ったことがない。
私が抱えている本当の理由は、医者がどーたらこーたらではまったくなく、1人で入る勇気がないということなのだ。
そんなわけで、そのままホテルの部屋に帰った。
なぁんだ、このビルだったのかぁ……
昨日の夜行った新橋の店(正確には住所は銀座だが)。
初めて行く店だったが、ビルの名前が以前と変わったらしくちょいと見つけるのに難儀した。
東京は常に変貌を続けている……
名前が変わったといえば、野坂恵子が野坂操壽という名に変わっていたなんて、アタシちっとも知らんかった。
誰も教えてくれないから……
誰だい?寿を操るやつは、って最初は思ってしまった。
野坂恵子は筝奏者。伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)が書いた最後の協奏作品、「二十絃筝とオーケストラのための『交響的エグログ(Eglogue symphonique)』」(1982)の初演独奏者であり、また伊福部は野坂の筝のためにオリジナルの楽曲を書いたり、あるいは自作を編曲している。
野坂恵子は1938(昭和13)年生まれで、母・野坂操壽から生田流の筝を習った。そして今、二代目・野坂操壽を襲名しているのだった。
三木稔の功績
1969(昭和44)年、伊福部の弟子でもある三木稔の協力を得て二十絃筝を開発。さらに、1991(平成3)年には二十五絃筝を作っている。
「二十絃筝とオーケストラのための『交響的エグログ』」についての過去記事はこちらをご覧いただきたいが、のちに伊福部はこの曲のピアノリダクション版を作っている。そして、この版では二十絃筝ではなく、二十五絃筝が用いられている。
が、ピアノリダクション版は、さすがにピアノのパートに苦しいところがある。
オーケストラがゆったりと長く音を持続させるところは、やはりピアノではきつく、息切れしたみたいになってしまう。
筝の演奏には感嘆するしかないが(録音時70歳を超えているのだ)、二十絃筝との違い、すなわち5本増量の効果は私にはあまりよくわからない。
野坂操壽と山田令子(ピアノ)の演奏で。
2012年録音。ゼール音楽事務所。
そういえば、野坂昭如って今どうしているんだろう?
それもまた辛いですね。気圧が血圧に影響をあたえるのでしょうか?私は、昨日も、往路ほどじゃないものの、おなか張りました。着陸後はまったくなんでもありません。精神的なものも加味されているように思います。